第二十二話 新天地への胎動、あるいは荒野の晩餐
瓦礫の街を背にし、私たちは西へと足を進めていた。
目指すは、あの使者が告げた未知の国、景公(けいこう)。
地図などない。
あるのは、懐にある羊皮紙が放つ、皮膚を焼くような微かな熱。
そして、風が運んでくる、どこか鉄錆と乾いた砂が混ざり合ったような、大陸の匂いだけだ。
足は、とうの昔に棒のようになっていた。
一歩踏み出すたびに、ふくらはぎの筋肉が繊維単位で裂けるような悲鳴を上げる。
足裏の豆が潰れては、新しい痛みが神経を焼き、歩幅を奪う。
だが、止まるわけにはいかない。
背後には、もはや私が守るべき「厨房」という名の城壁はなく、前方には、まだ見ぬ「真実」という名の戦場が眠っているのだから。
道のりは、想像を絶するほどに険しかった。
かつて文明を繋いでいた舗装道路は、由良府の崩壊に伴う地殻の歪みで粉々に砕け散っている。
今やそこは、荒野と森が猛烈な勢いで領土を奪い返す、原始の風景へと立ち戻っていた。
歪んだ鉄骨を乗り越え、人の気配が完全に途絶えた山道を、私たちはただ黙々と歩き続ける。
「……おじさん、あそこ。……川があるよ。水の音が聞こえる」
少女が、掠れた声で指を差した。
鬱蒼と茂る木々の合間から、午後の陽光を鈍く反射して、銀色の蛇のようにうねる一本の細い流れが見える。
私たちは、乾ききった喉を癒やすように、吸い寄せられるようにその河原へと降りていった。
ここを、今日の休息の地とする。
そして、空腹という名の「目に見えぬ敵」を討つための、一時の聖域とする。
私は、重い腰を下ろすと同時に、職業的な本能で周囲の植生に鋭い視線を走らせた。
料理人にとって、荒野はただの不毛地帯ではない。
そこは、飢えた旅人のために神が(あるいは残酷な自然が)用意した、巨大なパントリーだ。
まず目に飛び込んできたのは、荒れ地の隙間に鮮やかな黄色を湛えた「菜花(なばな)」の群生だった。
春の苦味を極限まで凝縮したようなその蕾は、疲れ切った旅人の胃腸に刺激を与え、眠っていた活力を呼び覚ましてくれる。
さらに、水の匂いが濃い日陰の湿地を探れば、渦を巻いた「薇(ぜんまい)」が、まるで眠れる龍のように顔を出していた。
アクは強いが、適切に処理すれば、どんな高価な肉にも勝る滋味深い食感を生み出す。
そして、土の盛り上がりを見逃さずに掘り起こせば、蔓(つる)の先に丸々と太った「蔓芋(つるいも)」が現れた。
幸い、これは私が親父のノートで学んだ、毒のない安全な種類だ。
澱粉質の確かな重量感は、明日の足腰を支える、何よりの濃密な燃料となるだろう。
仕上げに、凛とした青紫色の花を咲かせた「桔梗芋(ききょういも)」を数本、大地から力ずくで引き抜く。
これら野性の素材を組み合わせれば、四川の炎を操る私にとって、十分な「戦い」ができる。
「……おじさん、見て。これ、すごく綺麗。石……かな?」
少女が、川岸の巨大な岩陰で足を止めていた。
そこには、ごつごつとした岩の表面に、雪のような白い粉を吹いた奇妙な結晶が、地層の隙間から溢れ出すように付着していた。
私は動かない右腕を庇いながら、左手の指先でそれを慎重に掬い、舌に乗せる。
――ガツン、と。
脳髄を直接揺さぶるような、原始的で、暴力的なまでの純粋な衝撃。
「……塩だ。……本物の、岩塩だ」
海を遠く離れたこの山中で、大地が数千万年、あるいは数億年という果てしない時間をかけて醸成した「黄金の結晶」。
これがあれば、ぼやけた味の輪郭が、一瞬で鋭利な刃物のように定まる。
混沌とした素材の群れを、ひとつの「料理」という規律へと統率するための王が、今、私の手に落ちたのだ。
私がドラム缶を据え、即席の炉を築こうとしていると。
背後の茂みから、ガサガサと不穏な、だがどこか怯えたような音が響いた。
現れたのは、街からずっと執拗に私たちを尾行してきた、あの「不味いやつら」の残党だった。
かつての漆黒の高級スーツは見る影もなくボロボロに裂け、黄金の指輪は泥と脂にまみれている。
プライドも、搾取のためのシステムも、この圧倒的な自然の無関心の前では、一片の価値も持たない。
彼らは、獣のように飢えきった瞳で、私の鍋を見つめていた。
「……あ、あのよ、店主……」
一人の男が、震える手で、泥に汚れた布包みを差し出してきた。
それは、彼らが道中で必死にかき集めたのであろう、しなびた木の実や、踏み潰されたような形も不揃いな野草の束だった。
食材と呼ぶにはあまりにも惨めで、泥臭いゴミの山。
「……俺たちも、……なにか、食わせてくれねえか。
これ、食材になるんだろ? ほら、必死で集めてきたんだ。……頼むよ」
それは、彼らにとっての絶対的な「降伏」の証だった。
