第2話 銅雀台

北方のえん家を完全に滅ぼし、曹操は名実ともに天下の半分をその手に収めた。

かつて官渡の泥の中で分け合った薬湯の熱を、もう思い出せなくなるほどの歳月が流れていた。


曹操が荀彧の肩を強く掴んだ、あの指の強さは、今では数多の勝利と権力に上書きされている。

もはや曹操の背中は、雨に濡れて震えることなどなかった。


だが群臣が並ぶ場であっても、曹操の視線は常にまず、荀彧を探した。


「文若はどう思うか。」


その問いは、単なる諮問ではなかった。


曹操が己の野心や迷いをさらけ出し、唯一、鏡を見るように自己を対峙させられる相手が荀彧だった。

曹操は、荀彧が整えた法を信じ、荀彧が選んだ人材を愛し、荀彧が示した戦略に己の命を預けてきた。


「俺に文若がいるのは、高祖こうそ張良ちょうりょうがいるようなものだ」

かつて曹操がそう笑って荀彧の肩を抱いた時、そこには主従を超えた、同じ理想を抱く者同士の熱い体温があった。


曹操にとって荀彧は、天下を手に入れるための「道具」ではなく、手に入れた天下を分かち合うための「唯一の理解者」だった。



 *        *        *



鄴城ぎょうじょう銅雀台どうじゃくだいは、完成したばかりだった。

初夏の陽射しが、金銅の欄干を熱く照らし、遠くから見れば三つの台が天を突くように連なっている。

高さは百丈を超え、頂上からはぎょうの街が一望の下に収まる。

その視線は、天子の座からではなく、支配者の座からのものだった。


祝賀の宴が、台の基部に設けられた広間で開かれていた。

文官、武将、詩人たちが集い、酒を酌み交わす。

甘い酒の香りが立ち上り、肉の焼ける匂いが混じり、郭嘉かくかは笑いながら杯を掲げ、程昱ていいくは頷き、若い官僚たちは目を輝かせて語り合う。


「天下統一の象徴だ。」

「乱世の終わりを告げる偉業。」

「この台があれば、誰人も逆らうことはできぬ。」

「逆らう理由も、度胸もなくなる。」


曹操は上座に座り、機嫌を良くしていた。

まだ漢の丞相を名乗り、臣下の礼を取る。

誰かが問うと、穏やかに答えた。


「天下が安定すれば、漢の安寧も守られる。この台はその証だ。」


誰も異を唱えなかった。

表向きは何も間違っていない。

実があればよい。

名目は些細なこと。

そう皆が思っていた。


荀彧は、儀礼の席に列席していた。

杯を傾け、微笑み、祝いの言葉を返す。

酒の熱が喉を焼くが、心の中では別の声が響く。


──これは、漢の制度ではない。

天子の御所ではない。

臣下が建てるべき建築を超えている。


豪奢な装飾、圧倒的な規模、鄴の中心に据えられた位置。

どれを取っても、漢の礼制に照らせば逸脱だった。


宴の後、荀彧は一人、台の階段を上った。

風が強くなり、衣をはためかせ、肌に夏の湿った熱を残す。

台の頂上へ上がるほど、下の宴の喧騒は風に削られ、細くなっていく。

代わりに聞こえてくるのは、金銅の鈴が鳴らす、乾いた、慈悲のない音だ。


荀彧はその音の中に、かつて自分が曹操と共に築こうとした「漢の平穏」を探した。

だが、聞こえるのはただの物理的な震動だけだった。


頂上近くの回廊で、曹操と出会った。

曹操は欄干に寄り、遠くの街を見下ろしていた。

風が曹操の袍を揺らし、かすかな酒の残り香を運んでくる。


荀彧は静かに頭を下げた。


「丞相。この台は、いずれ天子の御所となるのでしょうか。」


曹操は振り返らず、笑った。


「時が来れば、分かることだ。」


荀彧は続けた。


「漢の礼制に照らせば、臣下の建築として、これほどの規模は──」


曹操は軽く手を挙げ、言葉を遮った。


「文若。乱世を終わらせるには、時に古いしきたりを超えねばならぬ。天下が治まれば、正しさも一つに定まる。」


それは「超える」のではなく、「踏み潰す」という宣言に聞こえた。


荀彧は、それ以上口を開かなかった。

二人は並んで街を見下ろした。


驚くほど背丈の似ている二人だった。


これまでも、曹操と共に、同じ景色を見てきた。


今も、二人は同じ景色を見ているはずだった。


風が鈴を鳴らし、祝賀の声が遠くから聞こえてきた。


荀彧は、風に揺れる鈴の音を見上げた。


曹操は民の声に耳を向けた。



 *        *        *



その夜、荀彧は自室に戻り、窓を開けた。

銅雀台の影が、月明かりに長く伸び、鄴の街を覆っている。

蝋燭の灯りが、漢の礼書をぼんやりと照らし、紙の古い匂いが鼻をくすぐる。


荀彧は、まだ信じていた。

曹操は、漢を裏切ってはいない。

乱世を終わらせるための一時の逸脱に過ぎない。


だが、同時に予感していた。

漢を必要としなくなる日が、必ず来ることを。


外では、初夏の風が静かに吹いていた。

銅雀台の鈴が、かすかに、遠くで鳴り続けていた。

その音に、誰も「漢」の名を結びつけようとはしなかった。

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