曹操と荀彧 ―正しさが別れた夜

ゆう

第1話 官渡の夜

官渡かんとの戦いは、絶望の底に沈んでいた。

連日の雨が陣地を泥海に変え、兵糧の袋は底をつきかけ、兵たちの顔には灰色の疲労と死の予感がこびりついていた。

袁紹えんしょうの十万を超える大軍の影が、遠く地平線を埋め尽くす。


対する曹操そうそうの軍は、まるで風前の灯火のように小さく、脆かった。

本陣の天幕の中、曹操は一人、地図を睨みつけていた。

雨が幕を叩く音が絶えず響き、灯りの揺らめきが彼の顔に深い影を落とす。

背中は、いつもの覇気ある輪郭を失い、雨に濡れた衣のように重く沈んで見えた。


「……文若ぶんじゃくか」


足音だけで、曹操は背後の気配を言い当てた。

荀彧じゅんいくは何も言わず、静かに机の上に湯気の立つ杯を置いた。

温かな薬湯の香りが、泥と雨の湿った匂いに混じり、わずかに天幕の中を和らげる。


曹操がゆっくり振り返る。

その目は赤く充血し、いつもの鋭い覇気よりも、焦燥と疲れが勝っていた。


「文若。兵糧は、もう五日だ」


荀彧は、かすかに口角を上げた。


丞相じょうしょう。それだけ“まだ残っている”なら、勝てましょう」


曹操は手を叩いて大きく笑った。

しかしその笑いは、空虚に響き、すぐに消えた。


「文若は騙せぬな。そうだ。本当は三日で尽きる」


荀彧も、珍しく歯を見せて笑った。


「私を騙したとて、勝機は生まれませぬ」


曹操の目が揺れた。

すでに天下に名を轟かす英雄とは思えないほど、憔悴した表情を見せた。

 

「……そうだ。兵糧は、もう尽きた。明日からは馬を屠らねばならぬ」


荀彧は黙って曹操の目を見つめ返した。

雨音が一瞬遠のくような静寂が、天幕を包む。


孟徳もうとく。お前は何を背負っている。天下か。それとも、漢室か」


荀彧の声は低く、しかし揺るぎなかった。

その言葉は、雨に打たれる幕よりも確かで、泥に沈む軍靴よりも重かった。


曹操はゆっくり息を吐き、荀彧の差し出した杯を両手で包み込んだ。

掌の熱が、冷えきった指に伝わる。

湯の香りが立ち上り、二人の間にだけ小さな安らぎを生んだ。


「文若。お前だけが、」


曹操は杯を一気に飲み干すと、荀彧の肩を強く掴んだ。

指が袍の上から食い込むほどに強く、それはまるで命綱を握りしめる者の必死さだった。


「──俺を怪物にせずにいてくれる」


その時だった。

天幕の外で、慌ただしい足音が響いた。


許攸きょゆうが、曹操の軍門を叩いた。


この夜、雨はなおも降り続いていた。

天幕の外では泥が兵たちの足を吸い、遠くで馬のいななきが虚しく響く。

だが天幕の中では、二人の間に一寸の隙間もなかった。


曹操の野心と荀彧の理想は、官渡の泥の中で、互いを温め合いながら、一つの命火となって静かに、しかし確かに燃えていた。


その火は、まだ誰にも「正しさ」と名付けられていなかった。


ただ、二人の胸に、同じ形をして宿っていた。

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