第二十四話 蜘蛛の糸、あるいは桃源の産声
三日間、私は「何もしない」という、人生で最も過酷な試練に身を投じていた。
料理人として包丁を握り始めてから、これほど長く火の前に立たず、鍋の重みを感じない日々があっただろうか。
指先の感覚を研ぎ澄ますことさえ禁じられ、ただ流れる雲を眺め、風の音を聴く。
それは、私の魂にとって、神との死闘以上に、自己の存在意義を根底から揺さぶる時間だった。
拠点とした河原は、いつの間にか小さな「村」のような活気を帯び始めていた。
かつて死相を浮かべ、泥を啜っていた「不味いやつら」は、今や見違えるほどに生気を取り戻している。
彼らは、私が動けない間、佐藤の指示に従って組織的に動き、生きるための術を貪欲に吸収していた。
「……休むことも仕事! ほら、おじさん、また温泉に行こう?」
少女が、私の不自由な右腕を、自分の細い肩に回すようにして急かしてくる。
彼女の瞳は、この三日間でより一層、澄んだ輝きを増していた。
「……こらこら、お前。……俺は男で、お前は年頃の女だろうが。
昨日はたまたま誰もいなかったから良かったものの、そんなに頻繁に一緒に入っていいもんじゃねえ」
私は顔を背け、ぶっきらぼうに答えた。
だが、少女は悪戯っぽく笑い、私の二の腕を強く引く。
「……いいじゃない、誰も見てないよ。それに、こういう時は素直になることも必要だよ?
おじさんは、いっつも肩に力が入りすぎ。……身体がガチガチだと、せっかくの私の光も、奥まで届かないんだから」
(……いやいや、そういうことじゃないから。道理の問題だろ……)
私は心中で溜息をついた。
しかし、彼女の言うことも一理あった。
彼女の掌から放たれる、あの薄紅色の温かな光。
それが私の右腕の深層に眠る、神の呪いを少しずつ、確実に溶かしているのは事実だった。
困り果てて助けを求めるように視線を送ると、薪を運んでいた佐藤が、ニヤリと下卑た風でもない、心底楽しそうな笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「……ははは、店主。……一緒に入ってきたらどうだ?
たまにはいいじゃないか。……背中、流してもらえよ。
俺たちは向こうの岩陰で、次の『仕事』があるから、邪魔はしないさ」
「……そ、そうか。……なら、いいんだが」
私は佐藤の言葉に、なかば強引に背中を押される形となった。
不器用な大人たちの配慮に、私は敗北を認めるしかなかった。
再び訪れた、岩陰の露天風呂。
湯気の中に身を沈めれば、三日間の沈黙が、私の肉体に深い「沈殿」をもたらしているのがわかる。
少女は、私の背後に回り、温かい湯を私の肩にかけ始めた。
「……おじさんの背中、……傷だらけだね。
これは由良府の神様と戦った時? それとも、もっと前からのもの?」
「……さあな。……料理人なんてのは、常に火と刃物の間に立ってる。
名誉な傷なんて一つもねえ。……全部、俺の未熟さの証だ」
「……ううん。……私には、この傷が、誰かを守ろうとした『勲章』に見えるよ」
少女の柔らかい掌が、私の背中の古傷をなぞる。
その感触は、温泉の熱よりも深く、私の孤独な芯を温めた。
私は、黙って目を閉じた。
湯気の中に、この三日間で感じた「再生」の予感が混ざり合っていく。
一方、私が休息を余儀なくされていた間、不味いやつら……いや、佐藤たちのグループには、驚くべき変化が起きていた。
キャンプに戻った私の前に、彼らの一人が、誇らしげに一枚の布を差し出してきた。
それは、荒野に自生する強靭な草の茎から繊維を取り出し、丁寧に編み込まれた、素朴ながらも堅牢な「衣」だった。
「……見てくれ、店主。……俺たち、自分たちで服が作れるようになったんだ」
佐藤が、感嘆の声を漏らしながら説明する。
「……これを覚えたのは、あそこにいる『蜘蛛女郎(くもじょろう)』さんだ。
彼女、街にいた頃は糸を使って人を絡め取るような、忌まわしい呪いを使っていたんだが……。
あんたの飯を食ってから、その指先が、人を守るための糸を紡ぎ始めたんだ」
視線を向ければ、かつては妖怪のように禍々しいオーラを放っていた、長い指を持つ女が、静かに、だが一心不乱に草の茎を捌いていた。
彼女の指は、まるで魔法のように流麗に動き、一本の細い糸を産み出し、それを複雑な文様へと織り上げていく。
それは、呪いという名の破壊の技術が、創造という名の「工芸」へと昇華された瞬間だった。
「……草から糸を、か。……大したもんだ」
私は、その布の感触を確かめた。
荒々しいが、そこには確かに「生きたい」という強い意志が編み込まれている。
