鬼の筋肉鎮魂歌(マッスル・レクイエム)
川北 詩歩
落日の赤鬼とデジタルリンチ
奈良県、吉野。
千年の歴史を刻む桜の樹々が眠りにつく冬、この地を包む霧はひときわ深く、現世と隠世の境界を曖昧にする。古来よりこの山は、修験者たちが命懸けの修行に打ち込み、あるいは都を追われた者たちが最後に辿り着く救済の地であった。
その霧の奥深く、獣道ですら途切れた急斜面を一人の巨漢が這いずっていた。
男の名は、赤鬼の「
かつては一晩で三つの村を焼き払い、赤ん坊の泣き声だけで飯を大釜で三杯食ったという伝説を持つ、紛れもない「魔」の系譜である。しかし、今その背中に往時の威厳はない。真っ赤な肌は土に汚れ、筋骨隆々としていたはずの肩は力なく丸まっている。
「…ひ、酷すぎる。昔はもっと、こう…豆をぶつけられて『痛い痛い』って逃げる、
赤城は震える手で、ひび割れたスマートフォンの画面を操作した。バックライトの青白い光が、絶望に染まった赤鬼の顔を照らし出す。画面の中では、数時間前の自分の無様な姿がループ再生されていた。
現代の節分は、赤城が知る「古き良き行事」からあまりにも遠く離れていた。
彼が起死回生を狙って参加したのは、都心の代々木公園で開催された「SNS映え・超バズ豆まきオフ会」。赤城は衰え始めた自分の知名度を回復させようと、全盛期の角を研ぎ澄まし、特注の虎皮パンツを新調して気合十分に乗り込んだのだ。
しかし、そこで待っていたのは、伝統的な
「はい、鬼さんターゲット確認! 射程圏内です、回してくださーい!」
「準備いい!? 3、2、1……福・は・内ィ!!撃てーーー!!」
ガガガガガガッ!!!
一斉に火を噴いたのは、最新鋭の
電動モーターの駆動音とともに、秒間百発という物理限界を超えた速度で乾燥大豆が放たれる。赤城の強靭な皮膚をもってしても、その衝撃は無視できない。一粒一粒に込められた現代人のストレスと「邪気」という名の「福」が、赤城の尊厳を容赦なく削り取っていく。
「あべしっ!? お、お前ら、やりすぎ…
赤城が悲鳴を上げて逃げ惑うと、周囲を取り囲んだ若者たちが一斉にスマートフォンを掲げた。頭上では数機のドローンが旋回し、あらゆる角度から赤城の醜態を4K画質で捉えている。
「あはは! 見て、あの鬼、マジで泣きそうじゃん!」
「#鬼退治 #鬼フルボッコ #鬼弱ぇマジで草。これ一晩で100万再生余裕だわ」
画面の中の赤城は、最後には転んで泥水をすすり、インフルエンサーの足元に平伏していた。その動画は「拡散希望」の文字とともに、爆発的なスピードで世界中へと共有されていった。
「…もう、どこにも行けねぇ。俺は、弱い…。文明に負けたんだ…」
赤城はスマートフォンの電源を切り、泥の中に放り捨てた。
もはや、全国どこを探しても鬼の居場所などない。どの街へ行っても、あの動画を見た人間たちが
逃げて、逃げて、辿り着いたのがこの吉野だった。
意識が朦朧とする中で、赤城の耳に不思議な唱え文句が風に乗って届いた。
『――福は内、鬼も内。福は内、鬼も内……』
一般的な節分とは真逆の、奇妙なフレーズ。
それは、吉野山にある金峯山寺などで古くから伝わる伝統的な唱え文句だ。全国から追いやられた鬼たちを、慈悲の心を持って迎え入れ、改心させて福へと変えるという独特の思想。
赤城はその声を頼りに、霧の海を泳ぐように進んだ。
辿り着いたのは、
「鬼、内へ。筋肉、内へ」
――鬼も内、は分かるが…筋肉?
赤城がおずおずとその門を叩こうとした瞬間。背後の空間が、物理的に歪んだかのような錯覚に陥った。凄まじい熱と圧が、霧を強引に押し広げて迫ってくる。
赤城の首筋に、生存本能が警鐘を鳴らす冷たい戦慄が走った。
「お前か。デジタルという名の虚飾に魂を売った、情けない鬼というのは」
振り返ると、そこには
鋭い眼光。岩を削り出したかのような顎のライン。そして、人間の領域を遥かに超越した、黄金比に基づく圧倒的な
「…だ、誰だ?」
「我が名は
剛念は、丸太のような腕を組み、赤城の情けない体を
「ガトリング砲に負けただと? 笑わせるな。お前の広背筋がしっかりと機能していれば、その程度の衝撃などすべて『心地よい刺激』として筋肉の
剛念の言葉は、豆よりも深く、赤城の胸に突き刺さった。
「鬼を内に入れるとは、単に家に入れるということではない。鬼の持つ荒ぶるエネルギーを、内なる筋肉へと昇華させ、不動の『福』へと変えることだ」
剛念は懐から、名水「ごろごろ水」で溶いた、独特の香りを放つ特製プロテインシェイカーを取り出した。
「飲め、赤鬼。これが貴様の地獄の、そして再生の始まりだ。吉野の神々に、お前の筋肉の咆哮を届けてやる」
赤城は、震える手でそのシェイカーを受け取った。
霧の向こうで、金峯山寺の鐘がゴーンと鳴り響く。それは、現代に敗れた一匹の鬼が、物理的なパワーによって「福」へと転生する物語の幕開けであった。
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