そして、死にたくないという剥き出しの、醜くも切実な本能の叫び。
彼らは街では人を食い物にしていた。
だが、ここでは彼ら自身が、飢えという名の巨大な怪物に食われ、消えかけている。
私は、鼻を鳴らし、無言でそれらをぶっきらぼうに受け取った。
まるで足元に落ちたゴミを拾い上げるような、冷淡で無愛想な仕草で。
「……おじさん、やっぱり優しいね」
少女が、私の横顔を覗き込んで、小さく微笑んだ。
焚き火の準備をしながら、彼女の瞳には、私の内面を見透かすような光が宿っている。
「……ばか言え。……そんなんじゃねーよ。
ただ、せっかくの食材が無駄になるのが、料理人として我慢ならねえだけだ。
こんなクズでも、火を通せば毒にはならねえからな」
「ふふ。……おじさんは、やっぱりおじさんだね。素直じゃないんだから」
少女は、私の不器用な拒絶の裏にある、奇妙な共生への意志をすべて理解しているようだった。
「……さあ、やるぞ。少女、火を灯せ。……ありったけの熱を寄こせ」
私が促すと、少女は頷き、川岸に積み上げた流木と薪に向かって、そっと、慈しむように手をかざした。
次の瞬間。
シュン、という真空を裂くような静かな音。
続いて、薪の芯から、内側を焦がすような真っ赤な業火が噴き出した。
それは、マッチもライターも介さない、彼女の魂の奥底に眠る「未知の力」そのものだ。
焚き火の熱が、私の冷え切った頬を激しく叩く。
「……あまり、その力を使うなと言っただろう。
どこで誰が、この異常な光を見ているかわかったもんじゃねえからな。
目立てば目立つほど、面倒な連中が寄ってくる」
「……うん。わかってるよ、おじさん。
でも、おじさんの前でしか使わないから。……だから、大丈夫だよ」
少女は、どこか誇らしげに、汚れを拭った胸を張った。
私という「観客」がいる時だけ、彼女は自分を、誰かに喰われるだけの食材ではなく、世界に熱を与える一人の「生きた人間」として認識できるのだろう。
(……それも問題なんだがな。俺の前だからって、安心できるもんじゃねえ。
俺自身が、いつ神の呪いに呑まれるかわかったもんじゃねえんだからよ……)
私は心中で毒づきながら、中華鍋を強火にかたむけた。
川の水は、一度徹底的に煮沸する。
山から流れてくる水は、見た目は澄んでいても、原生の微生物や死骸の毒が潜んでいる可能性がある。
ましてや、あの「不味いやつら」が食あたりでも起こしてみろ。
こんな山奥で、呻き声を上げるあいつらを介抱する手間など、死んでも御免だ。
グラグラと煮え立つ水の中に、まずは皮を剥いた蔓芋と桔梗芋を放り込む。
大地の重厚な澱粉質を、じっくりとスープに溶かし出していく。
次に、薇のアクを抜くために岩塩を惜しみなく加え、一度煮汁を捨てる。
素材の「苦しみ」を塩で洗い流すのだ。
そして再び、菜花と共に鍋へ投入する。
味付けは、先ほど砕いたばかりの、大地の記憶が詰まった岩塩。
そして、男たちが持ってきた、名前も知らぬ木の実の鋭い酸味。
たったそれだけだ。
だが、その不純物のなさが、逆に素材が持つ野性の凶暴さを引き立てる。
鍋の中で、食材たちが踊り、叫び、融合していた。
菜花の春の苦味、芋の土臭い重み、川水の清廉な響き、そして岩塩の鋭利な輝き。
それらが混ざり合い、ひとつの「絶唱」となって、河原の静寂を塗り替えていく。
「……できたぞ。……器を持ってこい。
なけりゃあ、その辺の平らな石でも拾って洗って並べろ。……食わせてやる」
私の言葉が終わるか終わらないかのうちに。
「不味いやつら」は、なりふり構わず鍋の周りに群がり、跪いた。
一口。
彼らがそのスープを、熱さに悶えながら啜った瞬間。
――異様なまでの静寂が、河原を支配した。
それは、街で札束を叩きつけ、他人を嘲笑っていた時の彼らとは、決定的に違う種類の沈黙だった。
汚れきった男の頬を、一筋の涙が伝い、泥の中に落ちていく。
「……ああ。……不味い、はずなのに。
山菜の苦味しかねえはずなのに、……なんで、こんなに、腹の底が熱くなるんだ……。
俺たちが今まで食ってきたのは、……一体何だったんだ……」
菜花の強烈な苦味と、野趣あふれる芋の香気が。
極限まで飢えきった彼らの内臓を、内側から激しく、そして慈しむように叩いていた。
贅を尽くした美食でも、人を狂わせる毒食でもない。
ただ、今日という日を生き延びるために必要な「正義の味」が、そこにはあった。
「……おじさん、……美味しいね。……すごく、身体に染み込むよ」
少女も、ふうふうと息を吹きかけながら、夢中でスープを口に運んでいた。
彼女の頬が、焚き火の鮮やかな赤さと、料理の熱によって、生命力あふれる薔薇色に染まっていく。
私は、一人、鍋の前に立ち尽くしていた。
