第二章 届け物の女神

目を開けると、青空が広がっていた。


誠司はしばらく、その青さに見入っていた。日本で見るのとは違う、深く澄んだ青。雲一つない空から、柔らかな日差しが降り注いでいる。


身体を起こすと、草の匂いがした。


見渡す限りの草原。遠くに山脈が連なり、反対側には森が広がっている。空気は清浄で、排気ガスの匂いなど一切しない。鳥のさえずりが聞こえ、風が草を揺らす音がする。


ここは、どこだ——?


誠司は自分の身体を確認した。


作業服ではなかった。粗末な麻の服を着ている。足元は革製のブーツ。腰には何も身につけていない。手を見ると、配達で出来た豆やタコが消えていた。まるで、生まれ変わったかのような——


「転生、したのか」


その言葉を口にした瞬間、頭の中に情報が蘇った。


ディリバリア。配達勇者。ロジスティア大陸。滞留魔。配完の祝福。


夢ではなかった。本当に、異世界に転生したのだ。


誠司は立ち上がり、周囲を見回した。


人影はない。道らしきものも見当たらない。ただ、遠くに何かが見える。建物だろうか。石造りの、城壁のようなものが、地平線の向こうに霞んでいる。


あれが街だとすれば、まずはそこに行くべきだろう。


誠司は歩き始めた。


草原を歩きながら、新しい身体の感覚を確かめる。不思議なことに、腰の痛みがなかった。右肩の違和感も、左膝の軋みも、すべて消えている。五年間酷使し続けた身体が、完全にリセットされている。


「若返った、のか……?」


鏡がないので確認できないが、身体の動きが軽い。三十二年間の疲労が、すべて取り払われたような感覚だ。


一時間ほど歩いた頃、道が見えてきた。


土を固めた道路。轍の跡がある。馬車か何かが通った痕跡だ。誠司はその道に沿って歩き続けた。


やがて、城壁が近づいてきた。


石造りの巨大な壁。高さは十メートルはあるだろう。その手前に、門が見える。武装した兵士が立っていて、行き交う人々をチェックしている。


誠司は門に近づいた。


「止まれ」


兵士の一人が槍を構えて前に出てきた。


「どこから来た。身分証明はあるか」


身分証明。そんなものはない。誠司は素直に首を横に振った。


「ない。記憶を失って、草原で目が覚めた」


「記憶を失っただと?」


兵士が怪訝な顔をする。もう一人の兵士が近づいてきて、誠司の全身を見回した。


「武器は持っていないようだな」


「ああ。見ての通り、何も持っていない」


「ふむ……」


兵士たちは顔を見合わせた。しばらく相談した後、年配の方の兵士が言った。


「いいだろう、通れ。ただし、王都で問題を起こすなよ。記憶がないなら、まずは冒険者ギルドに行くことだ。身元の確認と、仕事の斡旋をしてもらえる」


「冒険者ギルド……分かった。ありがとう」


誠司は礼を言って、門をくぐった。


王都は、誠司の想像を超えていた。


石畳の道。レンガ造りの建物。行き交う人々は中世ヨーロッパ風の服装をしていて、荷馬車が道を行き来している。空には鳥が飛び、どこからかパンの焼ける匂いが漂ってくる。


だが、何かが変だった。


活気がない。


街は大きいのに、人通りが少ない。店の多くはシャッターを下ろしていて、道端にはゴミが散乱している。すれ違う人々の表情は暗く、笑い声一つ聞こえない。


「どうしたんだ、この街は……」


誠司は周囲を見回しながら歩いた。


冒険者ギルド、と兵士は言っていた。それがどこにあるか分からないが、大きな建物なら見つかるだろう。


しばらく歩いていると、広場に出た。


そこで、異様な光景を目にした。


広場の中央に、黒い霧のようなものが漂っている。


それは生き物のように蠢いていて、周囲の石畳を侵食していた。黒い霧が触れた場所は、石が腐食したように崩れていく。人々はその霧を避けて、広場の端を足早に通り過ぎている。


「何だ、あれは……」


「滞留魔だよ」


声がして、誠司は振り返った。


そこに、老人が立っていた。白髪に白髭、腰の曲がった小柄な体格。だが、目だけは鋭く輝いている。


「滞留魔。届かなかった届け物が生み出す魔物だ」


「届かなかった、届け物……」


誠司は黒い霧を見つめた。


女神の言葉を思い出す。届かなかった届け物は「滞留魔」となり、大地を蝕む。あれが、その滞留魔なのか。


「昔はこんなものはなかった」


老人が溜息をついた。


「配送ギルドが健在だった頃は、届け物は必ず届いた。滞留魔など、年に一つ二つ発生する程度だった。だが今は——見ての通りだ。街のあちこちに滞留魔が湧き出し、浄化が追いつかない」


