第二十話 復興の火、あるいは景公よりの風

音が、変わった。

 数日前までこの街を支配していたのは、神々の傲慢な哄笑と、崩れ落ちる建物の断末魔、そして逃げ惑う人々の絶叫だった。

 だが、今の空気を震わせているのは、もっと低く、重く、そして泥臭くも力強い「生」の脈動だ。

 瓦礫をどかす石の擦れる音。

 泥だらけの手で支え合う人々の荒い吐息。

 そして、私が焚き上げた、命を繋ぐための「火」が爆ぜる音だ。

 私は、瓦礫の山となった商店街の中央広場に、急ごしらえの「炊き出し本部」を設営していた。

 本部といっても、折れた電柱と崩れた建物の梁を、生き残った若者たちの手を借りて組み上げ、その上に泥と煤で黒ずんだビニールシートを強引に被せただけの、見るも無惨な掘っ立て小屋に過ぎない。

 だが、この凄惨な風景の中にあって、こここそが唯一、死の臭いがしない場所だった。

 ここが潰えれば、この街の連中は、明日を夢見る前に飢えで心が死ぬ。

 料理人として、その結末だけは、たとえ神が望もうとも、私は絶対に認めない。

「……おじさん。……お水、くんできたよ。……すごく、重かった。……でも、こぼさないように頑張ったよ」

 少女が、両手で巨大なポリバケツを抱え、足元をふらつかせながら歩いてくる。

 かつて、由良府の神殿で見たあの美しい銀髪は、今は煤と灰、そして乾いた血の跡で汚れ、束になっている。

 着ている服も、イザベラの魔術の余波でズタズタに裂け、もはや布切れを纏っているのに等しい。

 だが、彼女の瞳を見て、私は確信した。

 そこには、かつて「食材」として管理され、死の恐怖に魂を削り取られていた頃の、あの空虚な濁りはない。

 必死に水を運び、泥にまみれ、生きようとする「意志」が、その小さな瞳の奥で確かに爆ぜていた。

「……よくやった。……そこに置いておけ。……次は、火の番だ。……薪を絶やすな。……この街に火が灯っている限り、……俺たちはまだ負けてねえ。……火が消えれば、それは即ち死だと思え」

