第十八話 原初のスープ、あるいは父の背中
音が消えた。
イザベラが霧散した後の夜空は、不自然なほどに透き通り、星々が寒々しく瞬いている。
だが、その静寂は「平和」の訪れではない。
巨大な捕食者が口を開け、獲物を飲み込む直前の、……胃袋の中のような静寂だ。
私は、震える膝を叩き、強引に立ち上がった。
右腕の山椒はもはや炭化し、神経の代わりに「絶望」が伝達物質として全身を駆け巡っている。
肺に吸い込む空気は、鉄の味がした。
「……来たか」
私は、暗闇の奥を見据えた。
地平線の彼方から、一人の男が歩いてくる。
彼は軍服を纏っているわけでも、魔女のようなドレスを着ているわけでもない。
どこにでもいるような、色褪せた白いコックコート。
腰には、使い古された「一本の牛刀」が差されている。
だが、その男が歩くたびに、周囲の空間が「ズルリ」と剥がれ落ちていく。
建物も、瓦礫も、夜の闇さえも。
彼が通った後には、何もない。
すべてが「完璧に下処理された無」へと変わっていくのだ。
「……おじさん、……あの人、……。……怖いよ。……私、……食べられちゃう……」
少女が私の服の裾を、ちぎれんばかりの力で握りしめた。
彼女の「虚無の火」が、恐怖で青白く明滅している。
無理もない。
目の前にいるのは、由良府の三柱が最後の一人。
全にして個。始まりにして終わりの一皿。
『始原の大料理長(オリジン・シェフ)』、……我が父を屠った男、カイザーだ。
カイザーは、私の数歩前で足を止めた。
その顔は、驚くほど若々しく、同時に何万年も生き続けてきたような、底知れない空虚さを湛えていた。
「……久しぶりだな、……翠嵐の若造」
その声は、私の鼓膜ではなく、胃袋に直接響いた。
「……お前の親父を解体したあの日から、……どれくらい経ったか。……あのスープの味は、……今でも私の血肉の中で、心地よく疼いているよ」
カチリ、と。
私の中で、何かが壊れる音がした。
右腕の山椒が、私の意志を無視して「真紅の炎」を噴き上げる。
炭化した皮膚が裂け、そこから溢れ出したのは、由良府の魔力さえも焼き尽くす、純粋な「復讐という名のスパイス」だ。
「……親父のことはいい。……だが、……今夜の客に、……その面(つら)は見せられねえな」
私は、折れた柳刃を構えた。
カイザーは、くすりと笑った。
「……客? ……この廃墟にか? ……面白い。……神を二人も仕留めたことで、……少しは『料理』の本質が見えたかと思っていたが。……まだそんな低俗な幻想に浸っているとは」
カイザーが、ゆっくりと腰の牛刀を抜いた。
その刀身には、装飾など一切ない。
ただ、恐ろしいほどの「清潔さ」だけがあった。
一分の曇りもなく、万物を一太刀で「食材」へと貶める、完成された殺戮器具。
「……教えてやろう。……真の料理とは、……『消去』だ。……余計な感情、余計な意志、余計な存在。……すべてを削ぎ落とし、……最後に残る一滴の『真理』を啜ることだ」
彼が一歩、踏み出す。
瞬間、私の視界から「色」が消えた。
世界が、モノクロームの点描画へと変容する。
私の身体を構成する細胞一つ一つが、カイザーの視線によって「解体図」へと書き換えられていく。
「……四川流、……『爆熱・千切(せんぎり)』!!」
私は、先手を打った。
右腕の山椒を旋回させ、千本の火の刃を放射状に放つ。
一撃一撃がビルを両断する威力を持ち、大気を沸騰させる熱量を秘めている。
だが、カイザーは、牛刀を軽く一振りしただけだった。
パリン、という硝子が割れるような音。
私の放った火の刃は、彼に届く直前で「完璧にスライス」され、無害な光の塵となって散った。
「……スジが多いな。……熱を通しすぎだ」
カイザーの姿が、かき消えた。
「……っ!?」
背後。
振り向く暇さえ与えられない。
鋭利な冷気が、私の背骨を撫でる。
私は反射的に、少女を前方へ突き飛ばし、自身の背中を右腕の山椒でガードした。
ギィィィィィィィィィィィィン!!