「配送ギルド?」


「ああ。かつてこの王都には、大陸一の配送ギルドがあった。『王立配送ギルド』。届け物を届けることを生業とする者たちの組織だ。彼らが届け物を届けることで、配完の祝福が世界を満たし、滞留魔を遠ざけていた」


老人は広場の向こうを指差した。


「あそこに見える建物が、ギルドの本部だ。今は、見る影もないがな」


誠司はその方向を見た。


大きな建物が見える。三階建ての石造りで、かつては立派だったのだろう。だが、今は壁が崩れかけていて、窓には板が打ち付けられている。入口の上には看板が掲げられているが、文字は消えかけていて読めない。


「何があったんだ」


「魔王軍だよ」


老人の声が暗くなった。


「五年前、魔王軍が大陸に侵攻を開始した。彼らは配送ルートを寸断し、届け物を奪い、配達員を殺した。配送ギルドは壊滅的な打撃を受け、今では配達員がほとんどいない。届け物は届かなくなり、滞留魔は増え続け——この王都も、もう長くはないだろう」


誠司は黒い霧を見つめた。


あれが、届かなかった誰かの想い。届けられなかった手紙、届けられなかった贈り物、届けられなかった気持ち。それらが形を成して、世界を蝕んでいる。


「どうすれば、あれを消せる」


「届け物を届けることだ。滞留魔の核には、届けられなかった届け物がある。それを本来の届け先に届ければ、滞留魔は浄化される。だが——」


「だが?」


「届ける者がいない」


老人は首を横に振った。


「配達員は危険な仕事だ。魔王軍に狙われ、滞留魔に襲われ、報酬は雀の涙。誰もやりたがらない。ギルドに残っている配達員は、もう三人だけだ」


三人。


大陸一の配送ギルドが、たった三人。


誠司は老人に聞いた。


「そのギルド、どうやったら入れる」


老人は驚いた顔をした。


「まさか、配達員になりたいのか? 正気か?」


「正気だ。俺は——配達勇者だから」


その言葉が口から出た瞬間、誠司自身も驚いた。だが、不思議と嘘ではなかった。女神に言われたからではない。自分でそう思ったのだ。


配達なら、自分にもできる。


五年間、毎日二百個以上の荷物を届けてきた。どんな天候でも、どんな状況でも、必ず届けてきた。その経験が、この世界で役に立つかもしれない。


「……ギルドの入口は、あの建物の正面だ」


老人は呆れたような、それでいてどこか期待するような目で誠司を見た。


「ギルドマスターの名はガルド。元王国騎士団の将軍だった男だ。彼に話をすれば、入れるだろう。もっとも、入ったところで——」


「ありがとう」


誠司は老人に頭を下げて、ギルドに向かって歩き出した。


後ろで、老人が何かを言っていた。だが、誠司は振り返らなかった。


崩れかけた建物。


消えかけた看板。


それでも、ここには「届け物を届ける」という志を持った人間がいる。


誠司は入口の扉を押し開けた。


ギルドの中は、外観以上に荒廃していた。


埃っぽい空気。割れた窓から差し込む光。床には書類が散乱していて、壁には色褪せた地図が貼られている。かつては賑わっていたのだろうが、今は人の気配がほとんどない。


「誰かいるか」


誠司は声を上げた。


しばらく待っていると、奥から足音が聞こえてきた。


現れたのは、大柄な老人だった。白髪に髭、筋肉質の体格。だが、目には疲労の色が濃い。かつては威厳があったのだろうが、今はどこか覇気がない。


「何者だ」


「俺は神崎誠司。配達員になりたい」


老人——おそらくギルドマスターのガルドは、誠司を見つめた。


しばらくの沈黙。それから、彼は口を開いた。


「帰れ」


「は?」


「帰れと言っている。配達員になりたいなら、他を当たれ。ここにはもう、お前を雇う余裕はない」


ガルドは背を向けて、奥に戻ろうとした。


「待ってくれ」


誠司は彼の後を追った。


「俺は本気だ。配達なら、任せてくれ」


「本気?」


ガルドは足を止めた。


「本気で配達員になりたいなら、この現実を知れ」


彼は振り返り、部屋の隅を指差した。


そこには、山のような荷物が積まれていた。


「あれが、届けられていない届け物だ。百を超える。いや、二百近いかもしれん。本来なら、とっくに届いているはずの物ばかりだ」


