第二十七話 景公と繋ぐ架け橋

景公の国境を越え、赤茶けた大地を歩き続けること二日。

 私たちは、切り立った崖の合間に身を寄せ合うようにして築かれた、小さな集落に辿り着いた。

 由良府のような、神の威光に怯える陰鬱な雰囲気はない。

 だが、人々の顔には過酷な環境と、食の支配が生んだ疲労が刻まれていた。

 村の入り口に現れた瞬間、数人の男たちが駆け寄ってきた。

「……おい、大丈夫か!? あんた、その腕……ひどい怪我じゃないか!」

 彼らは、不審な旅人であるはずの私たちを蔑むどころか、真っ先に心配の声を上げた。

 この国では、怪我は「素材としての劣化」を意味し、死より恐ろしい罰に繋がることもある。

 だが、彼らの瞳にあるのは恐怖ではなく、純粋な同情だった。

「……ああ。……いや、これはもう治りかけだ」

 私が短く答えると、すかさず少女が横から口を挟む。

「嘘だよ、おじさん。無理はだめだからね」

 彼女は私の腰にしがみつき、村人たちに釘を刺すように言った。

「まだ馴染んでないんだから、ちゃんとお休みしてなきゃだめなんだよ」

「う、お、おう……わかってるよ」

 少女の過保護な視線と、村人たちの善意。

 どう反応していいか分からず、私は言葉を詰まらせた。

 彼らは自分たちの貴重な蓄えである乾肉や、煎じ薬を惜しげもなく手渡してくる。

「これを食べなさい」

「これは身体にいい飲み物だ、遠慮するな。景公の都の連中に見つかったら、全部持っていかれちまうからな」

 男の一人が自嘲気味に笑い、私の手に温かい器を握らせた。

 かつての私なら、これらを「不味い」と切り捨てていただろう。

 だが、彼らの手から伝わる温もりは、どんな香辛料よりも深く、私の胃の腑を温めた。

 施されるだけでは、料理人の一団の名が廃る。

 私は仲間たちに、視線で合図を送った。

 「不味いやつら」と呼ばれた彼らは、今やこの旅の不可欠な「生産者」として、それぞれの役割を全うし始めた。

 まず動いたのは、蜘蛛女郎(くもじょろう)だった。

 彼女は広場に座り込むと、指先から流麗に糸を紡ぎ出した。

 道中で集めた鳥の羽や獣の抜け毛を芯にし、異能の繊維を絡め合わせていく。

 それは単なる裁縫ではない。

 糸の一本一本に、身を守るための「気」が込められていく。

 見る間に、一枚の美しい、それでいて鎧のように強靭な衣装が組み上がっていった。

「……はい、これ。今の私にできるのは、これくらいだから」

 彼女は、寒さに震えていた老婆の肩に、その衣をそっと掛けた。

「……これは凄い芸当だ! こんなに温かい布、見たことがない」

 村人が驚愕して声を上げる。

「あんた、これを景公の市で売れば、かなりの金額になるのでは?」

 蜘蛛女郎はただ、良きかなと言って静かに微笑んだ。

 かつて人を呪い、絡め取った糸が、今は凍える誰かを温めるための光となっていた。

「お金なんていらないわ。……私の指が、誰かの体温を感じるために動いている。……それだけで、今は十分なの」

 彼女の言葉は、かつての毒を脱ぎ捨てた、真の職人の響きを持っていた。

 次に口を開いたのは、石道朗(いしどうろう)だ。

 彼は村の外れの、誰も見向きもしない荒れ果てた岩壁を指差した。

「……あそこの黒ずんだ土の下。深く眠っている石がある」

 村人たちが首を傾げる中、彼は無骨な拳で地面を叩き割った。

「ありゃあ、『岩窟石(がんくつせき)』だ」

 土を掘り起こすと、そこからは鈍い銀色を放つ高密度の石が現れた。

「いいか、この景公の土ってのは由良府とはワケが違うんだ」

 石道朗は、掘り出した石を一つ手に取り、掌で転がした。

「あっちの土が神の排泄物なら、こっちの土は、死んだ龍の骨が風化したようなもんだ。

 熱の通りが異常に速い。それでいて、一度溜めた熱を、命を封じ込めるように離さねえ」

 彼はその石を、一人の若者に手渡した。

「熱を蓄えれば数日は冷めず、冷やせば氷のように冷たさを保つ。

 景公の王都へ納品する前の大事な『肉』を、鮮度不足で撥ねられることもなくなるだろう。

