トラックドライバー×異世界転生_俺の走行距離(マイレージ)、異世界でも積算中 ~追放された陰キャ長距離ドライバー、最強の"運び屋"として覚醒する~

もしもノベリスト

第一章 最後の長距離運行

午前二時四十七分。


デジタコの緑色の光が、日向誠一の顔を幽鬼のように照らしていた。


フロントガラスの向こうには、闘牛のようにうねる首都高の灯りが続いている。橙色のナトリウム灯が一定のリズムで流れていき、まるで心電図の波形のようだと誠一は思った。生きている。まだ、生きている。その証拠だ。


十トントラックのキャビンは、世界から切り離された密室だった。エンジンの低い唸りと、時折カタカタと揺れる荷台の音だけが、静寂を破る。深夜のラジオからは、誰も聴いていないような演歌が流れている。


「……眠い」


誠一は独り言を呟いた。四十二年間生きてきて、この言葉を何万回口にしただろう。数えたことはない。数える気力もない。


ハンドルを握る手が、わずかに震えていた。昨日の朝六時に家を出て、もう二十時間以上が経過している。本来なら違法だ。改善基準告示では、一日の拘束時間は原則十三時間以内と定められている。だが、現実はそんなに甘くない。


——お前の代わりなんて、いくらでもいるんだよ。


脳裏に、あの声がこびりついて離れない。


黒崎剛史。配車係長。誠一の直属の上司であり、この会社における「神」のような存在だった。神といっても、慈悲深い神ではない。旧約聖書に出てくる、怒りと罰の神だ。


「日向ァ!」


今朝——いや、もう昨日の朝だ——黒崎は事務所で誠一を怒鳴りつけた。理由は些細なことだった。前回の配送で、到着が予定より三分遅れたのだ。たった三分。だが黒崎にとって、それは万死に値する罪だった。


「三分だぞ、三分! お前、俺の顔に泥を塗る気か?」


黒崎の唾が、誠一の頬に飛んだ。周囲のドライバーたちは、見て見ぬふりをしていた。誰も助けてくれない。誰も。十八年間、この会社で働いてきたが、誠一に味方する人間は一人もいなかった。


「すみません」


誠一は頭を下げた。何度目だろう。何千回目だろう。謝罪の言葉は、もはや意味を持たない記号になっていた。


「すみませんじゃねえんだよ! 今日の荷、追加で入れたからな。大阪まで行って、すぐ折り返しだ。帰り荷も取ってある」


「今日……ですか」


「文句あんのか?」


黒崎の目が、爬虫類のように細くなった。この目を向けられると、誠一の体は勝手に萎縮する。十八年かけて刷り込まれた条件反射だった。


「いえ……」


「なら行け。五時に積み込み開始だ。遅れんなよ」


それが、昨日の朝の出来事だった。


誠一は言われるがままにトラックに乗り込み、荷物を積み、東京を出発した。首都高から東名へ、東名から新東名へ。ひたすら西へ向かって走り続けた。


大阪に着いたのは午後三時だった。荷降ろしに二時間。それから帰り荷の積み込み現場へ移動し、また二時間待たされた。「バース」——荷降ろし口の順番待ちだ。物流業界では「荷待ち」と呼ばれる時間。金にならない、ただ消耗するだけの時間。


待機中、誠一はキャビンの中で目を閉じた。眠りたかった。全身が鉛のように重かった。だが、携帯電話が鳴った。黒崎からだった。


「おい日向、今どこだ」


「待機中です」


「何時に出られる」


「まだ順番が——」


「言い訳すんな。急げ。明日の朝一で届けなきゃならねえ荷だ。遅れたら分かってるな?」


分かっている。分かりすぎるほど分かっている。


遅れれば、また怒鳴られる。また人格を否定される。また「お前の代わりはいくらでもいる」と言われる。


誠一は電話を切り、ハンドルに額を押し当てた。このまま消えてしまいたい。そう思った。何度も思った。でも、消えることすらできない。


——俺には、何もない。


家族はいない。独身だ。四十二歳、独身、トラックドライバー。合コンで自己紹介したら、女性陣の目が一斉に曇るプロフィール。実際、合コンなど十年以上参加していないが。


友人もいない。学生時代の知り合いは、とっくに疎遠になった。会社の同僚は、同僚でしかない。深い話をしたことなど一度もない。


趣味もない。休日は寝ているか、コンビニで買った弁当を食べながらテレビを見ているか。そのテレビも、内容など頭に入ってこない。ただ、音が欲しいだけだ。静寂が怖いのだ。


だから、走る。


走ることだけが、誠一の存在証明だった。ハンドルを握り、アクセルを踏み、荷物を届ける。その繰り返し。十八年間、ただそれだけを続けてきた。


キャビンの壁に貼ってある写真が、バックミラー越しに見えた。色褪せた写真。若い頃の自分と、父親が写っている。


父も、トラックドライバーだった。


「誠一、いいか。俺たちの仕事は、届けることだ」


父はそう言った。誠一が初めて大型免許を取得した日のことだ。


「届けられないものなんて、この世にはねえ。届ける気持ちさえあれば、どこへだって行ける。何だって運べる」


父は五年前に亡くなった。心筋梗塞だった。トラックの中で倒れ、そのまま息を引き取った。享年六十七歳。


葬式には、驚くほど多くの人が来た。父と取引のあった荷主、長年の同僚、行きつけのトラックステーションの店主、道の駅の食堂のおばちゃん。みんな泣いていた。「いい人だった」「お世話になった」「寂しくなる」と。