「なぜ届けない」


「届ける人間がいないからだ」


ガルドの声に、苦渋が滲んだ。


「五年前、このギルドには百人以上の配達員がいた。大陸一の規模を誇っていた。だが、魔王軍の侵攻で半数が殺され、残りの半数は恐怖に耐えきれず辞めていった。今残っているのは、たった三人だ。三人で、かつて百人で回していた仕事を回すんだ。どうやったって、追いつくはずがない」


誠司は荷物の山を見つめた。


二百個。


一人で一日に配達できる数だ。少なくとも、日本では。


「なら、俺が配達する」


「何?」


「あの荷物、俺が配達する。何日かかるか分からないが、必ず届ける」


ガルドは信じられないという顔をした。


「お前、正気か。魔王軍が配達員を狙っているんだぞ。街の外に出れば、魔物に襲われる。滞留魔も増え続けている。命の保証など——」


「俺は配達のプロだ」


誠司は言った。


「五年間、毎日二百個以上の荷物を届けてきた。どんな天候でも、どんな状況でも。俺には配達しかできないが、配達だけは誰にも負けない」


ガルドは黙って誠司を見つめていた。


長い沈黙。


それから、彼は溜息をついた。


「……分かった。試用期間として、お前を雇おう」


「本当か」


「ただし、条件がある」


ガルドは荷物の山を指差した。


「あの中から、一つだけ選べ。それを届けることができたら、正式に配達員として認める」


「一つ?」


「そうだ。届け先は街の外だ。魔物が出る。滞留魔もいる。それでも届けられるなら、お前の実力を認めよう」


誠司は荷物の山に近づいた。


様々な形の包みが積まれている。大きいもの、小さいもの、重そうなもの、軽そうなもの。それぞれに伝票のような紙が貼られていて、届け先の住所と宛名が書かれている。


誠司は一つの包みを手に取った。


小さな木箱。持ち上げると、軽い。中で何かがカタカタと音を立てる。伝票を見ると——


「ミレーヌ村、エリーゼ宛」


「それを選ぶのか」


ガルドが近づいてきた。


「ミレーヌ村は山向こうだ。片道で半日かかる。途中の森には魔物が出るし、滞留魔の巣窟になっている場所もある。初めての配達としては、厳しい選択だぞ」


誠司は木箱を抱えた。


「関係ない。届け物に、簡単も難しいもない。届けるべきものを、届けるべき人に届ける。それだけだ」


ガルドは何も言わなかった。


ただ、その目に——ほんの一瞬だけ、何かが宿ったように見えた。


準備を整えるのに、一時間かかった。


ガルドが用意してくれたのは、使い古された革の鞄と、簡単な地図、それに少量の食料だった。武器はない。配達員は武装しないのが伝統だ、とガルドは言った。


「届け物を守ることが、配達員の仕事だ。戦うことではない。もし敵に遭遇したら、逃げろ。届け物さえ無事なら、配達員の命は二の次だ」


「分かった」


誠司は木箱を鞄に入れ、肩にかけた。


「では、行ってくる」


「……待て」


ガルドが呼び止めた。


「一つだけ、聞かせてくれ。お前は、なぜ配達員になりたい」


なぜ。


その問いに、誠司は少し考えた。


「分からない。ただ——」


言葉を探す。


「届け物を届けることだけは、俺にもできる。それが誰かの役に立つなら、やる価値はあると思った」


ガルドは黙っていた。


しばらくして、彼は口を開いた。


「この世界には、『届け物は想いの器だ』という言い伝えがある。届け物には、送り主の想いが込められている。それを届けることは、想いを届けることだ」


「想いを、届ける……」


「届け物が届かなければ、想いは行き場を失い、滞留魔となる。届け物が届けば、想いは相手に届き、配完の祝福となる。お前がこれから届けるあの木箱にも、誰かの想いが込められている。それを忘れるな」


誠司は頷いた。


そして、ギルドの扉を開けて、外に出た。


王都の街並みが広がっている。遠くに城壁が見え、その向こうには山脈が連なっている。あの山を越えた先に、ミレーヌ村がある。


誠司は歩き出した。


最初の配達だ。

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