第二十一話 泥を啜る牙、あるいは黄金の汚辱
復興という言葉は、時に残酷なまでに甘美な響きを持って、絶望の淵にいる者たちの耳を撫でる。
だが、その実態は、爪を剥ぎ、喉を焼き、泥を啜るような作業の連続だ。
泥臭く、終わりの見えない肉体労働の積み重ね。
それが「復興」という名の正体だった。
空を覆っていた由良府の神々の巨大な影が去り、降り注ぐ陽光が日常の輝きを取り戻したかのように見えても。
地面にへばりついた巨大な瓦礫の山は、神々の気まぐれのように勝手に消えてはくれない。
人々の心に深く刻み込まれた、絶対的な屈辱。
「自分が、誰かのための食材として管理されていた」
その尊厳の剥奪。
その傷は、どれだけ太陽の光が降り注ごうとも、決して塞がることはなかった。
私は、新しい拠点を求めて、少女と共に街の無惨な残骸を彷徨い続けていた。
かつての『翠嵐』があった場所は、もはや焦げた土塊と砕けたレンガの墓場だ。
料理人として再起するために。
何よりもまず、私は「厨房」を必要としていた。
ガスが通らねば、薪を焚けばいい。
水道が死んでいるなら、井戸を掘ればいい。
だが、火を閉じ込め、熱を練り上げるための「炉」がなければならない。
食材と真摯に対話するための「清潔な平場」がなければならない。
それらがなければ、料理人の魂は行き場を失い、ただの火遊びへと成り下がるのだ。
しかし。
どこを探しても、見つからない。
どの建物も、背骨をへし折られた巨大な獣のように無様に崩れ去っていた。
辛うじて壁一枚が形を保っている場所には、すでに絶望しきった避難民たちがひしめき合っている。
彼らは、自らの居場所を守るために、蟻のように牙を剥き合っていた。
本格的な調理場はおろか。
家族が畳一枚で横になれる平穏すら。
今のこの地獄のような街では、最高級のダイヤモンドよりも希少な価値を持っていた。
「……おじさん、足、大丈夫?」
少女が、私の煤けてボロボロになったコックコートの袖を、消え入りそうな力で引く。
「……少しだけ休もうよ。顔色が、すごく悪いよ」
私の右腕は、依然として死人のように冷たかった。
動かぬ鉄の棒のように、胸元に吊るされたままだ。
その奥底から這い上がってくる、不気味な痺れ。
一歩歩くたびに、それが背骨を伝って脳漿を掻き回す。
神を殺した代償としての呪縛。
それは一刻一秒、私の肉体の自由を奪い続けていた。
精神を磨り潰し続けていた。
「……休んでいる暇などない」
私は短く応えた。
「腹を空かせた連中の胃袋は、一分一秒を争う戦場なんだ。
彼らは、俺が足を止めている間にも、絶望を食って腹を満たそうとするからな」
私は、路地の角に打ち捨てられていた、錆びついた巨大なドラム缶を見つめた。
そして、瓦礫の中から奇跡的に拾い集めた、平らな厚鉄板。
まともな厨房が見つからないのであれば。
ここを一時的な、だが絶対的な聖域にするしかない。
私は、左手一本で重い鉈を振るった。
ガリッ、と嫌な音を立ててドラム缶を裂く。
空気が通るように底を抜き、酸素が循環する道を作る。
即席の、だが命の火を灯すためのコンロ。
そこに。
かつての『翠嵐』の廃墟から救い出した、唯一の生き残り。
あの歪んだ中華鍋を据えた。
今日の炊き出しは。
肉屋の佐藤が必死に守り抜いた地下倉庫から提供された、「骨の周りの削り節」。
そして、雨水で丁寧に洗って泥を落とした、「焦げた大麦」の雑炊だ。
調味料は、誰かが瓦礫の深層から掘り出した一袋。
岩のように硬く固まった「粗塩」だけ。
火を灯す。
立ち上る煙が、私の鼻腔を容赦なく突いた。
眠っていた料理人としての回路が、強制的にフル稼働を始める。
私は動かない右腕の重みに耐えながら。
左手一本で巨大な鍋を煽った。
沸騰するスープ。
その表面に浮かび上がる灰やアク。
それを、一滴の妥協もなく、静かに掬い取っていく。
塩だけで味を整える。
それは、ごまかしが一切効かない作業だ。
素材の叫びをそのまま受け止める、「真実の味」の抽出。
やがて。
芳醇な香りが広場に漂い始めた。
由良府の神々が好んだ、人工的で不気味な芳香とは違う。
泥の中から力強く立ち上がるような。
野蛮で、それでいて純粋な生命の匂いだ。
どこに隠れていたのか。
腹を空かせた亡者たちが、建物の影から幽霊のように現れ始めた。
長い。
長い列が、瓦礫の間に形成されていく。
だが。
