地獄の更生プログラム

 剛念の宿坊での生活は、赤城にとって文字通りの「地獄」であった。かつての地獄は罪人を苛むための場所だったが、ここは「己の限界」を苛むための場所だ。



 翌朝、午前三時。まだ太陽が山肌に触れる前、みたらい渓谷に赤城の絶叫が響き渡った。


「ひぎぃいい! 冷たっ……重っ……もうらめぇ!!」


 名勝・みたらい渓谷。エメラルドグリーンの美しい清流は、この時期、刺すような氷水と化す。その激流の直下で、赤城は巨大な岩を頭上に掲げ、オーバーヘッド・スクワットを繰り返していた。


「声が小さい! 僧帽筋で水圧を受け止めろ! 自然のアイシングを無駄にするな!」


 岸壁に立つ剛念の怒号が、水の音を突き破る。赤城の真っ赤な肌は、冷水と血流のせめぎ合いによって紫に変色しかけていた。



【第一のトレーニング:氷結・水圧プレス】

 この行は、単なる精神鍛錬ではない。冷気にさらされた肉体は体温を維持しようと代謝を爆発させ、水圧は筋肉の深層部までを強制的に刺激する。剛念は赤城に命じた。「豆の衝撃を思い出せ。あの屈辱を、大胸筋を硬化させるためのトリガーに変えろ!」と。


「飯だ。食え。これは『供物』ではなく『栄養』だ」


 水行の後、赤城の前に出されたのは、名水「ごろごろ水」で炊き上げた玄米を使用した柿の葉寿司と、吉野の猪肉ジビエの赤身、そして地元の豆腐を固く凝縮した「大豆タンパクの塊」であった。かつて村を襲って奪い取った酒や脂ぎった肉の味など、忘却の彼方へ消し飛ぶほどのストイックな献立だ。


「味がない…。だが、細胞に染みる…」


「そうだ。美食は舌を喜ばせるが、良質なタンパク質は魂を太らせる。お前の血肉が、今、吉野の霊気と一体化しているのを感じろ」


 午後の修行はさらに苛烈を極めた。



【第二の行:法螺貝ハイパー・ベンチレーション】

 呼吸もまた、筋肉の業である。剛念は赤城に、鉛を流し込んだ特製の大法螺貝を渡し、全力での吹奏を命じた。


「吸って! 肺胞の隅々まで酸素を送り込め! 腹圧こそが鬼の鎧だ!」


 一吹きするたびに腹斜筋が引き裂かれるような痛みに襲われ、酸欠で意識が遠のく。しかし、限界を超えた呼吸は赤城の心肺機能を鬼の領域へと押し上げ、血管を太い鉄筋のように作り変えていく。



【第三の行:鉄下駄トレイルラン】

 一足、五十キロ。特注の鉄下駄を履いて、世界遺産の険しい山道を駆け上がる。


「足を止めるな! 止まった瞬間に、筋肉は『福』ではなく『脂肪』という名の邪気に変わると思え!」


 赤城の足元では、岩と鉄が擦れて火花が散っていた。ふくらはぎは鋼鉄のボルトのように固まり、かつて「鬼の足跡」と恐れられた地力を、現代的な「筋肥大」として取り戻していく。



* * * * * 


 そして、修行開始から半年が経過した頃。赤城の体からは余分な水分と脂肪が削ぎ落とされ、筋肉の一本一本が独立した生き物のようにうごめき始めていた。その背中には、まるで金剛力士像が宿ったかのような、凄まじい「鬼のかお」が浮かび上がっていた。




 修行の最終局面は、大峯山おおみねさんの断崖絶壁――「西の覗き」で行われた。



 通常は命綱を付け、崖から逆さまに吊るされて、親不孝や不信心、己の怠惰を自省する行場である。だが、剛念の手法は根本から違っていた。


「命綱など不要! 己の指先、広背筋ラット、そして鍛え上げた己を信じる心だけで岩を掴め!」


 赤城は、命綱なしで指先だけで崖の縁にぶら下がっていた。眼下には雲海。その先には、落ちれば確実に命を落とす奈落の底。わずかな握力の緩みが、そのまま「死」を意味する極限の静止スタティック・ホールド



「問うぞ、赤城! お前を打ちのめしたガトリングの豆は、何であったか!」


「…ッ! あれは……己の弱さが招いた……ただの…植物片に過ぎません!!」


「お前の内にあるのは何か! 鬼か、魔か! それともゴミか!」


「筋肉ですッ!! 鬼も内、筋肉も内ィィッ!!」


 その時、崖の上には奇妙な、しかし荘厳な光景が広がっていた。


 剛念だけではない。噂を聞きつけた大峰山の先達たち、屈強な修験者たちまでもが赤城を囲み、拍手とともにある「呪文」を唱え始めたのだ。


「仕上がってるよ! 赤城! 背中に大峰山が宿ってるぞ!」


「魅せろ、魂の懸垂チンニング! 崖を壊す勢いで引け!」


「いいよ! 血管の地図が吉野を制覇している! 美しいぞ、赤城!」


 赤城の目から、熱い涙がこぼれ落ちた。


 かつてSNSで晒され、デジタルリンチを受けて泥水をすすった時の屈辱の涙ではない。


 苦痛の先にしかない「全肯定」の光。吉野の「鬼も内」とは、居場所のない魂を、物理的な強度パワーを持って救済し、共に高みを目指すという、最も激しい慈悲の形だったのだ。


「おおおおおおお……ッ!!」


 赤城は雄叫びとともに、指先の力だけで自らの巨体を中空へ跳ね上げた。空中で完璧な懸垂を披露し、そのまま軽やかに崖の上へと帰還した。


 剛念は無言で、赤城の肩に手を置いた。その手は岩のように重く、しかし温かかった。


「…いいバルクだ。もはや、豆ごときに揺らぐ肉体ではない。赤城よ、お前はもう、ただの鬼ではない。筋肉に福を宿した、真の『内なる鬼』だ」


 霧の向こうで、金峯山寺の鐘が再び鳴り響いた。それは修行の終わりではなく、世界へ「筋肉の福音」を届けるための、新たなスタートを告げる合図であった。


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