 私は、相変わらず感覚を拒絶し、冷たい棒のようにぶら下がる右腕を、汚れた晒しで無造作に胸元へ吊り下げたまま、左手一本で巨大な寸胴鍋をレンジの火にかけた。

 ガコン、という重厚な鉄の音が、広場の重苦しい沈黙を切り裂いた。

 かつての『翠嵐』で、親父が戦後から使い続けてきた、命よりも重い愛用の鍋。

 底は幾千回もの強火に晒されて煤け、側面は瓦礫の直撃を受けて激しく歪み、凹んでいる。

 だが、その厚い鉄の肌には、これまで数え切れないほどの空腹の魂を救い、温めてきた、料理人の矜持と歴史が深く、深く刻み込まれていた。

 今日の献立は、街の焼け跡から奇跡的に回収された「塩漬け肉と穀物の粥」だ。

 世界を救うような高貴なスパイスなど、ここには存在しない。

 ましてや、由良府の神々が宣ったような、人を狂わせ、魂を蕩けさせるような美食の理など一片も混じってはいない。

 だが、私は知っている。

 極限の絶望を生き延び、自らの身体が「食材」として扱われるという地獄を見た人間の内臓が、今、最も渇望しているものは、脳を焼くような美食ではない。

 ……ただ、喉を通り、傷つき、収縮しきった胃壁を内側から優しく、そして力強く叩く「熱」そのものなのだ。

 私は左手で重い木べらを操り、鍋の底をゆっくりと、大地を耕すように掻き回した。

 ジュゥ……。

 熱せられた鍋の底で、小さく刻んだ塩漬け肉の脂が溶け出していく。

 それは不純物を一切含まない、純粋な「生命の油」だ。

 その脂が、少女が汲んできたばかりの澄んだ水と出会い、激しい水蒸気を上げながら混ざり合っていく。

 乳白色に濁りゆくスープ。

 そこに、人々が瓦礫の下から爪を剥がしながら、涙と共に掘り出してきた、泥まみれだった穀物を投入する。

 何度も、何度も水で洗い流し、最後に残った「希望」の粒だ。

 パチ、パチ、と爆ぜる薪の火の粉。

 周囲には、配給を待つ人々の、長く、蛇のようにうねる列ができていた。

 かつて美食を謳歌し、ワインの年号を語っていた富豪も。

 頑固一点張りで近寄りがたかった職人も。

 未来を奪われかけた小さな子供も。

 今は一等しく、ただ「飢えた一人の人間」として、鍋から立ち上る湯気の向こう側を、獣のような瞳で見つめている。

 その列の中には、食欲という本能に負け、隣の者の器を奪おうと、血走った目で睨み合う殺伐とした空気も混じっていた。

 飢えは、人間から容易に「理性」という薄皮を剥ぎ取る。

 それを辛うじて繋ぎ止められるのは、唯一、器から立ち上る「確かな香気」だけだった。

「……みんな、……生きてるんだね、おじさん。……でも、……みんな、怖い顔をしてる。……仲良くできないのかな」

 少女が、焚き火の熱に頬を真っ赤に染めながら、震える声で呟いた。

「……食ってるうちは、人間だ。……食わなくなったら、そこが死に場所だ。……だから、俺はこれを作り続ける。……この街に、一滴の温かい汁さえあれば、……人はまだ、隣の奴と『美味い』と言い合えるはずだ。……それが、俺の戦いだ」

 私は、鍋の中をじっと見つめた。

 穀物が水分を限界まで吸い込み、ふっくらと、今にも爆発するように膨らんでいく。

 その一粒一粒が、人々の命を繋ぐための弾丸であり、癒やしの薬のように思えた。

 配給が始まった。

 私は、一人一人に丁寧に、熱々の粥を注いでいった。

 器がない者には、空き缶や、割れた陶器の欠片、あるいは煤けたバケツにさえも、公平に、かつ情熱を込めて注ぐ。

「……ありがとう、店主。……あんたの料理がなければ、……俺は今頃、……心が折れて、……あっち側へ行ってたよ」

 肉屋の佐藤が、震える手で粥の入った器を受け取った。

 かつての巨漢は見る影もなく痩せ、頬はこけていたが、彼は、一口啜るごとに、喉を鳴らし、深く、深く溜息をついた。

 それは、腹の底に溜め込んでいたドロドロとした死の恐怖を、体外へと押し出すための、魂の換気のような儀式だった。

 街の復興は、遅々として進まない。

 瓦礫を一つ取り除くのにも、何十人もの大人が肩を寄せ合い、呻き声を上げながら力を合わせる必要がある。

 重機は燃料が尽きて沈黙し、水も電気も、かつての魔法のような利便性はどこにもない。

 この不便さこそが、今のこの世界における「現実」だった。

 だが、温かい飯を口にした者たちの瞳には、確実に「今日を生き、明日を夢見る」という、原始的な熱量が宿り始めていた。

 食卓とは、文明の最小単位なのだ。

 一人が食べ、二人が食べ、それがやがて家族となり、街となる。

 私は、その根源的な営みの中心に立っている。

 昼時が過ぎ、激しい列がようやく途切れ、巨大な鍋の底がわずかに見え始めた頃。

 一人の「異邦人」が、炊き出しのテントの前に、音もなく現れた。

 男は、この廃墟の泥と煤にまみれた風景には、あまりにも不釣り合いな、豪奢な刺繍が施された灰色の外套を纏っていた。

 外套の裾には、砂漠の砂を吸い込んだような、独特の渇いた汚れがこびりついている。

 その顔は彫りが深く、瞳には、凍てつくような、それでいてすべてを見通すような深い知性が宿っていた。

 彼はそこに立っているだけで、周囲の温度を数度下げるような、圧倒的な「格」を纏っていた。

 男は、私の前に立ち、一礼した。

 その動作一つをとっても、極限まで無駄が削ぎ落とされた、武人のような、あるいは職人のような精緻さがあった。

「……見事な料理だ。……ただの穀物と脂の中に、これほどの『鋼の意志』を込められる料理人が、この東の果ての、吹き溜まりのような街にいたとは」

 その言葉には、独特の抑揚があった。

 現代の日本語ではない。

 どこか大陸の、……古い、歴史の地層の下から響いてくるような、重厚で威厳に満ちた響き。

「……褒めても、おかわりはねえよ。……あんた、どこの誰だ。……救助隊の人間じゃあなさそうだが。……その服、……この国のものじゃねえな。……漂ってくる匂いも、この辺りのもんじゃねえ」