その列の先頭に、避難民ではない異物のような影が現れた。
漆黒の高級スーツ。
それを泥で汚し、だが隠しきれない傲慢な威圧感を全身から発散させている男たち。
全部で三人。
中央に立つ男は、指に重厚な黄金のリングをいくつも嵌めていた。
この廃墟にはあまりにも不釣り合いな、輝くような白いシルクのハンカチ。
それで鼻を覆い、男は嘲笑した。
「……ほう。これが、巷で噂の『神殺し』が作る炊き出しというやつか。
実に不潔で、貧相な眺めだ」
男は、私の差し出した器を見下ろした。
汚い産業廃棄物でも見るような、冷徹な目。
周囲の避難民たちは、彼らから放たれる異様な圧力に気圧されていた。
蜘蛛の子を散らすように距離を置き、息を潜めている。
「……食うなら並べ」
私は、感情を完全に殺した。
「食わないなら、今すぐこの視界から消えろ。
後ろには、お前より切実に命を繋ごうとしている奴らが控えてるんだ」
左手で、重い杓子を握り直す。
男は鼻で笑った。
部下の一人に、不遜な合図を送る。
部下は懐から、一束の分厚い札束を取り出した。
それを、私の足元。
泥だらけの地面に、無造作に放り投げた。
泥の上に散らばる、かつての文明の象徴。
それを見た避難民たちの、乾いた喉が鳴る音が聞こえた。
「……これは『特別なお代』だ。
その不潔な泥水の雑炊を一杯、寄こせ」
私は無言で、器に並々と熱い雑炊を注いだ。
そして男に渡す。
男はハンカチを外し。
一口、そのスープを不快そうに口に含んだ。
「……ぺっ!!」
次の瞬間。
男は雑炊を地面に吐き捨てた。
熱い汁が。
私の横で薪を運んでいた、少女の足元に激しく飛び散る。
「……不味い。
救いようがなく、不味いな。
こんな泥水を、大層な顔をして『施し』と呼ぶとは。
東洋の料理人も地に落ちたものだ」
男は、嘲笑しながら靴の先を動かした。
泥の中に沈んだ札束を、さらに深く、汚物のように踏み込んだ。
「……だが、これでいいのだ。
我々の仕事は、この『不味い食べ物』を。
我々よりさらに下の層にいる、家畜共に届けることだからな」
男は部下たちと共に、私が渡した器を強引に回収した。
そして、彼らの後ろに控えていた男たちに手渡す。
そこにいたのは、もっと汚れ、目の死んだ男たちだった。
器を受け取った彼らは。
まるでお仕置きを受けるかのように、苦悶の表情で雑炊を飲み干した。
そして。
代金として、さらに汚れた金を中央の男に差し出していく。
「……見ての通りだ、料理人。
お前の作る『不味い飯』は、我々の間では最高の『罰』であり。
無限に金を生む『負の資産』なのだ。
神を失い、自らの足で立つこともできない連中には。
この程度の汚泥がお似合いだと思わないか?」
彼らは、私の炊き出しを食べれば食べるほど。
下の階層から金を強欲に吸い上げていた。
その中抜きした、汚れた札束。
それを、再び私への「侮辱」として叩きつけてくる。
炊き出しという、純粋な善意。
それが彼らの腐った手にかかれば。
下へ下へと毒を流すための、「搾取の循環システム」へと変貌していた。
「……貴様ら」
私の左手が、中華鍋の取っ手を握りつぶすように力を込めた。
ミシリ、と鉄が歪む音がした。
「自分が何をしているのか。
その足りない頭で理解できているのか」
喉の奥から、せり上がってくるものがあった。
どす黒く、煮えくり返るような殺意。
「……理解しているとも。これが復興だ」
男は平然と言い放った。
「お前の飯を食って、連中は明日も泥を啜って働く。
我々は、その泥の中から浮かび上がった金を掬い上げる。
これが、神なき後のこの街における『新しい理』だ。
感謝してもらいたいものだな。
不自由な右腕の、店主殿」
中央の男は、最後の一枚となった一万円札を指に挟んだ。
そして。
私の魂そのものである鍋の中に、それを投げ入れようとした。
その瞬間だった。
数日間、一度も感覚が戻ることのなかった私の右腕が。
ドクン。
大地を震わせるような音を立てて。
激しく、脈打った。
視界が、一瞬で緋色の火花に染まった。
動かないはずの右腕から。
由良府の三柱をも焼き尽くした、あの「地獄の業火」の残滓。
それが、パチパチと音を立てて散った。
私は、飛んできた札束を。
左手で、空中で鷲掴みにした。
そのまま。
男の口に、奥歯を砕くほどの力で、強引に押し込んだ。
「……もごっ!? ……が、あがっ!?」
「……不味いだと?
