第二章 異世界の"道"
立ち上がった瞬間、誠一は自分の体の異変に気づいた。
膝が痛くない。
十年以上前から悩まされていた、左膝の古傷。荷降ろしの際に捻って以来、ずっと鈍い痛みが残っていた。特に寒い日や、長時間同じ姿勢を続けた後は最悪だった。正座などできなくなって久しい。
それが、今は何も感じない。
腰も痛くない。肩凝りもない。いつも重かった頭が、羽根のように軽い。
「若返った……のか?」
誠一は自分の手を見た。四十二年分のシワと、日焼けと、細かい傷で覆われていたはずの手。それが、どこか滑らかになっている。完全に若者の手というわけではないが、少なくとも十歳は若返ったように見えた。
「訳が分からん……」
ステータス画面は、まだ視界の端に浮かんでいた。意識を向けると、文字がクリアになる。意識を逸らすと、半透明になって視界を邪魔しない。便利だが、不気味だった。
「とりあえず……どこかに人がいないか探すか」
誠一は周囲を見回した。草原は広大だったが、北の方角——太陽の位置から判断した——に、何か建造物のようなものが見える。塔か、城か。距離は分からないが、目印にはなる。
「行ってみるか」
歩き始めた。
草を踏む感触が、足の裏に伝わってくる。裸足だった。気づけば、靴を履いていなかった。服も、見覚えのないものに変わっている。麻のような素材の、簡素なチュニックとズボン。現代日本の服ではない。
「本当に……異世界なのか」
呟きながら、誠一は歩き続けた。
三十分ほど歩いたところで、道が見えてきた。
土がむき出しの、幅の狭い道。舗装などされていない。轍の跡が、二本の溝になって続いている。馬車が通った跡だろうか。
「道があるなら、人がいる」
誠一は道に出て、北へ向かって歩き始めた。
さらに一時間ほど歩いた。太陽は少しずつ西に傾いている。空腹感と渇きを覚えたが、水も食料も持っていない。
「まずいな……」
焦りを感じ始めた頃、前方から音が聞こえてきた。
蹄の音。車輪が軋む音。そして——人の声。
「来たか」
誠一は道の脇に身を寄せ、音の方向を見つめた。
土煙を上げながら、一台の馬車が近づいてきた。二頭の馬に牽かれた、幌付きの荷馬車。御者台には、一人の人影が座っている。
だが、その馬車には何か異常があった。
速度が速すぎる。御者は必死に手綱を引いているが、馬は制御を失ったように暴走している。
「たっ、助けてくれぇぇぇ!」
御者の叫び声が、風に乗って届いた。
誠一は反射的に道の中央に飛び出した。両手を広げ、馬車の正面に立つ。
「止まれ!」
叫んだ。腹の底から、声を振り絞って。
馬は止まらない。暴走したまま、誠一に向かって突進してくる。
——死ぬ。
その瞬間、体が勝手に動いた。
誠一は地面を蹴り、走り出した。馬車に向かってではない。馬車と並走するように、斜め前方へ。
速い。自分でも驚くほど速い。
風景が流れる。草が、土が、後方へ飛んでいく。馬車の速度を上回り、追い越し、さらに前へ。
誠一は馬車の正面に回り込んだ。今度は止まらず、後ろ向きに走りながら——走りながら、両手を伸ばし、先頭の馬の手綱を掴んだ。
「落ち着け! 落ち着け!」
手綱を引く。自分の速度を少しずつ落としながら、馬の暴走を制御しようとする。
馬は嘶いた。前脚を跳ね上げ、抵抗する。だが、誠一は手綱を離さなかった。
「大丈夫だ。大丈夫だから。落ち着け」
長年、トラックという巨大な機械を操ってきた。エンジンの唸りを聞き分け、タイヤの滑りを感じ取り、数十トンの車体を意のままに動かしてきた。その経験が、今、別の形で活きている。
馬は徐々に速度を落とした。暴走が、早駆けになり、並足になり、やがて——止まった。
荒い息を吐きながら、馬は首を垂れた。泡を吹いている。かなり長い時間、暴走していたらしい。
「はあ……はあ……」
誠一も息を切らしていた。心臓が早鐘を打っている。
「た、助かった……」
御者台から、震える声が聞こえた。
誠一は振り返った。御者は——若い女だった。
いや、少女と言うべきか。十代後半、あるいは二十歳前後。栗色の髪を一つに束ね、そばかすの散った頬を紅潮させている。大きな茶色の瞳が、驚愕と安堵で見開かれていた。
「あの……大丈夫ですか」
誠一は声をかけた。
少女は、ぽかんと口を開けたまま、誠一を見つめていた。
「あなた……今、何をしたの?」