 私は、左手で重い杓子を握り直し、男を値踏みするように睨みつけた。

 感覚のないはずの右腕が、微かに疼く。

 由良府の三柱を倒した時とは別の、もっと「根源的な、冷徹な脅威」を、私の料理人としての肌が察知していた。

 男は、微かに口角を上げ、西の空を見上げた。

 その視線の先には、分厚い雲に覆われた、大陸の闇が広がっているはずだった。

「……私は、風を追って来た。……遥か西、……黄砂が万物を覆い尽くし、白銀の山脈が神々の座を突き抜ける国。……人々はそこを、**【景公(けいこう)】**と呼ぶ」

 ……景公。

 その名を聞いた瞬間、私の背筋に、氷の柱が突き刺さるような戦慄が走った。

 親父が遺した、あのボロボロのレシピノート。

 最後の、書き殴られたような真っ白なページ。

 そこに、親父が最期に、震える筆跡で、たった一言だけ、血の滲むような力で書き残していた地名。

 それが、景公だった。

「……景公だと? ……あそこは、由良府の魔力さえ届かない、……『食の空白地帯』だって、……親父から聞いたことがある」

「……空白、か。……それは、由良府の、あの浅薄な神々の傲慢が吐いた嘘だ。……あのような見せかけの美食、景公においては塵にも等しい」

 男は、外套の内側から、古びた、だが鏡のように磨き上げられた「銀の短刀」を、音もなく取り出した。

 それは人を殺めるための武器ではない。

 肉を、骨を、あるいは運命そのものを精密に切り分けるための、究極の「調理人の道具」だった。

 その短刀が動くたび、空気が裂けるような冷たい音が響く。

「……我が国、景公において、……食は『祈り』であり、……そして『絶対的な裁き』だ。……お前がカイザーを倒し、由良府の歪んだ美食の循環を完全に断ち切ったことで、……数千年の間、石のように固く閉ざされていた景公の門が、……再び開かれようとしているのだ」

 男の言葉と共に、西から乾いた、土の匂いを孕んだ烈風が吹き抜けた。

 その風は、日本の湿り気を帯びた風とは、明らかに性質が違っていた。

 何千年も変わらぬ大地の重みと、……決して抗うことのできない「終焉と始まりの予感」を運んでくる、死と再生の風。

「……お前、……。俺に, 何を伝えに来た。……宣戦布告か、それとも勧誘か。……俺は、今のところこの街の炊き出しで忙しいんだがな」

「……招待状だよ、翠嵐の継承者。……お前のその、泥にまみれた不格好な四川が、果たして『景公』の冷徹な鉄の理に耐えうるか。……あるいは、お前のその不器用で、甘っちょろい『慈悲の味』が、砂漠の民を救うのか。……それを、我らが王が、その瞳で確かめたがっている」

 男はそう言うと、銀の短刀を鞘に収め、一通の、重厚な羊皮紙を私の前の配給台に置いた。

 羊皮紙は、触れずともその重さが伝わってくるような、奇妙な存在感を放っていた。

 羊皮紙には、この世の理を超えたような、うねる金色の文字が躍っている。

 その中央には「一羽の火の鳥」が、自らの血を流しながら、永遠に消えない炎を喰らう、不気味で美しい紋章が刻印されていた。

「……景公、か。……最高じゃねえか。……前菜が終わって、ようやくメインディッシュのお出ましってわけだ」

 私は、羊皮紙を左手で乱暴に掴み取った。

 右腕は、依然として冷たく、動かない。

 街の復興も、まだ瓦礫の一角を取り除き、人々の腹を一度だけ満たしたに過ぎない。

 だが、私の料理人としての本能が、激しく、痛烈に警鐘を鳴らし、同時に魂の奥底で、かつてないほどの歓喜の叫びを上げていた。

 由良府との戦いは、この世界の「食」を巡る、壮大で狂ったドラマの、ほんの前菜に過ぎなかったのだ。

 大陸の深奥に眠る、神々さえも立ち入れない未知の「味」。

 そして、生命を維持するためだけに存在する、景公の冷酷で純粋な理。

「……おじさん、……。……また、どこか遠くに行っちゃうの? ……私を、また一人にするの?」

 少女が、私の煤けたコックコートの裾を、小さな手で、ちぎれんばかりの力で掴んだ。

 その手は震え、瞳には涙が溜まっていた。

 私は、彼女の震える手を左手で包み込み、西の空、遥か彼方にそびえ立つ見えない鉄の山脈を見据えた。

「……いや。……まずは、この街の連中を腹一杯にすることだ。……腹が減ったままじゃ、景公へ行く旅費も稼げねえし、包丁も研げねえからな。……だが、……その次は、……俺たちで、世界を『解体』しに行かなきゃあな。……覚悟しておけよ、小娘」

