第二十六話 境界を越える者

瓦礫の街を背にし、私たちは西へと足を進めていた。

 目指すは、あの使者が告げた未知の国、景公(けいこう)。

 地図などない。

 あるのは、懐にある羊皮紙が放つ、皮膚を焼くような微かな熱。

 そして、風が運んでくる、どこか鉄錆と乾いた砂が混ざり合ったような、大陸の匂いだけだ。

 三日間の沈黙を破り、私たちは歩き出した。

 河原での休息は、単なる肉体の癒やしではなかった。

 それは、バラバラだった私たちが、一つの「生命体」として再構成されるための孵化の儀式だったのだ。

 私の背後には、かつては欲望に溺れ、魂を濁らせていた「不味いやつら」の姿はない。

 そこにいるのは、自らの内に眠る異能を「生産」へと転換させた、誇り高き職人たちの集団だ。

 佐藤が先頭に立ち、周囲の気配を探る。

 彼の指先は、空気中に漂う微細な生物の細胞を感知し、その土地の「生命密度」を測るレーダーとなっていた。

 その後ろでは、石道朗(いしどうろう)が時折立ち止まり、大地の脈動に耳を澄ませる。

 彼の視線は表土を透過し、地中深くに眠る未知の金属やエネルギーの結晶を、透視するように捉えていた。

 そして蜘蛛女郎(くもじょろう)は、歩きながらも絶え間なく糸を紡ぎ続けている。

 彼女が放つ不可視の糸は、私たちの周囲に防護の幕を張り、毒虫や野獣の接近を未然に察知していた。

 そして私の隣には、常に少女がいる。

 彼女は私の不自由な右手を、宝物を扱うような手つきで握りしめていた。

「……おじさん。空気の色が、変わったよ」

 少女が呟いた通り、標高が上がるにつれ、周囲を包む大気は重く、そして「硬く」なっていった。

 景公。

 そこは、かつてのどの地図にも載っていない、食の理(ことわり)が歪められた禁忌の地。

 国境を越える一歩を踏み出した瞬間、私の鼻腔を突いたのは、濃厚な獣の脂の匂いと、大気を焦がすような乾いた砂の熱だった。

 国境の関門と思わしき場所には、巨大な岩石を積み上げただけの、野蛮で暴力的な造形の砦が立っていた。

 兵士らしき姿はない。

 代わりに鎮座していたのは、身の丈を超えるほど巨大な「鉄の天秤」と、血のように赤い火を灯した香炉だった。

「……ここを通るには、己の『味』を証明せねばならぬ」

 空気を震わせるような重低音が、砦の奥から響いた。

 姿は見えない。

 だが、そこには由良府の神々とはまた違う、より原始的で飢えた「意志」が潜んでいた。

 私は、背負っていた中華鍋を静かに下ろした。

 石道朗が補強してくれた鍋の底は、夕陽を浴びて鈍い、怪しげな光沢を放っている。

「……味の証明、か。料理人に言葉はいらねえってことだな」

 私は左手で重い鉈(なた)を抜き、道中で佐藤が「細胞異種」の能力で産み出し、適切に処理した特殊な獣の肉をまな板に乗せた。

 その肉は、牛の力強さと鳥の軽やかさを併せ持つ、この世に二つとない未知の食材だ。

「……おじさん、やるの?」

「……ああ。挨拶代わりだ。景公の王に、俺たちが来たことを教えてやる」

 少女が頷き、私の炉に手をかざした。

 シュン、と。

 一瞬で立ち上がる、純度の高いピンクがかった烈火。

 彼女の光は、三日間の交流を経て、私の内なる四川の炎と完全に同調していた。

 調理が始まる。

 私は左手一本で肉を叩き、繊維を解きほぐす。

 かつての私なら、右腕が使えないことに焦燥を感じていたはずだ。

 だが、今は違う。

 右腕を包む蜘蛛女郎の包帯の中で、少女の光が、私の神経と対話している。

 その瞬間、私の意識は肉体を離れ、右腕の深層へとダイブした。

 そこには、由良府の「山椒の神」が残した、凍てつくような紫色の呪縛が氷塊となって神経を封鎖していた。

 感覚を奪い、熱を拒絶し、料理人としての死を宣告する神の残り香。

 だが、その氷壁に、桃色の光がひびを入れ始めていた。

「おじさん、怖くないよ。……これは、おじさんがみんなを守ってきた熱なんだから」

