第十九話 朝焼けの残飯、あるいは火を継ぐ者

朝陽が、重い瞼を刺した。

 その光は、かつての絶望が支配していた空を覆っていた琥珀色でもなければ、不気味な銀色の光沢を帯びた神の権能による不自然な輝きでもない。

 どこまでも無機質で、冷徹で、それでいて等しく地上の万物を照らす、慈悲深い本物の太陽の光だった。

 私は、瓦礫の山となった『翠嵐』の跡地で、仰向けに転がっていた。

 全身を走る鈍い痛み。

 それは、私の肉体がまだ「生物」として機能していることを示す、最も残酷で確かな証拠だった。

 身体が、信じられないほどに重い。

 まるで、地球の重力すべてが私の背中にのしかかっているかのようだった。

 私は、麻痺した右腕を動かそうと試みたが、指先一つ、自分の意志では動かなかった。

 山椒の呪いは、カイザーとのあの地獄のような死闘の果てに、私の肉体から離れ、今はただの黒い煤となって地面にこびりついている。

 ……終わったのだ。

 空を見上げれば、かつてこの街を蹂躙したあの不気味な『大厨房艦隊』も、美食の魔女イザベラが作り出した甘美な処刑場『シュガー・ドーム』も、跡形もなく消え去っている。

 あるのは、戦火によって少しばかり空気が濁った、日本のどこにでもある地方都市の、退屈で、静かな、あまりにも静かな朝の空だけだった。

「……おじさん。……ねえ、おじさん。……生きてる?」

 すぐ傍らで、小さな少女の声がした。

 その声は、震えていた。

 まるで、私がこのまま物言わぬ死体になってしまうことを恐れているかのように。

 見れば、彼女もまた煤まみれになりながら、不安げに私の顔を覗き込んでいる。

 彼女の背中に、由良府の神々の象徴として宿っていた「虚無の火」は、今はもう見えない。

 そこには、ただの、少しばかり元気のない、銀髪の少女が立ち尽くしていた。

「……死ぬほど、……腹が減ってるだけだ。……生きてる証拠だな」

 私は掠れた声で答え、右腕の代わりに、辛うじて感覚の残っている左腕を使って、ゆっくりと、亀のような遅さで身体を起こした。

 視界に入る光景は、あらためて見ると淒惨なものだった。

 かつての賑わいを見せていた商店街は、神々の気まぐれな力によって粉々に砕かれ、私たちが守ろうとした日常の風景は、どこを切り取っても残っていない。

 建物の残骸が骸骨のように積み上がり、引き裂かれた看板が風に吹かれて乾いた音を立てている。

 だが、その瓦礫の隙間から、ひょっこりと顔を出す人影があった。

「……店主、……。……本当に、助かった、……のか?」

 生ハムのような巨漢だった佐藤だ。

 彼は由良府の理から解き放たれ、今はただの、太り気味で人の良さそうな、どこにでもいる肉屋の親父に戻っていた。

 彼の目には、未だに信じられないものを見た時のような、茫然自失とした色が浮かんでいる。

 彼だけではない。

 物陰から、あるいは崩れた地下室から、一人、また一人と、街の人々が這い出してくる。

 誰もが、数百年にも感じられた長い長い悪夢から、ようやく覚めたばかりの旅人のような表情をしていた。

 彼らの記憶には、自分が他者の「食材」として扱われていた恐怖が、消えない傷として深く刻まれている。

 その精神的な飢餓を癒やす術は、今のこの世界にはどこにもないように思えた。

 私は、ふらつく足取りで立ち上がり、よろめきながらも、かつて自分の城であった調理場だった場所へ向かった。

 そこには、奇跡的に崩壊を逃れ、そのままの形で残っている古い「鋳物の中華レンジ」が鎮座していた。

 五徳は歪み、塗装は熱で剥げ落ちている。

 だが、その無骨な鉄の塊は、主人の帰還を待っていたかのように、朝陽を受けて鈍く、誇らしげに光っていた。

「……おい、佐藤さん。……お前の店の焼け跡に、……何か残ってねえか。……なんでもいい。……腹にたまるもんだ」

 私は、しゃがみ込んだままの佐藤に、あえて突き放すような強い声で言った。

「……え? あ、ああ……。……地下の燻製庫なら、……頑丈に作ってある。……もしかしたら、……」

「……四の五の言わずに持ってこい。……あと、誰か乾いた米を持ってる奴はいないか。……半分焦げてても、虫が食ってても、……石が混じってても構わねえ。……全部、俺が『食いもん』に変えてやる」

