第3話 魏王

劉備りゅうびしょくの地を獲ったという報せが届いたのは、風が冷たくなり始めた頃だった。

かつて許都きょとで共に酒を酌み交わし、曹操が「英雄」と認めたあの男が、ついに根無し草の流浪を終え、大国を築こうとしている。


その報せは、曹操の焦燥を静かに、だが深く突き動かした。

天下を完全に掌握するためには、もはや「漢の丞相」という仮面では足りない。

漢室という古びた殻を破り、強大な「魏」という実体にならねばならぬ。


外では、秋の風が庭の落ち葉を静かに舞わせ、乾いた音が遠くから聞こえてくる。

落ち葉の腐った匂いが、かすかに鼻を突く。


魏王就任の儀式は、既成事実として進んでいた。

官僚たちは昇進の噂を囁き、封土の配分を計算し、新秩序の恩恵に期待を寄せている。

郭嘉は笑い、程昱は頷き、若い将たちは目を輝かせて語り合う。


誰も「是非」を議論しない。

それはすでに終わった話だった。


荀彧は、宮廷の席に列席していた。

祝宴の席、荀彧の座る場所は、形式上は上座に近い。

しかし、彼の周りだけ、まるで透明な壁があるかのように熱気が届かない。

酒の甘い香りと肉の脂の匂いが周囲を満たすが、荀彧の杯には冷めた酒だけが残る。


若い将たちの笑い声が、彼を避けて流れていく。

彼は「反対者」として疎まれているのではない。

もはや「参照する必要のない古い書物」として、敬意を持って無視されているのだ。


もはや助言役ではない。

漢の礼制、名分、法統を知る最後の人。


「分かっているが、空気を読まない人」。

「もう時代に合わない人」。


それは、議論の席ではなく、記憶の棚に置かれる知識だった。

周囲から見られる視線は、静かで事務的だった。


荀彧は一人、宮廷の廊下を歩いていた。

背後から名を呼ばれた。

振り返ると、曹操の使者が控えていた。

穏やかな声で告げた。


「丞相がお呼びです。魏王就任について、君の意見を聞きたいと。」


荀彧は静かに頷いた。



 *        *        *



曹操の部屋は、簡素だった。

蝋燭の灯りが、地図と文書をぼんやり照らす。

墨の匂いが微かに残る。


曹操は座り、荀彧を招き入れた。

態度は丁寧で、冷酷さはない。


「文若。魏王の位を受けると決めた。天下は俺が治める。漢は、秩序を通すための名だ。」


荀彧は、静かに頭を下げた。


「私は漢を守るために、主公しゅこうを選びました。

その主公が漢を越えるなら、支える理由は消えます。」


曹操は目を細め、ゆっくり答えた。


「かつて宦官かんがんどもが漢を食い物にし、民は苦しんだ。

それでも、飢えで、病で人が死ぬ国が良いか、文若。

俺の国では民が苦しまぬ。」


曹操と目が合う。

その瞳には怒りも憎しみもなく、ただ、遠い旅路で置いてきた荷物を振り返るような、淡い追憶だけが浮かんでいた。


どちらも間違っていない。

漢を守るために始めた道が、別々の終わりを迎えようとしているだけだ。


二人は、同じ言葉を使いながら、別の意味を話していた。

荀彧は、それ以上口を開くことができなかった。



 *        *        *



数日後、魏王就任の儀式が執り行われた。

天子は勅命を下し、曹操は魏王の冠を被った。

礼制上、これは天子に並ぶ地位。


もはや曹操は、漢の「臣」ではなくなった。


祝賀は盛大で、酒が流れ、歓声が響き、焚火の煙の匂いが宮廷を満たす。


荀彧は、儀礼のどこにも立てなかった。

祝えない。

反対もできない。

漢のために叫ぶことすらできない。



 *        *        *



その夜、荀彧は自室に戻り、窓を開けた。

許都の空は、暗く広がっていた。

遠くで、祝賀の灯りが揺れ、かすかな酒と肉の残り香が風に乗ってくる。


蝋燭の灯りに、七星剣しちせいけんが煌めいた。


それは、長安の昔、王允おういんから曹操へ渡され、董卓とうたく暗殺の企てに使われ、失敗の後に曹操の手に残った宝剣。

やがて、実戦からは遠ざけられ、臣下の象徴として、荀彧に贈られたものだった。


俺は、曹操の「正しさ」を支えるためにいた。

だが、その正しさは、もう俺を必要としていない。


外では、秋の風が静かに吹いていた。

魏の旗が、かすかに、夜に翻っていた。

その音に、漢の名は、もう響いていなかった。

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