 ……王様の胃袋を満たす前に、あんたらの腹を満たすための技術だ。……掘り出し方は、俺が教えてやる」

 それは、文明を失った集落にとって、黄金より価値のある「生活の要」だった。

 若者たちが歓喜の声を上げ、スコップを手に走り出した。

 石道朗は彼らの背中を見送りながら、不器用に笑った。

 彼が掘り出したのは、ただの石ではない。

 略奪が支配するこの国で、自力で価値を産み出すための「誇り」だった。

 そして、佐藤もまた、自身の覚悟を示した。

 掌の中に「命の火」を灯し、細胞を丁寧に合成していく。

 産み出されたのは、青い羽を持つ、力強く大地を踏みしめる不思議な鳥だった。

「……これは『久世鳥(くぜどり)』という品種の、珍しい鳥です」

 佐藤は、その雄と雌を二羽ずつ、震える手で差し出す村長へと渡した。

「……育ててみます、と言いたいところだが……我々に扱えるだろうか」

「……案ずることはありません。育て方は簡単です」

 佐藤は穏やかな顔で、村長の不安を打ち消した。

「そこの、家畜すら食べないような硬い雑草を好んで食べます。

 上手く育てれば、毎日でも、滋養に富んだ大きな卵を産みますよ」

 彼はその後も、自らの生命力を削るようにして、何匹もの久世鳥を産み出し、広場へ解き放った。

「あんたたちの子供が、腹を空かせなくて済むように。こいつらを増やしてください。

 奪われることに慣れないでいい。……命は、産み出すことができるんです」

 彼の「細胞異種」は、かつては禁忌とされた技術だった。

 だが今は、一つの集落の絶望を塗り替えるための、聖なる酪農となっていた。

 数日間、私たちはこの集落に滞在した。

 仲間たちが技術を教え、資源を分け与え、食糧の基盤を作る。

 村人たちの表情からは少しずつ影が消えた。

 広場には鳥の鳴き声と、子供たちの笑い声が響く。

 私は、村の子供たちが久世鳥の卵を大事そうに抱え、火を通さずに、その濃厚な黄身を啜る姿を眺めていた。

(……これが、本当の『食』の姿だ)

 技巧を凝らした美食でも、神への供物でもない。

 ただ、今日を生きるための力が、身体の中へと染み込んでいく感覚。

 私の四川が目指すべき地平が、ようやく朧げに見えてきた気がした。

「……旅の御方、本当にありがとうございます」

 村長が、目に涙を浮かべて深々と頭を下げた。

「おかげで、この冬を越せる希望が見えました。

 せめてものお礼に、裏手の温泉へご案内しましょう。自慢の隠し湯です。

 お怪我をされたその右腕も、きっと癒えることでしょう」

 夜。

 私は、湯気の立ち込める裏山の温泉に浸かっていた。

 岩を打つ湯の音だけが、静かに響く。

 星空が驚くほど近く、景公の赤茶けた大地が月光に青白く浮かび上がっている。

「……ふぅ……」

 溜息が夜気に溶ける。

 右腕は、もはや痛みを感じない。

 むしろ、少女の光によって馴染まされた新しい神経が、温泉のミネラル分を敏感に察知し、身体の隅々まで活性化させていくのが分かった。

 だが。

「……あったかーい。おじさん、極楽だねえ」

 すぐ隣で、少女がぷかぷかと浮かびながら笑っている。

「……だから、俺と一緒に入るなと言っただろ……ったく」

 私は顔を赤らめ、視線を逸らした。

「お前も年頃なんだ、少しは警戒心を持て。

 それとも何だ、俺を男として見てないのか?」

「えー。おじさん、またそんなこと言ってるの?」

 彼女は楽しそうに、お湯をパシャパシャと跳ねさせた。

「手当てしてあげてるんだから、いいじゃない。

 それにね、おじさん。おじさんの右腕、温泉に入るとすごく綺麗な色になるんだよ。

 ……まるで、これから美味しい料理を作るのを、腕が楽しみにしてるみたい」

 彼女は泳ぐように近づいてくると、私の不自由だったはずの右腕をそっと、水中で包み込んだ。

「ほら、もっとこっち来て。……強張ってるの、解いてあげるから」

(……いやいや、そういう問題じゃねえだろ)