 街の人々が、私の言葉にざわめき始めた。

 神々の戦いは終わった。

 だが、彼らの「腹」は、空っぽのままだ。

 由良府の毒に冒され、異常な飢餓感に苛まれ続けていた彼らの内臓は、今、急激な「現実への帰還」という衝撃によって、悲鳴を上げている。

 ここで何も食わせなければ、彼らは生きる気力を失い、安堵のあまり、そのまま命の火を消してしまいかねない。

 料理人として、そんな結末は絶対に認められなかった。

「……おじさん、……。……料理、作るの? ……腕、動かないのに?」

 少女が、不安そうに私の右腕を見た。

 私の右腕は、依然として冷たく、死人のように感覚を拒絶している。

 包丁を握ることさえ、今の私には不可能に見えるだろう。

「……料理人が、……腹を空かせた客を目の前にして、……手ぶらで帰せるかよ。……これは、……『翠嵐』の、……最後の、……そして最高のアフターサービスだ。……黙って見てろ」

 一時間後。

 瓦礫の広場には、小さな、だが力強い「火」が灯っていた。

 佐藤が持ってきたのは、少しばかり煤けてはいるが、まだ十分に食べられる厚切りのベーコンの塊。

 誰かが瓦礫の下から必死に掘り出した、泥まみれの穀物。

 そして、奇跡的に燃え残っていた、半分ほど中身の入った一袋の「古米」。

 調味料は、ひび割れた瓶の底に残っていた、わずかな塩と胡椒。

 これだけだ。

 神々が愛でた稀少な肉も、異界から取り寄せた伝説のスパイスも、ここには何一つ存在しない。

 だが、私はその、ありふれた、あまりにも貧相な食材を前にして、かつてないほどの昂ぶりと使命感を感じていた。

 由良府の支配下で、私は「殺すための味」ばかりを追求してきた。

 だが、今、私の前にあるのは、ただ「生きるための糧」を求める切実な命だ。

 私は左手だけで、歪んだ中華鍋をレンジに乗せた。

 カォォォン……。

 鉄がぶつかる高い音が、静まり返った朝の街に、鋭く、高く響き渡る。

 ガスは当然のように止まっている。

 だが、私は知っている。

 本当の料理の「火」は、パイプから供給されるものではない。

 それは、料理人の魂から放たれる熱量そのものだ。

 私は、動かない右腕にこびり付いた山椒の煤を、強引にレンジのバーナーへと擦り付けた。

 パチッ……。

 小さな火花。

 それは、私の体内にわずかに残っていた「四川の熱」の、最後の残り滓(カス)。

 ボォォォォォォッ!!

 青白い、透明な炎が、中華鍋の底を舐めるように燃え上がった。

 調理が始まった。

 まず、厚切りのベーコンを不器用に左手で刻み、熱した鍋に投入する。

 ジッ、という、脂が爆ぜる暴力的なまでの音が、静寂の中で人々の唾液腺を容赦なく刺激した。

 異界の魔力が一切混じらない、純粋な、この世界の獣の脂が焦げる香り。

 それだけで、人々の瞳に、かすかな「生」の光が戻り始める。

 私は、動かない右腕を無理やり左手で持ち上げ、熱を帯びた鍋の取っ手に添えた。

 激痛。

 神経が一本ずつ焼き切れるような熱気が右半身を駆け巡るが、そんなものはどうでもよかった。

 今、私は「料理」をしている。

 神を殺すためでも、運命に抗うためでもない。

 ただ、目の前にいる、今にも消えてしまいそうな腹ペコの連中のために、一皿の幸せを作る。

 それ以上に尊い行為が、この世にあるだろうか。

「……おじさん、……。……私も、手伝うよ」

 少女が、私の隣に立った。

 彼女は、小さな手で、米を研いだ水を鍋の縁から慎重に注ぎ入れた。

 ジュゥゥゥゥゥッ!!