 少女の祈りが、包帯の繊維を伝って血管を駆け抜ける。

 氷塊が溶けるのではない。

 私の血、佐藤の産み出した命の躍動、石道朗の掘り出した大地の重み、そして蜘蛛女郎が紡いだ絆の糸。

 それらすべてが私の右腕の中で一つの「スパイス」として調合され、神の呪いを「燃料」へと変質させていった。

 ドクン!!

 心臓が一度、激しく脈打つ。

 指先の毛細血管の一つ一つが、未知の熱量に耐えかねて咆哮を上げる。

 それは再生ではない。

 破壊の王でも、施しの聖者でもない、境界を越えた「真の料理人」としての新生。

 私は、包帯の中で五指が、ピアノの鍵盤を叩くかのようにしなやかに動き始めたのを感じた。

 神の麻痺は、今や「食材の微細な構造を読み取る超感覚」へと書き換えられていた。

 包帯を透過して、肉の細胞が熱に震える音が聞こえる。

 香辛料の粒子が、炎の中で結合し、新しい香りの原子を形成する瞬間が見える。

「……これだ。これこそが、俺が求めていた『味の深淵』だ」

 私は不自由だったはずの右手を、ゆっくりと、だが絶対的な確信を持って天に掲げた。

 包帯の隙間から、制御しきれない桃色と銀色の火花が散る。

 それは、景公の歪んだ空気を切り裂く、反逆の狼煙(のろし)だった。

 調理が加速する。

 私は左手一本で鍋を振るうたび、右腕の奥に蓄積された「熱」が、スパイスとなって空気中に霧散していく。

 私は、石道朗が見つけた鉱石を砕いて作った特殊な岩塩と、道中で精製した香辛料を投入した。

 ジュワッ!!

 爆発的な蒸気が立ち上がり、砦の周囲に、脳を痺れさせるような芳醇な香りが爆散した。

 それは、ただの料理の匂いではなかった。

 破壊を経て再生を選んだ者たちが、一丸となって作り上げた「生命の旋律」だ。

 香炉の火が激しく揺れ、天秤がガチガチと音を立てて傾き始める。

 天秤の片皿には何も乗っていない。

 だが、私が作り上げた一皿の熱気が、見えない質量となって皿を押し下げていく。

「……見事なり。……神を屠り、泥を啜り、なおかつ命を紡がんとする意志。その味、しかと受け取った」

 重厚な石の扉が、地響きを立ててゆっくりと開いた。

 その向こう側には、雲を突き抜けるような険しい山脈と、その山肌にへばりつくように築かれた、黄金色に輝く奇妙な都市が広がっていた。

 私たちは、景公の地へと踏み込んだ。

 足元の土は、驚くほど赤く、生命の力に満ち溢れている。

「……おじさん、見て。あそこの岩、全部おじさんが作ったお塩みたいにキラキラしてる」

 少女が指差す先では、石道朗がすでに地面に這いつくばり、興奮した様子で土を弄んでいた。

「……店主、ここは……ここは宝の山だ! 見たこともない鉱石が、まるで野草のようにそこら中に転がっていやがる!」

 佐藤もまた、周囲の空気を深く吸い込み、目を見開いていた。

「……細胞が……活性化していく。ここでは、俺の『細胞異種』の力は、数倍の速度で成長する。

 ……これなら、一晩で一軍隊を養えるほどの家畜を産み出せるかもしれない」

 蜘蛛女郎は、周囲の木々に糸を張り巡らせながら、美しくも残酷な笑みを浮かべていた。

「……風に乗って、新しい素材の匂いがするわ。……鳥の羽も、獣の毛も、ここではより強靭で、より美しい。

 ……店主、あんたに最高のコックコートを編んであげられそうだわ」

 仲間たちが、それぞれの「未来」を見つけ、瞳を輝かせている。

 それを見つめる私の胸にも、熱いものが込み上げてきた。

 だが、景公は、決して私たちを歓迎しているだけの場所ではなかった。

 都市へ続く長い階段の踊り場に、一人の男が立っていた。

 身に纏うのは、黄金の刺繍が施された、血のように赤い調理服。

 腰には、龍を象った、禍々しい輝きを放つ二振りの包丁を下げている。

 その男から放たれる威圧感は、由良府の神々が持っていた「尊大さ」とは異なり、数え切れないほどの命をその手で裁いてきた料理人だけが持つ、冷徹な「機能美」に満ちていた。