右腕は、依然として冷たく、死人のように沈黙している。
だが、左手で握り締めた杓子から伝わるかすかな振動が、私の魂を確実に景公(けいこう)という深淵へと向かわせていた。
新天地を求める旅。
それは、過去の自分を捨てる旅ではない。
過去の痛みも、屈辱も、あいつらが持ってきた汚れた食材でさえも、すべてを「自分の一部」として鍋に放り込み、一皿の運命へと昇華させるための、終わりのない巡礼なのだ。
火が消えかかる頃。
西の空には、見たこともないような不気味で美しい、黄金色の星々が不規則に瞬き始めていた。
あそこにある。
私の右腕が動かなくなった理由も。
そして、その呪いを解き、四川の極致へと至るための、究極の「熱」も。
「……行くぞ、少女。
夜が明けたら、あの険しい山の向こう側へ。……そこが、景公の、本当の入り口だ」
私は、空になった中華鍋を背負い直した。
棒のようになっていたはずの足は、不思議と、新しい翼を得たかのように軽くなっていた。
夜が深まると、河原の空気は氷の刃のように鋭利な冷たさを帯び始めた。
不味いやつらは、一時の安堵からか、焚き火の残骸の周りで折り重なるようにして、深い眠りに落ちている。
その寝顔は、もはや傲慢な搾取者のものではなく、ただ、明日を恐れながらも生きようとする、か弱い生命そのものだった。
私は、一人眠れずに、月光に照らされた自分の右腕を見つめていた。
皮膚は蒼白で、血管の浮き出た腕は、自分の体の一部ではない、別の異形の生き物の残骸を無理やり繋ぎ合わせているかのように見える。
月光の下では、その腕が、微かに、本当に微かにだが、不気味な紫色の光を放っているように見えた。
指先を動かそうと、脳の全神経をその一点に集中させる。
動け。
お前は、俺の半身だろうが。
お前が動かなければ、俺は景公の門を叩くことさえ叶わない。
しかし。
腕は沈黙を貫く。
それどころか、時折、深海から泡が立ち上がるような、不気味な痺れが神経の奥底を這い回る。
それは、山椒の神が残した、呪いという名の「進化の予兆」なのか。
「……おじさん。……やっぱり、眠れないんだね」
背後から、少女の静かな声が響いた。
彼女は、汚れた毛布を肩にかけ、音もなく私の隣に座った。
「……別に。……明日のルートを頭の中で整理していただけだ」
「……嘘。……右腕が、泣いてるんでしょ?」
少女は、私の右腕をそっと、壊れ物を扱うような手つきで両手で包み込んだ。
彼女の掌から伝わってくる、微かだが、熱いほどの生命エネルギー。
先ほど薪に火をつけた、あの人知を超えた力が、私の冷え切った腕の深部へと、じわじわと染み込んでくる。
「……あいつ、……景公の使者が言っていたことは、本当だと思うか?
あの国に行けば、すべてが変わるなんて話が、本当にあると思うか」
「……わからない。……でも、行かなきゃいけない気がするの。
おじさんの腕を治すためだけじゃなくて、……私たちが、本当の意味で『自分』を見つけるために」
自由。
食材としての管理から解き放たれ、ただ一人の人間として、誰かのためではなく、自分の意志で料理を作り、食うこと。
そんな当たり前のことが、この狂った世界では、何よりも到達困難な聖杯のように思えた。
「……景公に行けば、……由良府の神々なんて子供騙しに見えるような、本当の『怪物』たちがいるかもしれないんだぞ」
「……それでもいいよ。……おじさんが作る、あの苦くてあったかいスープがあれば。……私は、どこまでも、地の果てまで行ける気がするから」
少女は、私の肩に頭を預け、再び静かに目を閉じた。
彼女の規則正しい寝息が、冷たい夜風の中で、唯一の「生」の証明として響いていた。
私は、懐からあの羊皮紙を取り出した。
月光に透かすと、そこには「火の鳥」の紋章が、生きているかのように脈打ち、赤色で妖しく浮かび上がっている。
その紋章が、今、私の瞳に向かって羽ばたいたように見えたのは、極限の疲労が見せた幻覚だろうか。
明日。
私たちは、文明の最後の残滓を越え、未踏の領域へと踏み込む。
そこから先は、地図も、法も、そして救いもない。
ただ、「食うか食われるか」という、この宇宙で最も古く、最も純粋な残酷な理だけが支配する場所だ。
「……見てろよ、親父。
あんたが夢にまで見て、結局辿り着けなかったその先を、俺が必ず見せてやる」
私は、左手で中華鍋の冷たい取っ手を、折れんばかりの力で握り締めた。
鉄の冷徹さが、私の決意を、より鋭く研ぎ澄ませていく。
夜明けは近い。
新天地、景公。
そこは、私の四川が、真の意味で神を殺し、完成するための、最後の試練の祭壇となるだろう。
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