 男は、まるで最初から存在していなかったかのように、音もなく闇と風の中へと消えていった。

 後には、乾いた砂の匂いと、一枚の重い羊皮紙。

 そして、私の胸の中で、決して消えることのない、新たな、青白い「不滅の火」が残された。

 復興の足音。

 未知なる国、景公の影。

 私の旅は、今、真の深淵へと向かって、爆発的に加速し始める。

【深まる闇と、右腕の慟哭】

 男が去った後の広場には、再び、人々の啜る音と、瓦礫が崩れる乾いた音だけが残った。

 私は、左手で掴んだ羊皮紙を、無造作にコックコートの懐へと突っ込んだ。

 羊皮紙から伝わる熱は、私の肌を通して、心臓の鼓動を狂わせていく。

「……景公、か」

 私は独りごちた。

 その名は、かつての修行時代、親父が酒に酔った時にだけ、ひどく怯えたような、あるいは狂おしく焦がれたような顔で口にしていた呪文だった。

『翠嵐の味は、まだ完成しちゃいねえ。……景公の門を叩かねえ限り、俺たちは一生、ただの飯炊きだ』

 当時の私には、その意味が分からなかった。

 四川の熱を知り、唐辛子の深淵を覗けば、それが料理の頂点だと思っていた。

 だが、今ならわかる。

 由良府の贅を尽くした美食さえも「塵」と断じるあの男の瞳。

 あそこには、味覚を超えた、生命そのものの根源があるのだ。

 私は、動かない右腕に視線を落とした。

 皮膚は蒼白で、血管の浮き出た腕は、まるで自分の体の一部ではない、別の生き物の残骸を無理やり繋ぎ合わせているかのように見える。

 右手の五指を動かそうと、脳から強烈な信号を送る。

 動け。

 動いてくれ。

 お前が動かなければ、俺は包丁を握れない。

 お前が動かなければ、俺はあの中華鍋を振れない。

 だが、右腕は無慈悲なほどに沈黙を貫いていた。

 それどころか、時折、深海から泡が立ち上がるような、不気味な痺れが神経の奥底を這い回る。

 それは、山椒の神が残した、最後の手向け……あるいは「呪い」だった。

『お前は、神を殺した。……その代償は、お前の半身だ』

 そんな幻聴が、風に乗って聞こえてくる。

「……ふざけるな。神だろうが呪いだろうが、俺の邪魔はさせねえ」

 私は低く吐き捨てた。

 右腕が死んでいるなら、左腕を二倍に鍛えればいい。

 左腕が死ねば、口で包丁を咥えてやる。

 料理人であることを辞めるという選択肢は、私の辞書には存在しなかった。

 この飢えた街を、そしてあの使者がいた景公という国を、私の味で捻り潰す。

 その野心だけが、今の私を支える唯一の燃料だった。

 私は、空になった巨大な寸胴鍋を、左手だけで強引に持ち上げた。

 十キロを超える鉄の塊が、左腕の筋肉に凄まじい負荷をかけ、悲鳴を上げさせる。

 だが、その痛みが心地よい。

 由良府で失いかけた「物理的な重力」が、今、私の全身を現実へと繋ぎ止めている。

「……おじさん。……大丈夫? ……無理しちゃダメだよ。……私が、手伝うから」

 少女が駆け寄り、鍋の底を小さな手で支えようとした。

 私は、彼女の手を制した。

「……いい。……これは俺の役目だ。……汚れ仕事は俺がやる。……お前は、生き残った連中の顔をよく見ておけ。……これが、飯を食った後の、人間の顔だ。……絶望も、希望も、すべては胃袋から始まるんだよ」

 少女は、私の言葉に頷き、広場で粥を啜る人々を見渡した。

 そこには、わずかながら、明日への希望という名の灯火が宿っていた。

 たとえ今日が絶望のどん底であっても、温かい一皿があれば、人は明日を夢見て眠ることができる。

 それを守り続けること。

 それこそが、親父が遺した『翠嵐』という名の、真の正体なのだ。

 私は、重い足取りで、次の炊き出しのための準備へと向かった。

 景公。

 未知なる大陸の奥底。

 不滅の火を喰らう鳥。

 ……待っていろ。

 俺が、その火さえも最高の調味料に変えて、お前たちの喉を灼き尽くしてやる。

 空は、どこまでも高く、青かった。

 復興の煙が立ち上るこの街で、私は、新たなる神話への第一歩を、力強く踏み出した。

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