彼らは、私が料理で彼らの魂を繋ぎ止めた恩返しを、自分たちの「再生」という形で示そうとしていたのだ。
「……おじさん、見て! 蜘蛛女郎さんが、おじさんの新しい包帯も作ってくれたんだよ」
少女が持ってきたのは、特に細く、柔らかい繊維で織られた純白の布だった。
それは、私の右腕を優しく、かつ力強く保護するために用意された、世界で唯一の医療用具だった。
夜。
私は、蜘蛛女郎が作ってくれた新しい布で右腕を包み、焚き火を見つめていた。
この三日間で、私の内側には、かつてないほどの「静かなる活力」が蓄積されていた。
右腕は、まだ完全に自由とはいかないが、指先は確実に私の意志を拾い始めている。
そして何より、私の周囲にいる人々が、自分たちの力で「復興」を歩み始めている。
「……おじさん、もうすぐだね。……景公(けいこう)」
少女が、私の膝に寄りかかりながら言った。
「……ああ。……この休息で、俺たちには新しい『装備』が揃った。
俺の腕、お前の光、佐藤たちの知恵、そして……あの蜘蛛女郎の糸」
私は、懐の羊皮紙を取り出した。
月の光に透かせば、火の鳥の紋章は、かつてないほど鮮明に、私を西へと誘っている。
そこには、おそらく私たちがまだ想像もできないような、壮絶な「味の闘争」が待ち受けているだろう。
だが、今の私には、由良府にいた頃のような孤独な焦りはない。
(休むこともまた、戦いか。……親父、ようやくその意味がわかった気がするぜ)
私は、動くようになった右手の指を、強く、強く握り締めた。
指の間から、蜘蛛女郎の糸が微かな音を立て、私の決意を補強していく。
明日の夜明け。
私たちは、この桃源郷のような河原を後にする。
新天地、景公。
そこは、再生した私たちの魂が、真の意味で試される場所となる。
三日目の深夜。
皆が寝静まり、焚き火が穏やかな熾火へと変わった頃。
私は、一人静かに「香辛料」の再構築を行っていた。
料理人にとって、香辛料は単なる調味の道具ではない。
それは、食材の魂を呼び覚まし、食べる者の精神を揺さぶるための「触媒」だ。
私は、この三日間で集めた野草の種子や、岩塩の欠片、そして道中で見つけた名もなき木の実の皮を、左手一本で慎重に石で砕き、調合していた。
(今の俺に、かつての四川の激しさは必要ない)
神を殺した時のあの暴力的なまでの辛味。
それは、破壊のための四川だった。
だが、今の私が求めているのは、破壊の後に芽吹く「再生」を支えるための、深く、静かな熱量だ。
砕いた木の実から、どこか清涼感のある、それでいて奥底に沈むような重厚な香りが立ち上る。
それは、この荒野の冷気と、温泉の熱、そして少女の光が混ざり合ったような、新しい香辛料の誕生だった。
私はその粉末を、蜘蛛女郎が作ってくれた小さな布袋に入れ、大切に懐にしまった。
これが、景公での最初の「武器」になるだろう。
ふと、暗闇の中で蜘蛛女郎の視線を感じた。
彼女は、不寝番の合間に、私をじっと見つめていた。
「……店主。……その右腕、……治ったら、またあのスープを飲ませてくれるかい?」
彼女の声は、かつての妖怪のような掠れ具合はなく、一人の女性としての温かみを帯びていた。
「……ああ。……約束だ。
次は、景公の最高級の素材を、俺の四川で叩き直してやる。……楽しみにしていろ」
彼女は小さく頷き、再び糸を紡ぐ作業へと戻っていった。
その指先が描く曲線は、暗闇の中で、この世界を繋ぎ止める光の筋のように見えた。
右腕に意識を向ける。
少女のピンクの光が、包帯の中でまだ微かに明滅している。
神経の奥底で、かつてないほど繊細な「味の回路」が組み上がっていく感覚がある。
(復興のための、心に言い聞かせる)
私は、心の中で何度も繰り返した。
怒りでも、憎しみでもなく。
ただ、目の前の誰かを「生かす」ために、私は再び火の前に立つ。
そのための三日間。
そのための休息。
足腰の痛みは完全に消え、身体は鋼のように引き締まっている。
精神は鏡のように澄み渡り、あらゆる食材の叫びを聞き逃さない準備ができている。
「……行くぞ、親父。……本当の四川を、見せてやる」
東の空が、白み始めていた。
それは、破壊の王としての私ではなく、再生の料理人としての私の、初めての夜明けだった。
私たちは立ち上がり、背嚢を担いだ。
少女が私の右手を握り、佐藤が先頭に立つ。
蜘蛛女郎が織り上げた、新しい希望を身に纏い。
景公(けいこう)――その門は、もうすぐそこだ。
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