 立ち上る白い湯気が、朝の光を乱反射して、黄金色のカーテンのように広場を覆う。

 私は、そこに塩と胡椒を、天から降る浄化の雪のように、惜しみなく振りかけた。

 ただの塩だ。ただの胡椒だ。

 だが、それが熱という過酷な触媒を得て、一つの「小宇宙」を形作っていく。

 私は、震える腕で鍋を回し続けた。

 一秒、一秒、食材の細胞が熱を受け入れ、旨味へと変貌していくその刹那を、研ぎ澄まされた五感すべてで感じ取る。

 由良府の神々との死闘で磨き上げられた私の感覚は、今、この貧相な材料を「究極の滋養」へと昇華させるために、一分の無駄もなくフル回転していた。

「……できた。……器を持ってる奴は、……順番に並べ」

 完成したのは、炊き込みご飯とも、チャーハンともつかない、不格好な「ベーコンの飯」だった。

 だが、その一皿からは、由良府のどんな高級宮廷料理も、神に捧げられたどんな供物も、逆立ちしても及ばない、強烈な「生の匂い」が漂っていた。

 佐藤が、震える手で最初の一杯を受け取った。

 その器は欠けていたが、彼はそんなことを気に留める様子もなく、溢れんばかりの飯を口の中に放り込んだ。

「……あ、……あぁ……」

 彼は、咀嚼することを忘れ、そのままの姿勢で立ち尽くした。

「……美味い、……か?」

 私が尋ねると、佐藤の目から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。

「……ああ、……。……不味いよ、店主。……米は芯が残ってるし、ベーコンは焦げてる。……でも、……。……今まで、由良府で無理やり食わされてきたどんな肉よりも、……あったけえんだ。……身体が、……喜んでやがる……」

 人々が、次々と飯を口に運ぶ。

 瓦礫の広場の至る所で、啜り泣きと、そしてかすかな、だが確かな笑い声が上がり始めた。

 彼らは、食べていた。

 自分が「生きている」ことを再確認するように。

 自分が「この世界の住民」であることを、その不器用で、泥臭い味を通じて、再び魂の奥底に刻み込んでいるのだ。

 少女もまた、私の隣で、小さな口いっぱいに飯を頬張っていた。

「……おじさん、……。……やっぱり、……おじさんの料理は、……世界一、あったかいね」

「……バカ言え。……こんなの、……ただの残飯整理だ」

 私はそう言って、残った飯を少しだけ口に含んだ。

 ……確かに、不味い。

 塩が少し足りないし、煤の匂いが鼻に付く。

 だが。

 私の喉を通り抜け、空っぽの胃袋に落ちるその熱は、確かに私の内側に、新しい命の火種を灯した。

 昼が過ぎる頃、街の遠くから自衛隊や救助隊のヘリの音が響き始めた。

 この「神々の食卓」となった街の凄惨な記録は、やがて歴史の一部となり、語り継がれることになるだろう。

 だが、そんなことは、今の私にはどうでもよかった。

 私は、ボロボロになったレシピノートを、煤けたコックコートの奥深くに仕舞い込んだ。

 右腕の感覚は、相変わらず戻らない。

 だが、左手には、まだ熱を帯びた中華鍋の重みが、心地よい余韻として残っている。

「……行くぞ、小娘」

「……どこへ? ……この街、直さなくていいの?」

 少女は、私の後を追いかけながら、不思議そうに聞いた。

「……街を直すのは、あいつらの仕事だ。……俺の仕事は、……まだ見ぬ腹ペコの連中に、……飯を食わせることだ」

 私は、かつて父が歩いたであろう、ひび割れた国道を指差した。

 由良府の三柱は消え去った。

 だが、この世界のどこかには、まだ私たちが知らない「食の真理」が眠っている。

 そして、私の「味」を待っている連中が、星の数ほどいるはずだ。

「……おじさん、……私、……もっと美味しいものが食べたいな。……次は、おじさんが本当に作りたかったもの」

「……ああ。……次は、……お前の魂が震えて止まらなくなるくらいの、……本物の四川を見せてやるよ。……それまで、……しっかりと腹を空かせておけ」

 私たちは、救助隊の列とは反対の方向へ、ゆっくりと歩き出した。

 数時間後。

 私たちは、街の外れにある小さな峠に立っていた。

 振り返れば、煙の上がるかつての戦場が、朝焼けの中に小さく沈んでいく。

 地獄のような数日間だったが、そこには確かに、私が己のすべてを賭けて守り抜いた「食卓」があった。

「……おじさん、……あのさ」

 少女が、道端に咲いていた名もなき、泥にまみれた小さな花を見つめながら、静かに口を開いた。

「……私、……自分の本当の名前、……いつか思い出せたら、……おじさんに一番に教えるね」

「……ふん。……勝手にしろ。……だが、その名前に相応しい四川を考えるには、……かなりの手間がかかりそうだ」

 私は、彼女の銀色の髪を一度だけ乱暴に撫で、真っ直ぐに前を向いた。

 道の向こう側。

 そこには、どこまでも続く、青い山々と白い雲。

 そして、由良府の呪いなど一片も残っていない、清浄で、どこか懐かしい風が吹き抜けていた。

 私の本当の旅は、ここから始まる。

 親父の背中をただ追いかけるだけの、復讐の旅ではない。

 私自身の、新しい『翠嵐』を築き上げるための、真実の探求だ。

 右腕はまだ動かない。

 だが、左手には、未来を切り拓くための情熱が、まだ熱く脈打っている。

「……さあ、行くぞ。……腹が鳴る前に、……次の厨房を見つけなきゃあな」

 私は、一歩を踏み出した。

 その足取りは、由良府に足を踏み入れた時よりも、ずっと軽やかで、力強い。

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