「……『神殺し』の四川、……その噂は、風に乗ってここまで届いている」

 男は、一歩前に出た。

 彼が歩くたびに、周囲の石畳が熱で赤く染まっていく。

「だが、この景公において、料理とは『支配』そのものだ。

 お前の作るような、弱者を慰めるための『再生の味』など、この国には不要なのだよ」

 男の背後に、巨大な、肉の塊でできた門が現れる。

 それは、景公の王が管理する、巨大な「食の迷宮」の入り口だった。

「……お前たちが連れている、その『異能を持つ者たち』。

 彼らは景公にとって、最高の『家畜』であり、最高の『素材』だ。

 お前が彼らを、本物の料理人として守り抜けるか、……それとも、我々の胃袋を肥やすための具材へと成り下がるか。

 ……さあ、選ぶがいい」

 男の挑発に、私は静かに中華鍋を構えた。

 右腕を包む布の下で、ピンクの光がかつてないほど激しく脈打つ。

 神経が、筋肉が、そして魂が、一本の線となって繋がっていく。

「……言ったはずだ。……俺の客は、生きようとする奴らだけだ」

 私は、左手で鉈の柄を叩いた。

「……お前のような、他人の努力を『素材』としか見られねえ三流の料理人に、俺の仲間は一歩も譲らねえ。

 ……その肉の門ごと、俺の四川で解体してやる」

 少女が、私の背中にそっと手を置いた。

 彼女の熱が、私の右腕へと流れ込み、ついに、三日間沈黙していた指先が、力強く、そしてしなやかに開いた。

 包帯が、内側からの圧力で弾け飛ぶ。

 露わになった私の右腕は、月光のような銀色と、少女のピンクの光が混ざり合った、この世のものとは思えぬ美しい「武器」へと進化を遂げていた。

「……お待たせしたな、相棒」

 私は、右腕で中華鍋の取っ手を掴んだ。

 その瞬間、大地が鳴動し、景公の空を覆っていた薄暗い雲が、一瞬にして晴れ渡った。

「……さあ、調理開始だ。……誰一人、欠けさせはしねえ。

 この不味い世界を、まるごと喰らい尽くしてやる」

 (休むこともまた、戦いだった。

 もしあの三日間、少女の優しさに触れ、仲間たちの目覚めを見届けなければ……

 俺は今、この右腕を再び握ることはできなかっただろう)

 指先を動かすたびに、空間の温度が変わり、食材の細胞が奏でる微かな音色が届く。

 今の私なら、どんなに歪んだ素材であっても、その本質を瞬時に見抜き、最高の味へと導くことができる。

 横を見れば、誇り高き職人となった仲間たちが、それぞれの武器を手に前を見据えている。

 彼らはもはや弱者ではない。

 この景公という狂った国において、新しい文化を築くための「開拓者」だ。

「……おじさん。あっちの山から、……すごく寂しい音が聞こえる」

 少女が、雲に隠れた高い峰を指差した。

 彼女の直感は、美食を追求し、支配を極めた果てに待つ、救いのない孤独を感じ取っている。

「……ああ。聞こえるぜ、少女。腹を空かせた、悲しい王様の鳴き声だ」

 私は、黄金の階段を上り始めた。

 背中には仲間たちの熱い視線。

 隣には少女の柔らかな温もり。

 かつて孤独だった料理人の背中は、今、数え切れないほどの希望を背負い、誰よりも大きく、誇り高く見えた。

 景公の空に、初めて「本当の夜明け」が訪れようとしていた。

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