妹はズルい

yoizuki

第1話妹はズルい

妹はズルい

宵月


目次

第1章 再会は、謝罪から始まった

第2章 良い妹の演じ方

第3章 日付のない旅

終章 妹はズルい

後日譚 それ以上のことは、考えなくていい

あとがき


第1章

再会は、謝罪から始まった

泣いている兄を見るのは、これが初めてだった。

病室の扉を開けた瞬間、私は立ち尽くした。

記憶の中の兄は、いつもがっしりしていて、背中が広くて、笑うと少しうるさい人だった。

目の前にいたのは、その面影を無理やり削ぎ落としたような人だった。

痩せていた。

骨ばった肩がパジャマの中で浮いていて、呼吸は浅く、話そうとすると咳が絡む。

それでも兄は私を見るなり、必死に笑おうとして――失敗した。

「……来てくれたんだな」

その声は、昔の兄のものじゃなかった。

私は返事をする前に、兄が崩れ落ちるのを見た。

「俺が悪かった」

兄は、泣きながら言った。

嗚咽混じりで、言葉が途切れ途切れになりながら、それでも何度も。

「本当に……すまなかった……」

その謝罪は、十年前に欲しかった。

喧嘩をした直後、

強くて、頼もしくて、何も怖れていなかった頃の兄から、聞きたかった。

十年も経ってから差し出されたその言葉は、

遅すぎて、重すぎて、どう扱えばいいのか分からなかった。

そんな恨み事は、この場では口が裂けても言えない。

十年前にこれを言ってくれていたら、

兄妹の十年は失われずに済んだのに、と。

けれど同時に、悟ってしまった。

兄は、もう限界なのだと。

体だけじゃない。心も、ぎりぎりのところで持ちこたえているだけだ。

今の兄は、破裂寸前の風船みたいだった。

少しでも刺激を与えたら、簡単に壊れてしまいそうで。

――思い出さない。

私は、そう決めた。

十年前の喧嘩を、理由を、言葉を、全部。

本音を言えば、謝るのが遅すぎる。

それでも兄は、ちゃんと心から謝ってくれた。

あの時、許せなかった兄の言葉を、

私はすべて水に流すことにした。

それが、兄を生かす選択だと分かってしまったから。


第2章 良い妹の演じ方


それからの私は、必要以上に穏やかだったと思う。

兄の病室に通うたび、

声の大きさに気を配り、

表情に気を配り、

沈黙すら選んだ。

昔みたいに口喧嘩をすることも、突っ込むことも、冗談を言うこともない。

代わりに、兄の呼吸を見ていた。

咳が出そうな気配。

疲れてきたときの、まばたきの速さ。

話を続けていいかどうかの境界線。

「無理しないで」

その言葉を、何度飲み込んだか分からない。

言えば、兄はきっと無理をするから。

ある日、病院の売店で足が止まった。

陳列棚に並ぶ、やわらかそうなパジャマ。

何か、してあげたかった。

役に立ちたかった、というより――

何もしないでいると、全部を許してしまいそうだったから。

その日の面会で、私は紙袋を差し出した。

「これ」

兄は一瞬きょとんとしてから、中を覗き込んだ。

淡い色のパジャマを広げ、目を丸くする。

「……これ、高かっただろ?」

昔と同じ言い方だった。

どんなプレゼントでも、最初に値段を心配するところも、変わっていない。

「そんなことないよ」

そう言いながら、私は嘘をついた。

安くはなかった。

でも、後悔するよりはずっと安い。

兄は、パジャマを胸に抱えるようにして笑った。

「ありがとな」

それだけで、十分だったはずなのに。

「今度、お礼するから」

そう言って、兄は少しだけ胸を張った。

まるで、まだ先があるみたいに。

私は笑って頷いた。

その言葉を、否定もしなかった。

その夜、家に帰ってから、私は気づく。

私は兄に何かをしてあげたいのではなく、

「良い妹でいる自分」を積み上げているだけなんじゃないか、と。

それでも、やめられなかった。

冷たくはできない。

兄にとって最後は、

可愛い、良い妹でいたかった。


第3章 日付のない旅


医師との話は、病室の外だった。

白い壁。

消毒液の匂い。

医師はカルテを見たまま、淡々と話す。

「治療は続けていますが、正直に言えば……長くはありません」

どれくらいか、という問いは、口に出さなかった。

医師はそれを察したように、少しだけ言葉を足す。

「一年、もしくはそれより短い可能性もあります」

声に抑揚はなかった。

誰の人生の話をしているのか、分からなくなるほど。

私は一度、息を吸ってから聞いた。

「……遠出の旅行は、できますか」

医師は顔を上げた。

一瞬、私を見てから、またカルテに視線を戻す。