「何って……馬を止めただけですが」
「止めただけって……馬車より速く走ってたわ。人間が。信じられない」
少女は御者台から飛び降りた。誠一の周りをぐるりと回り、上から下まで観察する。
「怪我は?」
「ありません。むしろ、あなたこそ」
「私は平気。荷台から投げ出されなかっただけ幸運だったわ」
少女は大きく息を吐いた。それから、改めて誠一に向き直り、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。命を救っていただいて。あのまま暴走が続いていたら、崖から落ちていたかもしれない」
「いや、そんな。大げさな」
誠一は照れくさそうに頭を掻いた。人に感謝されることに、慣れていなかった。
「私はリーネ。リーネ・カートライトと申します。商家の娘です」
「俺は……日向誠一。えーと、セイイチ……セイ、でいいです。セイと呼んでください」
「セイ……変わった名前ね。この辺りの方じゃないでしょう?」
「ええ、まあ。遠くから来ました。とても遠くから」
リーネは首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。代わりに、馬車の方を振り返り、心配そうな表情を浮かべた。
「困ったわ。馬がこの状態じゃ、今日中に王都には着けない」
「王都?」
「ええ。あの塔が見えるでしょう? あれが王都ルーンガルドの時計塔よ。まだ半日以上かかる距離だけど」
誠一は北の方角を見た。確かに、先ほどから目印にしていた建造物が、少しだけ大きく見えるようになっている。
「急ぎの用事でも?」
「急ぎというか……」
リーネは言葉を濁した。その表情に、影が差す。
「いえ、何でもないわ。それより、セイさん。お礼をしなければ。うちの馬車に乗っていってください。少なくとも次の村までは送ります」
「いや、俺こそ助かります。実は、道に迷っていたんです」
「そう見えたわ。この辺りは魔物も出るのに、武器も持たずに一人で歩いているなんて」
「魔物?」
誠一は聞き返した。
リーネは目を丸くした。
「知らないの? この地域は、特に魔物の出没が多いのよ。だから馬も怯えて暴走したんだし」
「魔物……」
頭の中で、パズルのピースがカチリとはまる音がした。
ステータス。スキル。そして、魔物。
これはゲームの世界か。ファンタジー小説の世界か。どちらにせよ、現代日本とは全く異なる世界であることは間違いない。
「セイさん? 大丈夫? 顔色が悪いわ」
「いえ、大丈夫です。ちょっと……混乱してるだけで」
「そうよね。魔物に追われて逃げてきたんでしょう? 怖かったわよね」
リーネは勝手に誤解してくれた。誠一は否定せず、曖昧に頷いた。
「とにかく、馬車に乗って。水と少しだけど食料もあるから」
「すみません。助かります」
誠一は御者台に乗り込んだ。リーネが隣に座り、手綱を取る。
「さて、行きましょうか。ゆっくり行けば、馬も落ち着くはず」
馬車が動き出した。ゆっくりと、土の道を北へ向かって。
「セイさんは、何か仕事をしてるの?」
しばらく無言で走った後、リーネが口を開いた。
「仕事……」
誠一は考えた。トラックドライバー。それは、この世界で意味を成す職業だろうか。
「……運び屋、みたいなものです」
「運び屋?」
「荷物を、ある場所から別の場所へ届ける仕事です」
「へえ……」
リーネの目が、不思議そうに輝いた。
「実は、うちも昔は運送業を営んでいたの。父が」
「そうなんですか」
「ええ。カートライト運送商会。王国でも有数の運送業者だったのよ。でも……」
リーネは言葉を切り、遠くを見つめた。
「でも?」
「五年前に、すべてが変わったの。魔物が増えて、街道が危険になって。馬車が襲われる事件が相次いで、ドライバーたちも怖がって辞めていった。最後には、父も——」
声が震えた。リーネは唇を噛み、感情を抑えようとしている。
「すみません。聞いてはいけないことを」
「いいの。もう五年も前のことだから」
リーネは首を振った。
「父は、最後の配送に出たきり、帰ってこなかった。魔物に襲われたのか、盗賊に殺されたのか、今も分からない。遺体も見つかっていないの」
「……」
誠一は何も言えなかった。
「それから、商会は没落した。借金を返すために、屋敷も、倉庫も、馬も、全部売った。今は母と二人で、細々と行商をしているの。でも——」
