第2話:収支の帳尻
雪原に刻まれる足跡は、正確な歩幅で北へと伸びていた。
リアン・ヴァンクロフトは時折足を止め、自身の右肩付近に漂う不吉な色調を観測する。
(……因果の歪みが強まっているな)
勇者という世界の主役から離別した反動だ。
物語の歯車が噛み合わなくなった違和感を、世界というシステムは「リアンという個体の抹消」によって解決しようとしている。
このままでは、遅かれ早かれ不自然な死が訪れるだろう。
だからこそ、対価が必要だった。
世界を欺くための、完璧な偽装死。そのための苗床へ、リアンは半年もの歳月を費やしてきた。
辿り着いたテト村は、雪に埋もれた墓標のように静まり返っていた。
村の端にある、半ば崩れかけた牛舎。その奥の、冷たい風が吹き抜ける一角に、彼はいた。
「……リアン、様……?」
腐った藁の上に横たわる青年、カイルが、濁った瞳を震わせた。
死病に侵され、骨と皮ばかりに痩せ細った肉体。だが、その肌の質感と魔力の波長は、驚くほどリアンのそれに近づいている。
「また会えたね、カイル。調子はどうだい」
リアンは膝をつき、汚れを厭わずにカイルの痩せた手を握った。
半年前、この村を訪れた際に施した仕込み。
勇者たちが「無駄な慈悲だ」と嘲笑した、行き倒れの病人への延命治療。
リアンが送り続けた高価な薬の正体は、肉体の組成を緩やかに書き換え、魔力適性を自分と同一化させるための調整剤だ。
カイルにとって、リアンは自分に生きる意味をくれた唯一の恩人であり、神に等しい存在だった。
「あんたが……薬を、送り続けてくれたおかげで……俺は、今日まで……」
「ああ、よく頑張ったね。……カイル、君に最後の相談があるんだ」
リアンは懐から魔導院の身分証を取り出し、カイルの手の中に握らせた。
冷たい金属の感触に、カイルが怪訝そうに眉を寄せる。
「この村は、もうすぐ限界を迎える。飢えと魔物の脅威に、領主すら見捨てようとしている。……だが、もし王立魔導院の有望な若手がここで死んだとしたら、どうなると思う?」
リアンの声は、優しく、慈悲深い響きを帯びていた。
「役人たちは不祥事を恐れ、村に調査団を送り、多額の弔慰金と食料を投じるだろう。……カイル。君の命を、この村を救うための英雄の礎として使わせてくれないか」
カイルの呼吸が、激しく乱れた。
それは恐怖ではなく、信じがたいほどの法悦だった。
ただ惨めに死ぬはずだった自分が、尊敬するリアンの身代わりとなり、村を救う。
リアンは、カイルの中にある「誰かに認められたかった」という自己愛を、この上なく甘美な劇薬で満たしてやった。
「俺が……あんたに、なれるのか? 俺みたいな奴が、最後に……人の役に……」
「そう。君は僕として死に、僕は君の遺志を継いで、この世界の理不尽と戦い続ける。……君は死ぬんじゃない。僕の一部として、永遠に生きるんだ」
リアンは、カイルの目に宿る狂信的な光を確認した。
完璧な納得。これほどの自己犠牲の意志を伴った死であれば、世界の因果すらも欺ける。
「さあ、飲みなさい。これは苦しみを消し、幸福な夢を見せる薬だ」
差し出された小瓶を、カイルは迷うことなく煽った。
意識が遠のく中、カイルは震える手で、首にかけていた薄汚れたお守り袋を外した。
「リアン、様……。これ……村に残った、妹に……。俺が、あんたのおかげで、立派に役目を果たしたって……伝えて、ほしい……」
「ああ、分かった。約束しよう。君の誇りは、僕が必ず届ける」
リアンは慈しみ深い微笑みと共に、そのお守りを受け取った。
カイルの表情から苦痛が消え、陶酔したような微笑が浮かぶ。
心臓が止まる瞬間、リアンは自身の血液を混ぜた魔力を、彼の全身へと循環させた。
肉体的な特徴、魔力残滓、そして死に際の因果律。すべてが「リアン・ヴェルガ」として上書きされる。
「……おやすみ、カイル。君の人生は、ここで最高潮に達した」
リアンは立ち上がり、静かに納屋を後にした。
すでに外では、以前から目を付けていた魔狼の群れが、リアンの撒いた誘引剤に惹かれて集落に近づいている。
悲鳴が上がり、雪原が血と火で赤く染まり始める。
村が蹂躙される。その混乱こそが、リアンの死を不確かなものにし、追跡を断つための最後の暗幕だ。
右肩を焼いていた不快な熱気が、嘘のように消えていた。
世界という装置は、カイルの死をリアンの死として受理し、その帳尻を合わせた。
燃える村を背に歩き出しながら、リアンは手の中に残っていたカイルのお守りを見つめた。
手垢と泥で汚れた、無価値な布切れ。
「……約束、だったかな」
リアンは足を止めることなく、それを道端の燃え盛る瓦礫の中へと放り捨てた。
布切れは一瞬で炎に包まれ、灰となって夜空に消えていく。
リアンが妹を探すことはない。妹が生きているかどうかも関心がない。
死にゆく者に必要なのは「約束」という名の安心であって、その「履行」ではない。
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