「薬をきちんと持っていけば、大丈夫ですよ」

その言葉は、許可だった。

同時に、期限付きの猶予でもあった。

「無理は禁物ですけどね」

私は頷いた。

それ以上、何も聞かなかった。

病室に戻ると、兄は不安そうな顔で待っていた。

「……どうだった?」

私は笑った。

「旅行、行っていいって」

本当のことだけを、選んで言った。

一瞬、兄は目を見開いて、

次の瞬間、子どもみたいに拳を握った。

「ほんとか!」

がっつりとガッツポーズ。

点滴の管が揺れるのも構わずに。

「よし、じゃあさ」

兄は急に饒舌になった。

「前から思ってたんだ。船の旅、いいだろ?」

「クルーズ船。贅沢なやつ」

「おまえを連れて行きたかったんだ」

私は言葉を失った。

正直に言えば、難しいと思った。

体力的にも、距離的にも、ハードルが高すぎる。

温泉旅館じゃダメなのか。

近場でいいんじゃないか。

そう言いたかった。

でも、兄の目は真剣だった。

夢を語る目だった。

「金のことは気にするな」

昔と同じ口調で、兄は言った。

「最後にさ、妹をいい旅に連れてってやりたい」

最後、という言葉に、

私は何も反応しなかった。

聞こえなかったふりをした。

「……うん」

そう答えた自分の声は、

思ったより落ち着いていた。

その日から、

私たちは旅行の話ばかりした。

船室はどんなのがいいか。

海が見える席がいいとか、

食事は何が出るとか。

寄港地で何を見ようか。

現実から目を逸らすみたいに、

未来の話だけを重ねていく。

兄は、嬉しそうに予定を並べ始めた。

「船の上ってさ、夜が綺麗らしいんだ」

「海に灯りが映って……」

「寒くなったら、デッキから中に入ればいい」

私は相槌を打ちながら、

兄の声を聞いていた。

途中で、兄は小さく咳き込んだ。

一度、二度。

息を整えようとしても、

うまくいかない。

「大丈夫?」と聞くと、

兄はすぐに笑う。

「平気平気」

「ちょっと喋りすぎただけ」

その笑顔が、

どこか薄く見えた。

兄は話を続ける。

楽しそうに。

必死に。

私はその姿を見ながら、

胸の奥で、ある決意を固めていた。

――この時間を、止めたい。

十年前の喧嘩も、

失われた年月も、

余命一年という宣告も。

全部、

ここには置いてこない。

兄はベッドに背中を預けたまま、

ぽつりと言った。

「なあ……」

「ちゃんと、行けるかな」

私は一瞬、言葉に詰まる。

でも、すぐに笑った。

「行けるよ」

「ドクターも、いいって言ってた」

それは、嘘ではなかった。

けれど、

全部でもなかった。

兄は、ほっとしたように目を閉じる。

「よかった……」

その声は、

ほとんど囁きだった。

私は、兄の横顔を見つめる。

もう、失われた十年は戻らない。

けれど、

これから失われる時間だけは、

少しでも遅らせたい。

そう思うこと自体が、

きっと――ズルい。

夜、家に帰って一人になると、

病室で聞かなかった言葉たちが、

静かに蘇る。

一年。

もしくは、それより短い。

時計の音が、

やけに大きく聞こえた。

私は思う。

全部なかったことにして、

仲の良い兄妹を、

最後まで演じる。

それは、優しさなのか。

逃げなのか。

答えは出ないまま、

静かに、時間だけが減っていく。

――まだ、

日付のない旅行の日まで。


終章 妹はズルい


ふと、思った。

もし、私と兄の間に

絶縁した十年間なんてなくて、

ずっと仲良く過ごしていたら。

今、この胸の痛みは

少しは軽くなっていたのだろうか、と。

答えは、すぐに出た。

たとえ仲良く

十年を過ごしていたとしても、

今のこの状況は、

やっぱり辛い。

兄が病気で、

余命を宣告されて、

少しずつ弱っていく姿を見ることに、

変わりはない。

私は、結局、苦しむ。

兄にとって私は、

仲が良くなくても、

絶縁していても、

ずっと大事な存在だった。

無償で、

疑いもせず、

変わらずに。

兄は、私を愛していた。

それなのに私は――

兄が

もうすぐ死ぬと知った瞬間から、

怖くなった。

喧嘩別れしたまま、

兄が死んでしまう未来を、

受け止めきれなかった。

そんなことになったら、

兄が死んだあと、

今度は私が、

ずっと苦しみ続けることになる。

それが分かっていたから。

だから私は、戻ってきた。

だから私は、

なにもなかったことにした。

本音を言えば、

謝るのは遅すぎる。