リーネは拳を握りしめた。
「私は諦めていない。いつか、父の交易路を復活させる。王国中に、いいえ、大陸中に荷物を届けられる、大きな運送商会を作るの。それが、私の夢」
その目には、強い光が宿っていた。
誠一は、胸の奥で何かが動くのを感じた。
「いい夢だと思います」
「ありがとう。笑わないでくれて」
「笑うもんですか。届けることは、大事な仕事だ」
自然と、その言葉が口を突いて出た。
リーネは目を瞬かせた。
「セイさんも……そう思う?」
「ええ。俺の親父も、そう言ってました。『俺たちの仕事は、届けることだ。届けられないものなんて、この世にはねえ』って」
「素敵なお父さんね」
「……ええ、まあ」
誠一は照れくさそうに視線を逸らした。
馬車は、ゆっくりと進んでいく。太陽が西に傾き、空がオレンジ色に染まり始めていた。
「ねえ、セイさん」
「はい」
「さっき、馬を止めた時のこと。あれは、魔法? それともスキル?」
「スキル……だと思います。正直、自分でもよく分かっていなくて」
「見せてもらえる? もう一度」
誠一は考えた。確かに、自分にどんな能力があるのか、把握しておく必要がある。
「やってみます」
馬車を止め、誠一は御者台から降りた。
「じゃあ、走ってみます」
軽く屈伸運動をしてから、誠一は道の先に向かって走り出した。
速い。明らかに、人間の走力を超えている。風を切り裂き、大地を蹴って、誠一は疾走した。
視界の端に、新しいウィンドウが表示された。
【スキル発動:無限走破(エンドレスロード)Lv.1】
効果:走行中、物理的な攻撃・魔法攻撃を無効化
制限:連続発動は4時間まで。その後、30分の休息が必要
「四時間……」
誠一は走りながら呟いた。
四時間。三十分の休息。
——430ルール。
まさか、この数字がここでも出てくるとは。
誠一は笑った。声を上げて、大声で笑った。
「俺のスキルは……トラックドライバーの法規制かよ!」
笑いながら、誠一は馬車の元に戻った。リーネが目を丸くして待っていた。
「す、すごい……本当に速かったわ」
「どうやら、走っている間は無敵になれるみたいです」
「無敵?」
「攻撃が効かなくなる、ということらしいです。ただし——」
誠一はステータス画面を見た。
「四時間が限界で、その後は三十分休まないといけない」
「四時間……? 変わった制限ね」
「ええ。俺もそう思います」
誠一は苦笑した。
だが、心の中では、奇妙な納得感があった。
改善基準告示。連続運転時間は四時間以内。その後、三十分の休憩。
日本の法律が、異世界のスキルになっている。馬鹿げている。馬鹿げているが——面白い。
「それと、もう一つスキルがあるみたいです。『積載無制限』というやつ」
「積載無制限?」
「荷物を、無限に運べる……ということかもしれません。まだ試していないので、分かりませんが」
リーネの目が、キラリと光った。
「セイさん」
「はい」
「あなた、本気で運び屋をやる気ある?」
唐突な質問だった。
「……どういう意味ですか」
「私と組まない? カートライト運送商会を、一緒に復活させない?」
リーネは真剣な目で、誠一を見つめていた。
「私には、商売のノウハウがある。どこに何が必要で、どこから何を仕入れれば利益が出るか、分かる。でも、荷物を運ぶ力がない。魔物が怖くて、誰も引き受けてくれないの」
「……」
「でも、あなたなら。走っている間は無敵なんでしょう? 魔物なんて関係ない。どこへでも、何でも、届けられる」
誠一は黙っていた。
異世界に来て、まだ数時間しか経っていない。右も左も分からない。この世界のルールも、常識も、何も知らない。
だが——。
「……面白そうですね」
口元が、自然と緩んだ。
「いいでしょう。やってみますか。異世界で、運送業」
リーネの顔が、花が咲くように輝いた。
「本当? 本当に?」
「ええ。どうせ、俺にはそれしかできませんから。走ることと、届けることしか」
誠一は空を見上げた。
オレンジ色の夕焼けが、地平線まで広がっている。
——親父。
心の中で呟いた。
——俺、また走るよ。今度は、異世界でな。
馬車が再び動き出した。
王都ルーンガルドを目指して。
新しい人生の、最初の配送が始まろうとしていた。
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