第十七話 美食の魔女、あるいは終焉のパティスリー

空気が、砂糖の焦げるような、甘く、それでいて肺を灼くような猛毒の香りに変わった。

 街を覆った巨大な銀のクロッシュ(皿の蓋)――その内側は、もはや現世の理が通用する場所ではない。

 かつての人々が歩いたアスファルトは「黒胡麻のチュイル」のように薄く脆く剥がれ、その下からは煮えたぎるキャラメル状の泥が溢れ出している。

 倒壊した電柱は、まるで巨人の手によって捻じり切られた「スティック・パイ」のように螺旋を描き、街路樹からは葉の代わりに、触れるものすべてを切り裂く「飴細工の刃」が絶え間なく降り注いでいた。

 その狂ったパノラマの中心で、純白の玉座に座るイザベラは、残酷なほどに美しい微笑を湛えていた。

 彼女が纏うドレスは、最高級の生クリームを絹のように織り成したものであり、彼女が吐き出す息は、吸い込んだ者の思考を停止させるほど濃厚なバニラの香気を帯びている。

「……ようこそ。私の『シュガー・ドーム』へ。……ここは、あらゆる苦しみも、悲しみも、……すべてが甘美な『死』へと昇華される場所よ」

 彼女が優雅に指を振る。

 瞬間、周囲に展開された黄金のナイフとフォークが、重力を無視して加速し、音速を超えて私の周囲を切り裂いた。

 それは単なる斬撃ではない。

 私の皮膚の弾力を測り、血管の走りを確認し、筋肉の繊維一つ一つを「食材」として最適に切り分けるための、冷徹なまでのカッティング・プロセス。

「……くっ、……あぁッ!!」

 私は、少女を抱きかかえ、瓦礫のカウンターの裏へと滑り込んだ。

 一筋のナイフが私の頬を掠めた瞬間、激痛よりも先に「脳を焼くような甘み」が全身を駆け巡った。

 傷口から溢れ出したのは、赤い血ではない。

 ……ドロリとした、漆黒のソースだ。

 ベルゼリウスの残核を体内に取り込み、記憶を燃料にして戦った代償が、今、牙を剥いている。

 私の肉体そのものが、内側から由良府の理によって「調理」され始めているのだ。

 細胞が一つずつ糖化し、血管はシロップを流す管へと変質していく。

 骨は黒糖のように脆く、そして逃れようのない重さを伴って私の動きを阻害した。

 意識の端々で、自分自身が「甘美な腐敗」へと向かっているという、生理的な嫌悪感が膨れ上がる。

 それは、生命としての尊厳を「味覚」によって冒涜される屈辱だった。

「……おじさん! 血が、……血が変だよ! 黒くて、……それにすごく嫌な匂いがする!」

 少女が震える手で私の服を掴む。

 彼女の瞳には、変わり果てた私の姿が映っていた。

 右半身を侵食する山椒の蔦は、もはや皮膚の一部ではなく、肉を食い破って外側へと溢れ出し、煤けた黒い鱗のように硬質化している。

「……気にするな。……これが、……今の俺の『コク』ってやつだ。……深みのある味には、……多少の澱(おり)が必要なんだよ」

 私は、懐から先ほど拾い上げた『次元の核』――ベルゼリウスの心臓部だった銀の結晶――を握りしめた。

 それは、私の掌を内側から食い破らんばかりの熱を放ち、ドクン、ドクンと不気味な鼓動を刻んでいる。

 この核の持つ強大な魔力を、私の「四川の熱」と融合させることができれば、神の理(ことわり)さえも覆す「究極の調理」が可能になる。

 だが、それは同時に、私の魂を完全に消失させる危険を孕んだ博打だった。

 私の心臓は、もはや拍動ではなく「沸騰」していた。

「……さて。……デザートを出すってんなら、……こっちも『究極の甘味』を用意しなきゃあな。……町中華の意地、……見せてやるよ」

 私は、炭化した右腕を、目の前で燃え盛るコンロの青い炎の中に、躊躇なく突き刺した。

「……ガ、……アァァァァァァァァァァァァァァァッ!!」

 絶叫が、銀のクロッシュの内側に反響し、飴細工の空を震わせる。

 痛みではない。

 腕に宿る「山椒の呪い」が、次元の核という最高級の燃料を得て、一気に最終進化の階段を駆け上がった衝撃だ。

 山椒の蔓は瞬く間に私の右半身を覆い尽くし、筋肉を鋼のように作り替え、指先の爪は「黒いナイフ」へと変貌を遂げた。

 皮膚は熱で弾け、そこから溢れるのは血ではなく、凝縮された「辛味の精髄」である。