十年前に聞きたかった言葉を、

今さら向けられても、

取り戻せる時間なんて、

どこにもない。

それでも。

兄が、体だけじゃなく、

心まで限界だと分かった瞬間、

私は決めた。

思い出さない。

怒らない。

責めない。

あの喧嘩を、

「なかったこと」にする。

それは、

妹として

一番やってはいけないことだったのに。

兄が元気だった頃、

それをされるのが、

死ぬほど嫌だったのに。

私は今、

兄に同じことをしている。

兄が重病じゃなかったら、

私は、

仲直りできただろうか。

きっと、できなかった。

兄が死ぬかもしれないと知ったから、

私は許した。

――その程度だった。

それでも。

死に目に、間に合った。

それだけで、私は幸せだ。

残された時間で、

たくさん会って、

一緒に笑って、

思い出を作って。

最後まで、

可愛い妹でいる。

兄にとって、

「いい妹」でいる。

そんなことを考えている私は、

考えなくてもいいことを、

考え続けて今日もまた

眠れそうになかった。


あぁ、どうしようもなく――

私はズルい。


後日譚  それ以上のことは、考えなくていい


俺が、全部悪かった。

妹と喧嘩したとき、

意地を張らずに、

妹の気が済むまで

頭を下げていればよかった。

そうすれば、

十年も

絶縁することはなかった。

親戚が、俺の病状を妹に伝えてくれた。


俺のためを思って、だと言っていた。


正直、ありがたいのか、余計なことなのか、

分からなかった。


でも、妹が来ないまま終わるかもしれない、

という未来だけは、耐えられなかった。


妹は、すぐに会いに来ると

返事をくれたらしい。


それを聞いた瞬間、


胸の奥が一気に熱くなって、


気づいたら、涙がこぼれていた。


おかしい。


俺は、滅多なことじゃ泣かない人間だったのに。


どうしよう。


このままじゃ、妹の顔を見た瞬間、

みっともなく泣いてしまうかもしれない。



不安は、そのまま現実になった。


妹の顔を見た途端、


俺は堪えきれず、大泣きしてしまった。


声も、呼吸も、ぐちゃぐちゃで、


自分でも驚くほどだった。


妹は、不自然なくらい穏やかな顔をしていた。


責めるでもなく、


戸惑うでもなく、


ただ、


静かに俺を見ていた。


妹は、


優しかった。


優しすぎるくらいだった。


でも俺は、その理由を考えなかった。


考えたら、


壊れそうだったから。


あぁ。


俺は、


この優しさを、


十年間、


失っていたんだな。



もう、長くないらしい。


医者の話は、正直、よく覚えていない。


ただ、


「先は短い」


それだけは、


はっきり分かった。


それでも、不思議と怖くはなかった。


人生の最後に、最愛の妹が、傍にいてくれる。


それだけで、俺の人生は、十分すぎるほど

報われていた。



妹が、ドクターとの話を終えて戻ってきた。


何を言われたのか、怖くて、俺は


我慢できずに聞いた。


「……どうだった?」


妹は、笑った。


そして、


旅行に行ける、と言った。


嬉しそうに。


俺は、思わず拳を握った。


ガッツポーズなんて、何年ぶりだろう。


船に乗る日まで、生きればいい。


それ以上のことは、考えなくていい。


そう思い込むようにして、


俺は今日も、


静かに目を閉じる。







あとがき


この物語は、実際の出来事をもとにしています。

ただし、事実をそのまま書いたものではありません。

時間や出来事は整理され、

人物の関係性も、読みやすさのために置き換えています。

そうすることで、ようやく言葉にできた部分がありました。

作中で描いたのは、

誰かを許した話ではありません。

正解を見つけた話でもありません。

人が、どうしようもない状況の中で、

「これしか選べなかった」と思う行動を取ること。

そのときに生まれる、

優しさとも身勝手ともつかない感情を、

そのまま置いておきたかったのです。

過去をなかったことにすることが、

本当に正しいのかは分かりません。

けれど、そうしなければ前に進めない瞬間が、

確かにあるのだと思います。

この物語が、

誰かの記憶や感情と、

静かに重なってくれたなら幸いです。

最後までお読みいただき、

ありがとうございました。

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