第4話 空箱
許都の館は、変わらず静かだった。
外では、冬の風が枯れた枝を震わせ、冷たい音が遠くから聞こえてくる。
空気は乾き、息が白く凍る。
魏王就任から数ヶ月が過ぎていた。
荀彧は、まだ官職に留まっていた。
罷免も幽閉もされていない。
曹操からの待遇も、表向きは変わらない。
ただ、呼び出されることはなくなった。
軍議の席に名を連ねることもない。
彼は敵ではない。
ただ、もう使われない。
* * *
ある朝、
曹操の息子、
門番が慌てて止めに入る。
「いくら曹植様といえ、白馬門は通せませぬ」
曹植は酒に酔った様子で、門番を嘲り、押し通ろうとする。
馬の汗と酒の匂いが混じり、門番は困り果て、ついには、門を開けた。
荀彧は、近くでその光景を見ていた。
彼は静かに近づき、曹植を叱った。
「これは漢の掟。臣下が通る門ではない。すぐに引き返すのです。」
曹植は一瞬、目を丸くした。
だが、すぐに笑い飛ばした。
「俺は魏王の息子だ」
周囲の臣下たちは、息を潜めて見守る。
誰も声を上げない。
やがて、曹操が現れた。
曹植に平手を打った。
時が止まった。
やがて、曹操は門番に目を向けた。
「この門番を斬れ」
連れられていく門番の悲痛な叫びが白馬門に響き、血の鉄臭い匂いが一瞬風に乗った。
群臣の列が解け、誰も荀彧に声をかけない。
荀彧は、その場に立ち尽くした。
「漢室の掟は守らねばな、文若」
曹操はそう言って笑った。
胸に冷たいものを感じた。
──数日後、白馬門を取り壊す命令が曹操から降りた。
白馬門がなければ、掟もないだろう、文若。
そんな曹操の笑い声が聞こえた気がした。
荀彧はやっと悟った。
曹操は、もう、魏王なのだ。
* * *
数日後、荀彧のもとに一人の使者が訪れた。
曹操からの贈り物だという。
小さな箱を差し出した。
「魏王から、友への贈り物とのことです」
使者の手が震えていた。
荀彧は、微笑んで受け取った。
家臣でもなく、理解者でもなく。
曹操の生涯で、ただ一人、友と呼べる者への、最後の贈り物。
荀彧は自室で、静かに箱を開けた。
泥の匂いと薬湯の香がした気がした。
中身は空だった。
荀彧はそこに、曹操の「慈悲」を見た。
「もう、何も語る必要はない」という、究極の了解。
蝋燭の灯りが、箱の底をぼんやりと照らした。
箱からはもう、木の冷たい匂いしかしない。
外では、冬の風が静かに吹いている。
遠くで、銅雀台の鈴がかすかに鳴っていた。
漢の音はもう、どこにも聞こえなかった。
荀彧は、静かに七星剣を手に取った。
漢室の威光を象徴する北斗七星の意匠が柄に刻まれ、刃には宝珠が嵌め込まれた一振り。
手つきに、迷いはなかった。
それは、長く学んできた礼の一つのようだった。
荀彧は剣を鞘から抜き、首に当てた。
冷たい刃が肌に触れ、わずかに震える息を止めた。
──この剣は、漢を殺すために渡され、漢を救えず、今、漢の名分だけを終わらせる。
漢のために死ぬのではない。
自分を崩さぬために。
──孟徳。俺は、お前が好きだった。
荀彧は七星剣を引いた。
刃を引く手は、驚くほど軽やかだった。
血が溢れ、袍を染めていく。
熱い。
鉄の匂いが鼻を突いた。
痛みは遅れて来て、やがて闇が空箱に溶けた。
視界が闇に落ちる前に、荀彧は窓の外を見た。
許都の空は、高く冷たく広がっていた。
魏の旗が、風に翻っている。
白馬門の向こうに、銅雀台の影が長く伸びていた。
窓の外、夜の闇に浮かぶ銅雀台は、巨大な獣の骨のように見えた。
曹操と荀彧 ―正しさが別れた夜 ゆう @youme07
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