第3話 落鳳坡

益州の道は、険しかった。



劉備の軍は、益州ぼく劉璋りゅうしょうの本拠・成都せいとへ至る要衝、雒城らくじょうを目指して進軍していた。

ただ、劉備の心はまだ、深い霧の中にあった。

雒城を落とす大義がない。


しかし覇を唱えるには、しょくの地が必要だ。

仁義と、野心。

二つは決して両立しない。


その矛盾の淵で、劉備は動けずにいた。


停滞する軍。

焦れる将たち。

その沈黙を破ったのは、劉備と並んで馬を走らせる龐統だった。


「主君、大義などは後からついてくるもの。なければ、私が作りましょう。すべて、お任せください。」


龐統の声は、冷たい風を切り裂くように響いた。

見上げる山道は狭く、谷は深く、風が土埃を巻き上げて視界を遮る。

舞い上がる砂が、熱を帯びた馬の吐息と混ざり合い、喉の奥をざらつかせた。


龐統は、あえて軍の先頭に立った。

これまでは最後尾で酒を食らっていた男が、剥き出しの殺気が渦巻く最前線へ、自らを置いた。


龐統の馬が、朝のうちに躓いて前脚を痛めた。


そういうことにした。


「我が君。これは戦いの前に不吉な予兆。どうか、愛馬・的盧できろをお貸しください。」

的盧。

白い毛並みが朝陽に輝き、立派な馬だった。



「もちろんだ。だが策は私に任せてくれ。」


命令ではなかった。

劉備は人を駒として使えない。

龐統は無視し、的盧に跨った。


諸葛亮なら別の道を選んだかもしれない。

だが、龐統は拳を握った。


──俺は、悪になる。


龐統は兵に命じた。


「この先の道は狭い。私は先陣を務める。主君は後に続く。任せたぞ。」


兵たちは一瞬、息を呑んだ。

龐統の声はいつもより低く、静かだった。

それが、逆に重みを増していた。


的盧の蹄が石を踏む音が、谷の入り口に響く。

風が強くなり、土埃が舞い上がった。乾いた土の匂いが、鼻の奥を刺激する。

周囲の木々がざわめき、影が揺れる。


細い谷を進む。

道はますます狭くなり、両側の崖が頭上まで迫っていた。

陽光が届かず、谷底は薄暗く、冷たい空気が肌を刺す。


突然だった。

岩陰から飛び出した敵兵の甲冑が、わずかな光を反射してきらめく。

伏兵だった。

次の瞬間、叫び声が谷に反響し、耳を劈いた。


「白い馬だ!射ろ!劉備を射殺せ!」


だが、龐統は想定済みだった。

兵は鳳雛の信頼に応えるかのように、剣を抜き、盾を構え、戦った。


矢の雨が降り注ぐ。

風を切る鋭い音。

肉を裂く鈍い音。

血の鉄臭い匂いが、瞬く間に谷を満たした。

熱い血しぶきが頬に飛び、塩辛い味が唇に触れた。


何人もの味方の兵が倒れる。

一人一人、名前のある者たち。

それぞれの人生が、家族が、物語がある者たち。


奮闘する兵士。

血を流して倒れていく兵士。


龐統の握った拳に爪が深く食い込み、血がにじんだ。


龐統の信頼に応え、味方は伏兵を押し返しつつあった。


その最中だった。


馬が躓いた。

わずかな石ころに、蹄が滑った。

龐統の体が傾ぐ。

その瞬間、敵の流れ矢が一筋、風を切って飛んできた。


胸を貫いた。


痛みは、遅れて来た。

熱い。

酒の熱さとは違う、鈍い炎。

龐統は馬から落ち、土の上に膝をついた。


視界が揺れる。

周囲で、兵たちが叫んでいる。


「軍師殿!」


たくさんの兵が集まる。

だが、龐統の崩れ落ちる体を支えたのは、劉備だった。


弓が飛び交っている。

劉備の腕の中で、龐統は叫ぼうとした。


──主君を守れ。


だが口の中に血が溢れ、声にはならなかった。


代わりにに劉備が、叫んだ。


「皆を守れ!」


龐統は目を見開いた。


劉備の名ではない。


皆を守れ。


──だから、俺は、この男のために悪になれた。


「軍師殿の仇だ!」

「雒城を落とせ!」

「劉璋を討て!」


兵の声が大きくなる。

怒りと悲しみが混じった、熱い叫びが谷を震わせた。


龐統は、視界が暗くなる中で、劉備の顔を見ようとした。

だが、もう輪郭すらぼやけていた。

土の匂いだけが、鼻に染みて、熱かった。


「士元、すまない。お前は、全て分かっていたのか。なぜ、私のために。」


龐統は、血を吐きながら笑った。


──玄徳げんとく、それは俺の問いだっただろう。


もう声にはならなかった。


自分が決めたこと。

後悔などなかった。


俺に、生きる意味と、死ぬ意味を与えた。


──お前は、本当に、悪だ。


龐統は最期に、自分をここまで、

──知性の先まで連れてきた男の真っ直ぐな瞳を、もう一度見たかった。


視界が闇に落ちる。


龐統は笑顔だった。

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劉備と龐統 ─悪になる知性 ゆう @youme07

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