第二十三話 癒えゆく牙、あるいは黄昏の安息
復興とは、単に瓦礫を片付け、新しい建物を建てることだけを指すのではない。
それは、折れ、挫け、泥にまみれた「人の心」を、再び前へと向かせるための、気の遠くなるような儀式だ。
景公(けいこう)への道中、私たちは河原のほとりで足を止めていた。
急ぎたい気持ちは、焼けた鉄のように胸の奥で燻っている。
だが、今の私の身体は、もはや精神の力だけで動かせる限界をとうに超えていた。
ふと視線を向ければ、あの「不味いやつら」が、不器用な手つきで薪を運び、寝床の草を整えている。
街にいた頃の彼らは、まるで怨念の塊のような、薄汚れた妖怪にすら見える呪いじみた存在だった。
金に執着し、他人の絶望を吸って肥え太る、魂の抜けた殻。
それが、私の作った泥臭いスープを啜り、この荒野の過酷な風に晒される中で、少しずつ「まともな姿」を取り戻し始めている。
頬のこけ方が変わり、濁っていた瞳に、生きていくための「光」が微かに灯り始めていた。
彼らもまた、精一杯に生きる努力を始めていたのだ。
「……おじさん。右腕、診せて」
少女が、柔らかな布を手に、私の隣に座った。
夕闇が迫る中、彼女の瞳はいつもより透き通って見えた。
「……手当てなんていい。どうせ、神に呪われた腕だ。布を巻いたところで変わらねえよ」
「いいから。……じっとしてて」
少女は私の言葉を無視し、死人のように冷たく、硬直した私の右腕をそっと膝の上に乗せた。
そして、彼女の両手が、私の肘から先を包み込む。
「……あったかい光を、イメージしてみて」
彼女が静かに目を閉じると、その掌から、ほんのりと淡い、薄紅色の光が漏れ出した。
それは、由良府を焼き尽くしたあの烈火とは違う、春の陽光のような、どこか懐かしい温もりだった。
「……ピンクの光か。……少女、お前、心が落ち着くイメージはなんだ?」
「……わからないけど、やってみたよ。
……だっておじさんには、助けられてばっかりだから。
これくらい、私にだってさせてほしいの」
彼女の掌から伝わる、脈打つような熱。
それが、硬く閉ざされていた私の神経の扉を、一枚ずつ、丁寧に解きほぐしていく。
感覚のなかった指先に、血が通い、微かな痛みが走る。
その痛みこそが、私がまだ「生きている」ことの証だった。
「……動くか?」
私が全神経を集中させると、中指の先が、わずかにピクリと跳ねた。
「……動いた……!」
少女が顔を輝かせた。
「……ああ。……ほんの少しだがな。
だが、これじゃあまだ、まともに包丁は握れねえ」
「……あとは、あと三日くらいは、ここで様子を見て。
無理に動かしたら、せっかくの糸が切れちゃうから」
少女は、私の腕を新しい布で丁寧に包み直した。
三日。
景公の使者が残した言葉を考えれば、あまり猶予はない。
だが、この不完全な右腕のまま門を叩いたところで、結果は見えている。
(……背に腹はかえられない、か)
休息が始まった。
これまで、神との戦いや由良府の解体、そして止まることのない移動。
私は一度も、自分の身体を労わるという発想を持ってこなかった。
料理人にとって、止まることは死だと思い込んでいたからだ。
だが。
(休むこともまた、戦いか)
そう自分に言い聞かせると、肩の荷が少しだけ軽くなったような気がした。
驚くべきことに、簡単な料理程度なら、少女もこなせるようになっていた。
彼女は私が指示した野草を丁寧に洗い、川の水で煮込み、味を整える。
あの不味いやつらも、今では率先して食材を探し、少女の手伝いをしている。
彼らが協力して一皿の雑炊を作り上げる光景は、数日前には想像もできなかった、奇跡のような平穏だった。
「……ゆっくりと、休んでほしい。
店主には、俺たちも散々世話になったんだ。……できることは、俺たちがやる」
佐藤が、薪を割りながら私に言った。
彼の背中には、かつての搾取者の影はなく、ただ一人の「仲間」としての頼もしさがあった。
「……だが、俺が何もしないわけには」
「……おじさんには、お世話になってるから!」
少女が、不味いやつらと声を揃えて、私を制止した。
彼らに囲まれ、私は苦笑するしかなかった。
料理人として、誰かに「作ってもらう」側に回る。
そのむず痒さは、私にとってどんな激辛料理よりも刺激的だった。
そんな折、佐藤が耳寄りの情報を持ってきた。
「……店主、いい知らせだ。
この先の岩場に、自噴している温泉を見つけた。
不味いやつらと一緒に、風呂の用意をしたんだ。……あんたが一番に入ってくれ」
「……温泉だと?」
こんな荒野に、そんな贅沢があるのか。
私は、彼らに促されるまま、川の上流にある岩陰へと向かった。