 彼女の純粋すぎる好意は、どんな強敵より扱いが難しい。

 だが、この三日間、彼女が私から一歩も離れようとしなかったのは、私の右腕に宿った「神の残り香」を、自らの光で中和し続けようとしていたからだと分かっていた。

 彼女もまた、戦っていたのだ。

 私という存在を、破壊に染まった「神殺し」ではなく、一人の人間として繋ぎ止めるために。

「……おじさん。景公の王様って、どんなものを食べてるのかな」

 不意に、少女が真剣な顔で呟いた。

「……さあな。だが、きっとろくなもんじゃねえ。

 他人の努力を掠め取り、支配の味しか知らない奴の胃袋は、いつだって空っぽだ」

「……それじゃ、お腹が空いてるんだね。かわいそうに」

 彼女の言葉に、私は鼻で笑った。

 だが、その指摘こそが、景公という国の本質を突いているのかもしれない。

「……店主。お困りのようね」

 不意に、岩陰から蜘蛛女郎が姿を現した。

 真っ白なタオルを手に、しなやかに近づいてくる。

「……蜘蛛女郎か」

「はい、これ。村の人たちが貸してくれた、岩窟石の熱で蒸した特製タオルよ。

 由良府の神の毒も、これで綺麗さっぱり流れていくわ」

 彼女はクスクスと笑いながら、私にタオルを手渡した。

「少女、あんまりおじさんを困らせちゃだめよ?

 この人は、私たちの『王様』なんだから」

「……ありがてえ」

 私は受け取ったタオルを頭に乗せ、目を閉じた。

 かつて、俺たちは奪うことしか知らなかった「不味いやつら」だった。

 だが、今は違う。

 誰かを温める服。

 生活を守る石。

 そして、腹を満たす命。

 温泉の熱と共に、自分の中の「業」が洗い流されていくのを感じた。

「店主、あんたが教えてくれたんだ。……料理は、命を繋ぐ儀式だって」

 いつの間にか、湯船の縁に佐藤が座っていた。

 その顔には、新しい命を愛でる「親」のような慈愛が宿っている。

「……俺は何も教えてねえ。お前らが、自分の中の良心に気づいただけだ」

 私は、ぶっきらぼうに答えた。

 料理人は、一皿を出すだけが役割ではない。

 土を作り、種を蒔き、命を育むプロセスすべてに責任を持つこと。

 景公という国は、そのプロセスを「支配」によって簒奪している。

 だとしたら、私の四川がなすべきことは明白だ。

 奪われた「生産の喜び」を、再び人々の手に取り戻すこと。

 少女が、湯の中で私の右腕を再び、ぎゅっと握りしめた。

「おじさん、すごくいい音になってるよ。

 今の腕は、おじさんの優しさと、私の光が完全に溶け合った……新しい『太陽の腕』だね」

 太陽の腕。

 彼女の例えは、相変わらず大仰だ。

 だが、確かに私の右腕は、暗闇の中でも自ら熱を発し、進むべき道を照らしているような感覚があった。

 明日、私たちはこの集落を発つ。

 次に目にするのは、景公の王都を囲む、あの巨大な「肉の門」だろう。

 あそこの門番たちが、私たちの配った久世鳥や岩窟石を見たら、どんな顔をするだろうか。

「……さあ、寝るか。……明日は、長い一日になる」

 私は、温泉の温もりを全身に纏ったまま、仲間たちの静かな寝息を聞きながら、自らの内なる炎を小さく灯し続けた。

 破壊の王から、再生の料理人へ。

 境界を越えた旅は、ここからが本当の本番だ。

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