ああ、そうだろうな」
私は、男の胸ぐらを鷲掴みにした。
「魂の抜けた貴様のような寄生虫の味蕾には。
この命を繋ぐ純粋な熱は、毒以外の何物でもないだろうさ」
そのまま。
地面に転がるドラム缶の中で荒れ狂う火へと。
その歪んだ顔を押し付けた。
炎が、男の高級スーツの襟を舐める。
脂の焦げる、鼻を突く嫌な臭いが立ち込めた。
「……俺の炊き出しは、生きるための飯だ。
貴様らの汚れた財布を膨らませるためのエサじゃあねえ。
金と引き換えに絶望を食わせ、それを循環させる連中は。
俺の客じゃあねえ。
……ただの、燃えないゴミだ」
私は男を。
瓦礫の山の中へと、容赦なく放り投げた。
部下たちが慌てて武器を取り出そうとする。
だが。
私の背後に立ち上る、圧倒的なプレッシャー。
「見えない神の残光」に気圧され。
彼らは蛇に睨まれた蛙のように、その場で硬直した。
「……消えろ」
私は冷たく告げた。
「二度と、俺の鍋にその汚れた金を近づけるな。
次に来た時は。
貴様ら自身を刻んで、この鍋の出汁にしてやる」
男たちは、悲鳴を上げながら逃げ去っていった。
尻餅をつき、泥にまみれながら。
空に舞う、泥まみれの万札。
広場には再び、耳が痛くなるような静寂が戻った。
少女が、私の右腕を支えた。
心配そうに。
だが、何かを期待するように。
「……おじさん、腕、いま……少しだけ、動いたよね?」
私は、自分の右腕をじっと見つめた。
再び氷のように冷たくなり。
完全に感覚を失った腕。
だが。
その皮膚の奥底で。
確かに「景公」から吹く、乾いた砂の風に共鳴するように。
新たな「怒りのレシピ」が胎動し始めていた。
炊き出しは再開された。
だが。
人々の瞳には、汚泥のような不安が残っていた。
先ほどの「不味いやつら」が残していった、拭いきれない不信感。
善意を食い物にする。
階層構造の中で、絶望を循環させる影の組織。
復興の光が強くなればなるほど。
その足元に広がる影は、より色濃く、深くなっていく。
この街を、精神的に侵食しようとしていた。
私は、左手一本で巨大な鍋を回し続けた。
空は、どこまでも青い。
不気味なほどに、澄み渡っている。
だが、私の心の中には。
景公への招待状を受け取ったあの時よりも。
もっと冷徹で、鋭利な決意が宿っていた。
まともな厨房は見つからない。
右腕は依然として動かない。
そして敵は、形のない「腐敗」という名のシステムだ。
「……見てろよ、親父」
私は呟いた。
「俺は、この泥沼さえも、四川の炎で焼き尽くしてやる。
本当の意味で。
この街を『解体』してやる」
雑炊の白い湯気の向こう側。
未知の国・景公の。
天を突く険しい山脈が。
幻覚のように、ゆらゆらと揺らめいて見えた。
辺りは急速に夜の帳に包まれていった。
私は、右腕を吊っていた晒しを解いた。
もはや使い物にならない、棍棒のような腕を露わにする。
皮膚は、月明かりに照らされて。
蝋細工のような青白い輝きを放っていた。
指先を動かそうと、脳から信号を送る。
火が出るほどの、強い意志。
しかし。
指先はピクリともせず、ただ沈黙を保っている。
先ほどの、あの一瞬の脈動。
あれは幻だったのか。
それとも、私の内なる怒りが、神の呪いを一時的に凌駕したのか。
「……クソが」
私は、動かない右手を左手で乱暴に掴んだ。
無理やり、握らせようとする。
だが、指は力なく開いたまま。
私の意志を拒絶し続けている。
料理人にとって、右腕を失うことは。
死よりも残酷な刑罰だ。
包丁を握る感覚。
火の熱を測る、繊細な指先。
鍋の重みを受け流す、肘の角度。
それらすべてが。
今の私には「過去の遺物」となっていた。
だが。
絶望に浸っている暇はない。
懐の羊皮紙が、今も微かに熱を放っている。
景公という国は。
おそらく私のような「不完全な料理人」を。
より苛烈な方法で試しに来るだろう。
あの不味い雑炊を吐き捨てた男。
あの男の背後にいるのは、単なる地元のマフィアではない。
由良府が崩壊したことで生まれた。
巨大な「食の利権」を巡る、ハイエナたちの群れだ。
「……おじさん、お粥、まだ残ってる?」
暗闇の中から。
一人の痩せ細った子供が、小さなカップを差し出してきた。
「……ああ。まだ、命を繋ぐ分は残ってる」
私は答えた。
「しっかり食え。
食って、あいつらみたいに腐った大人にならないように。
心に火を灯しておけ」
左手一本で、鍋の底を浚う。
濃厚な脂の浮いた、最後の一杯。
子供は、熱いスープを一口飲むと。
驚いたように、大きく目を見開いた。
「……あったかい。
苦いけど、すごく、力が湧いてくる」
その言葉。
そのたった一言が。
私の右腕に走る苦痛を。
ほんのわずかだけ、和らげたような気がした。
復興の火は、まだ小さい。
だが、それは確実に。
闇を切り裂く刃へと、姿を変えようとしている。
私は、明日のための薪を割り始めた。
左手一本で、斧を振るう。
一撃。
また一撃。
その度に、私の肉体は新しい「戦い方」を覚えていく。
神経が、再構築されていく。
見ていろ、景公の王。
俺は、この不完全な身体で。
お前の理をすべて解体し。
真実の四川を、その喉元へ喰らわせてやる。
夜風は冷たく。
だが私の胃袋の中には。
消えない炎が宿っていた。
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