俺が死んだら、誰が泣いてくれるだろう。


そんなことを考えながら、誠一は深夜の高速道路を走り続けていた。


午前三時を回った。


目が痛い。まぶたが重い。何かに引っ張られているように、意識が下へ下へと沈んでいく。


——駄目だ。眠るな。


誠一は頬を叩いた。窓を少し開け、冷たい夜風を入れた。一月の空気は刃物のように鋭い。眠気が少しだけ引いた。


あと三十分。あと三十分走れば、サービスエリアだ。そこで仮眠を取ろう。430ルール——連続運転時間は四時間以内。休憩を取らなければならない。


デジタコの画面を見る。連続運転時間、三時間四十二分。あと十八分。ギリギリだ。


誠一はアクセルを少しだけ踏み込んだ。速度計の針が、九十キロに達する。制限速度だ。これ以上は出せない。トラックにはリミッターが付いている。


「……」


前方に、テールランプが見えた。別のトラックだ。同じ方向に走っている。十トン車。荷台には、青いシートがかかっていた。


距離は約百メートル。十分な車間距離だ。


誠一は、その車間距離を保ったまま走り続けた。夜の高速道路を、二台のトラックが連なって走る。まるで、暗い海を泳ぐ二匹の魚のように。


午前三時十五分。


異変は、突然だった。


前方のトラックが、ふらついた。


最初は目の錯覚かと思った。だが、違った。確かにふらついている。左右に、小刻みに揺れている。


——居眠りか。


誠一は直感した。あのドライバーも、自分と同じように限界なのだ。眠気と戦いながら、必死にハンドルを握っているのだ。


誠一はパッシングライトを点滅させた。警告だ。「起きろ」という合図だ。


反応はなかった。


前方のトラックは、ますます大きくふらつき始めた。車線を跨ぎ、右へ、左へ。まるで酔っ払いの歩行のように。


誠一は減速した。ブレーキを踏み、速度を落とす。車間距離を広げる。危険だ。近づいてはいけない。


だが、次の瞬間。


前方のトラックが、急ブレーキをかけた。


テールランプが、赤く燃え上がるように輝いた。タイヤが悲鳴を上げる。白い煙が立ち上る。


「——っ!」


誠一も急ブレーキを踏んだ。全身の筋肉が硬直する。ハンドルを両手で握りしめる。


だが、遅かった。


十トンの車体は、すぐには止まれない。物理法則は、人間の都合など知らない。


前方のトラックが、壁のように迫ってくる。青いシートが、視界いっぱいに広がる。


時間が、ゆっくりと流れた。


——ああ、そうか。


誠一は、不思議な静けさの中で思った。


——俺、死ぬのか。


恐怖はなかった。むしろ、安堵に近い感情があった。ようやく解放される。もう走らなくていい。もう黒崎に怒鳴られなくていい。もう「お前の代わりはいくらでもいる」と言われなくていい。


——でも。


最後に、父の言葉が蘇った。


「俺たちの仕事は、届けることだ」


——俺は、何を届けたんだろう。


十八年間で、どれだけの荷物を運んだだろう。食料、衣類、機械部品、建築資材、日用品。数え切れないほどの荷物を、数え切れないほどの場所へ届けた。


走行距離は、累計二百万キロを超えていた。地球を五十周以上。月まで往復して、まだお釣りが来る距離。


それだけ走って、俺は何を届けたのだろう。


誰かを幸せにしたのだろうか。誰かの役に立ったのだろうか。誰かに「ありがとう」と言われたのだろうか。


分からない。覚えていない。ただ走っただけだ。言われるがままに、怒鳴られながら、謝りながら、ただ走っただけだ。


——もっと、違う走り方があったんじゃないか。


その思いが、最後の意識として残った。


衝撃。


金属が歪む音。ガラスが砕ける音。体が宙に浮く感覚。そして——。


暗転。


最初に感じたのは、光だった。


オレンジ色の、温かい光。瞼の裏を透かすような、柔らかい光。


次に感じたのは、風だった。


頬を撫でる風。土と草の匂いを含んだ風。排気ガスの匂いはない。アスファルトの熱気もない。


「……ん」


誠一は目を開けた。


青い空が、視界いっぱいに広がっていた。


雲一つない、どこまでも澄んだ青空。東京で見る空とは、明らかに違う色だった。インクを水で薄めたような、濁った青ではない。絵の具をそのまま塗りつけたような、鮮烈な青。


「……どこだ、ここ」


誠一は身を起こした。


草原だった。


見渡す限りの、緑の草原。風が吹くたびに、草がさざ波のようにうねる。地平線の向こうには、紫色の山々がそびえている。


トラックはない。高速道路もない。ガードレールも、標識も、街灯もない。


「……夢か?」


誠一は頬をつねった。痛い。夢ではない。


「死後の世界……?」


つぶやいた瞬間、視界の端に何かが光った。


透明な、四角い枠。宙に浮かんでいる。その中に、文字が表示されている。


【ステータス】

名前:日向誠一

年齢:42

職業:運び屋

レベル:1

HP:100/100

MP:50/50


スキル:

・無限走破(エンドレスロード)Lv.1

・積載無制限(インフィニティ・キャパシティ)Lv.1


「……は?」


誠一は、自分の目を疑った。


これは何だ。ゲームの画面か。いや、現実に浮かんでいる。手を伸ばせば触れそうな距離に、透明なウィンドウが存在している。


「ステータス……? スキル……?」


混乱する頭で、誠一は表示された情報を読み解こうとした。


「無限走破」「積載無制限」。どちらも、トラックドライバーとしての自分に関係がありそうな名前だった。


「何だこれ……何が起きてるんだ……」


答えは、どこからも返ってこなかった。


風が吹いた。草がさざめいた。遠くで、鳥の鳴き声が聞こえた。


誠一は、異世界の大地に立っていた。

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