火花が散り、私の山椒の鱗が数枚、空中に舞う。
たった一撃で、私の「神殺しの盾」が、バターのように切り裂かれた。
「……逃がさないわよ!」
少女が、転びながらも掌を突き出し、全魔力を込めた「虚無の火」を放った。
黒い炎がカイザーを包み込む。
だが、カイザーはその炎の中に立ちながら、退屈そうに欠伸をした。
「……調味料にさえならない。……ただの、……雑味だ」
カイザーが指を鳴らす。
瞬間、少女を包んでいた黒い炎が逆流し、彼女自身を焼き始めた。
「……あ、……ああぁぁぁぁっ!!」
「……小娘!!」
私は絶叫し、彼女の元へ駆け寄ろうとした。
だが、その足を、目に見えない「銀の糸」が絡めとる。
それは、カイザーが放った、空間を縫い合わせるための「外科手術用の糸」だった。
私は地面に叩きつけられ、身動きが取れなくなった。
少女は苦悶の声を上げながら、自身の炎に焼かれ、透き通った硝子のようになっていく。
「……やめろ、……。……やめろ、カイザー!!」
「……次は、……お前の『心臓』を収穫しよう。……親父のそれとは、また違った苦みがあるはずだ」
カイザーが、ゆっくりと、処刑人の足取りで近づいてくる。
私は、必死に腕を動かそうとした。
だが、右腕の山椒はもはや沈黙し、私の意識も、由良府の冷気に蝕まれていく。
……ああ。
……結局、俺は。
……何も守れなかったのか。
……親父の店も、……あの少女も、……。
闇が、視界を覆おうとした、その時だった。
『……情けねえツラすんじゃねえよ、……馬鹿息子』
脳裏に、聞き覚えのある、野太い声が響いた。
それは、死んだはずの、親父の声だった。
視界が、一瞬にして切り替わる。
そこは、瓦礫の街ではない。
かつての、夕暮れ時の『翠嵐』の厨房だった。
中華鍋の煤けた匂い。
換気扇が回る単調な音。
そして、まな板の前で、黙々と大根を刻む、親父の広い背中。
『料理ってのはな、……相手を殺すためのもんじゃねえ』
親父は、私を振り返ることなく言った。
『……誰かを、……生かすためのもんだ。……殺したいと思ううちは、……お前の味は……ただの毒だ』
「……親父、……。でも、……俺は……」
『……思い出せ。……お前が最初に、……中華鍋を握った時の、……あの熱を』
親父の姿が、蜃気楼のように揺らぐ。
『……由良府の理なんてな、……空腹のガキの笑顔……一つで……ひっくり返るんだよ』
親父の背中が、光に包まれて消えていく。
その光の最後に、私は見た。
親父がずっと大切にしていた、ボロボロの、……一冊のレシピノート。
そこには、由良府の神々も知らない、……「究極のスパイス」の正体が記されていた。
意識が、現実に引き戻される。
眼前には、牛刀を振り上げたカイザー。
横には、硝子と化して砕け散ろうとしている少女。
だが、私の心象風景(テリトリー)は、もはや絶望に染まってはいなかった。
「……カイザー。……お前、……自分の料理を……一度でも……『美味い』と思って、……食ったことがあるか?」
私の言葉に、カイザーの手が止まった。
「……何? ……何を、……今更……」
「……ねえんだろうな。……お前の料理は、……ただの『演算』だ。……完璧なだけで、……体温がねえ」
私は、銀の糸を強引に引きちぎり、立ち上がった。
右腕の山椒が、再び動き出す。
だが、今度の炎は、赤くも黒くもない。
それは、どこか懐かしい、……「家庭のキッチンのコンロ」のような、穏やかな青色だった。
「……四川流、……奥義……」
私は、懐から一本の「錆びついた栓抜き」を取り出した。
それは、廃墟となった店の中から、唯一拾い上げていた、親父の遺品。
私はその栓抜きを、自分の胸――心臓の鼓動に合わせて、空間へと突き立てた。
「……『開飯(カイファン)』……!!」
ドォォォォォォォォォォォォォォン!!