そこには、大地からこんこんと湧き出す、熱い湯気が立ち込めていた。
不味いやつらが瓦礫から回収してきた鉄板を敷き、岩で囲った、手作りだが立派な露天風呂だ。
私は、汚れたコックコートを脱ぎ捨て、湯の中に身を沈めた。
「……っ……ああ……」
思わず、呻き声が漏れた。
熱い湯が、凝り固まった筋肉を溶かし、皮膚の奥まで浸透していく。
これまで負ってきた無数の傷、神の呪い、そして新天地への不安。
それらすべてが、湯気に溶けて空へと消えていくようだった。
見上げれば、夕闇が本格的に降りてきている。
空には、景公の方向へと導く、妖しくも美しい黄金色の星。
湯の中で、私は自分の右腕を見つめた。
少女の光のおかげか、温泉の熱のおかげか。
腕に宿る不気味な紫色の痣が、少しだけ薄まっているように見えた。
「……復興、か」
私は独り言をこぼした。
壊れたものを元に戻すのではない。
壊れた破片を組み合わせて、以前よりも強固な、新しい形を作り上げること。
それが、私の四川が進むべき道なのかもしれない。
風呂から上がり、キャンプに戻ると。
少女と不味いやつらが作った、温かい雑炊が待っていた。
不揃いに切られた野草。
少しだけ塩気の強いスープ。
料理としては、まだまだ及第点には遠い。
だが。
「……ああ、美味いよ。……よくやったな、お前ら」
その言葉に、彼らはまるで子供のように顔を綻ばせた。
かつての「不味いやつら」は、今、ここにいない。
いるのは、私と共に景公を目指す、腹を空かせた一団の旅人たちだ。
夜の帳が、完全に降りる。
焚き火の爆ぜる音が、穏やかな子守唄のように響く。
三日後の夜明け。
私たちは、この平穏を胸に刻み、再び荒野へと踏み出す。
右腕に宿る、かすかな希望の光と共に。
温泉の熱が引いた後、私はキャンプの隅に敷いた藁の上に横たわっていた。
不味いやつらと佐藤は、交代で不寝番に立ち、少女は私の傍らで、安らかな寝息を立てている。
暗闇の中、私の感覚は研ぎ澄まされていた。
(休むこともまた、戦いか)
その言葉の意味を、私は反芻していた。
戦いとは、拳を振るい、鍋を煽ることだけではない。
自分の内なる荒廃を認め、それを癒やすための時間を「許容」すること。
それは、常に攻撃的であり続けた私にとって、最も困難な「規律」だった。
由良府での死闘、三柱の神々を解体した時の、あの狂気的な高揚感。
あの日以来、私の魂は常に沸騰したままだった。
だが、この冷たい夜風と温泉の温もりが、私の内側の熱を、正しい「平熱」へと戻してくれている。
ふと、右腕に意識を向ける。
少女が巻いてくれた布の隙間から、微かに、呼吸するようにピンクの光が漏れていた。
私は、左手でその光に触れてみる。
あたたかい。
それは、親父がかつて話してくれた、「慈愛という隠し味」の温度だった。
「おじさん、苦しんでる時は、炎じゃなくて、優しい光が必要なんだよ」
少女が寝言のように呟いた。
彼女には、私が見えていないものが見えている。
神殺しの業を背負った私の中に残る、わずかな人間性の残り火を、彼女は守ろうとしているのだ。
私は目を閉じ、意識を右腕の深層へと沈めていく。
そこには、山椒の神が残した、刺すような刺激がまだ燻っている。
だが、その刺激は、少女の光と混ざり合い、新しい「何か」へと変化しつつあった。
単なる麻痺を呼ぶ毒ではない。
食材の真髄を見抜き、その魂を解き放つための、鋭利な感覚器としての進化。
(三日……三日あれば、俺は変われるか)
私は、闇の向こう側にある景公の山脈を幻視した。
あそこには、この街の復興を揺るがす、さらなる巨大な「味の利権」と「権力」が渦巻いているはずだ。
まともな姿に戻りつつある不味いやつらも、景公の空気に触れれば、再び闇に堕ちるかもしれない。
いや、私がそれを許さない。
私は、不自由な右手の指を、一本ずつ、ゆっくりと曲げてみる。
一ミリ、また一ミリ。
関節が軋む音が、静かな夜の闇に響く。
その微かな動きは、明日への確かな希望の咆哮だった。
温泉の硫黄の匂い、野草の雑炊の残り香、そして少女の寝息。
かつての私なら、無駄だと切り捨てていたであろう、これらの「平穏」が、今の私には何よりも力強い糧となっている。
「……見ていろ、景公。俺は、神を殺したこの右腕で、お前たちの用意した最高級の絶望を、極上の四川へと変えてやる」
眠気が、重い霧のように降りてくる。
私は、初めて神に感謝したいと思った。
神そのものではなく、神を殺したことで得られた、この「人間としての夜」に。
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