廃墟の街に、巨大な「蒸気」が噴き出した。
それは、熱い。
だが、ベルゼリウスの蒸気のように人を殺す熱さではなく、……冷えた心を解かすような、優しい熱さ。
蒸気は瞬く間に街を覆い、硝子と化していた少女の身体を、元の柔らかな肉体へと戻していく。
「……っ、……おじさん……?」
「……待たせたな。……今、……本当の『メインディッシュ』を……作ってやる」
私は、空中に現れた「幻の厨房」に立った。
食材はない。
だが、ここには、この街の地面に染み込んだ「人々の営みの記憶」がある。
私は、目に見えない中華鍋を、全霊の力で振り始めた。
ガコン、ガコン、と。
鉄がぶつかる音が、由良府の夜を、……現世の昼間へと、塗り替えていく。
「……バカな……、……私の『無』が、……上書きされていく……!? ……こんな、……こんな……下俗な、……大衆料理の匂いに……!!」
カイザーが、初めて狼狽した。
彼の完璧な牛刀の刃が、私の放つ「油の匂い」と「ニンニクの香気」によって、みるみるうちに錆びついていく。
清潔さは、雑多な生命力に敗北したのだ。
「……さあ、……食えよ、カイザー」
私は、形のない、だが確かに「そこにある」一皿を、空間に完成させた。
それは、豪華な飾りも、希少な魔力も含まれていない。
ただの、……『麻婆豆腐』だった。
だが、その一皿からは、銀河の星々を煮詰めたような輝きと、……数千年の人類の歴史が醸し出した「愛」の味が立ち上っていた。
「……これは、……。……これは……」
カイザーは、抗うこともできず、その幻の料理を、口に運んでしまった。
一口。
咀嚼。
次の瞬間、彼の身体から、これまで奪ってきた数千万の魂が、光の蝶となって溢れ出した。
「……ああ、……。……温かい。……こんな、……こんなに……『不味い』のに、……どうして……涙が……」
カイザーの姿が、急速に透き通っていく。
彼を構成していた「由良府の理」が、私の作った「一皿の幸せ」によって、完全に中和されたのだ。
彼は、最後に私の顔を見つめ、……寂しそうに微笑んだ。
「……若造。……お前の……勝ちだ。……お前の親父は、……最後に……こう言っていたよ。……『いつか息子が、……お前の喉を……灼いてやる』と……な」
カイザーはそう言い残すと、金色の光となって、夜空の彼方へと消えていった。
静寂。
今度の静寂は、本物の静寂だった。
由良府の三柱はすべて消え、空に開いた穴は、ゆっくりと塞がりつつある。
私は、膝をつき、激しい呼吸を繰り返した。
右腕の山椒は、役目を終えたように、私の腕から剥がれ落ち、……小さな、一粒の「実」となって地面に転がった。
「……終わった、……んだよね?」
少女が、私に寄り添い、震える声で聞いた。
私は、彼女の頭を、力なく撫でた。
「……ああ。……閉店だ。……ようやく、……な」
東の空が、白み始めていた。
それは、由良府の色ではない、……本物の、朝陽の色だった。
瓦礫だらけの街に、普通の鳥のさえずりが響き、普通の風が吹き抜ける。
私は、懐のレシピノートを取り出し、新しい一ページを開いた。
そこには、まだ、何も書かれていない。
「……おい、小娘」
「……なに?」
「……腹、……減ったな」
少女は、一瞬驚いた顔をした後、……ひまわりのような満面の笑みで答えた。
「……うん! お腹、ぺこぺこだよ!」
私たちは、朝日の中を、歩き出した。
新しい『翠嵐』を、……本当の「美味しいもの」を作るための厨房を、探しに。
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