 私は、その異形の腕で、床に転がっていた「大理石の破片」を掴み取った。

 そして、空から降り注ぐ「飴細工の刃」を、山椒の蔦で蜘蛛の巣のように絡め取り、一箇所に集める。

「……何をするつもりかしら? 私の魔法を調理しようだなんて。……不潔な手で、私の聖域に触れないで」

 イザベラが玉座から、ゆっくりと立ち上がった。

 彼女がドレスの裾を翻すと、その下から、真鍮と銀で構成された無数の「巨大な泡立て器」のアームが伸び、周囲の大気を激しく撹拌(かくはん)し始めた。

 空気が急激に圧縮され、気圧が目まぐるしく変化する。

 私と少女は、巨大なミキサーの中に生きたまま放り込まれたかのような、凄まじいG(重力)に襲われる。

「……撹拌されるがいいわ。……魂も、記憶も、……由良府への恐怖も。……すべてが混ざり合って、……滑らかな『絶望のムース』に変わるまで!」

 猛烈な竜巻が発生した。

 その渦の中には、結晶化した「死の糖分」が砂嵐のように舞い、触れるものすべての水分を奪い、甘い硝子の彫像へと変えていく。

 少女の足元が、すでに白いアイシングのような結晶に覆われ、地面へと縫い付けられ始めていた。

「……おじさん、……足が、……冷たくて、……動かないよ……」

「……小娘、……俺の背中から離れるな。……今、……この嵐を……『ホイップ』して、最高のソースに変えてやる」

 私は、掌の中で『次元の核』を、握力だけで粉々に握り潰した。

 パキィィィィィィン!!

 核から解き放たれた銀色のエネルギーが、私の血管を、神経を、骨の芯までをも焼き尽くしながら駆け巡る。

 私はその奔流する力を、攻撃ではなく、……「絶対的な熱変換」へと集中させた。

 私は、猛烈な勢いで迫り来る糖分の竜巻に向かって、真っ赤に熱せられた右手を直接突き入れた。

「……四川流、……『爆熱乳化(ばくねつにゅうか)』!!」

 イザベラが放った異界の糖分(水)と、私の体内を流れる、激辛の、そして灼熱の魔力(油)。

 それらは本来、決して混ざり合うことのない対極の存在だ。

 だが、右腕の山椒が放つ「次元の摩擦熱」が、その界面を無理やり破壊し、一つへと統合する。

 ジュゥゥゥゥゥ……ッ!!

 竜巻が、私の掌を中心に、急速にその色と性質を変えていった。

 漆黒の死の霧が、私の熱によって「深紅のクリーム」へと昇華され、クロッシュ内の気圧を瞬時に安定させていく。

「……な、……私の魔法を、……『乳化』させたというの!? 私の最高級の糖分を、……下俗な、……唐辛子の匂いで汚すなんて……!!」

 イザベラの美しい人形のような顔が、初めて憤怒で歪んだ。

 彼女は周囲の黄金のナイフを一斉に収束させ、全長三メートルを超える、巨大な「処刑用のフォーク」を作り上げた。

 フォークの先端からは、空間そのものを腐食させる「酸性のシロップ」が滴っている。

「……死になさい! 盛り付けの邪魔よ、ゴミ屑が!!」

 巨大なフォークが、空から垂直に、私を目掛けて降り注ぐ。

 私は、掌に作り上げた「深紅のクリーム」を、そのまま自身の包丁――『星天柳刃』の、刃こぼれした刀身に塗りたくった。

「……デザートってのはな、……ただ甘いだけじゃ、すぐに飽きが来るんだよ。……『痛み』というスパイスがあってこそ、その甘さは……魂の奥底に、消えない傷として刻まれるんだ!!」

 私は、地面を爆発させるような勢いで跳躍した。

 右半身を侵食する山椒の呪いが、私の肉体から「人間としての安全装置」をすべて取り払い、神の次元へと加速させる。

 キィィィィィィィィィィィィィン!!

 深紅の炎を纏った柳刃と、黄金のフォークが空中で激撃した。

 次元が軋む不快な音が響き渡り、銀のクロッシュの表面に、蜘蛛の巣のような巨大な亀裂が入る。

 私は、フォークの隙間を、髪の毛一本の差ですり抜けた。

 摩擦熱で髪が焦げる匂いがするが、構わない。

 私はそのまま、イザベラの眼前の至近距離へと肉薄した。

「……とどめだ。……俺が、……今まで生きてきた中で……最も不味く、最も愛おしい……『最後の一皿』を、……受け取れ!!」

 私は、柳刃を振るわなかった。

 代わりに、左手に隠し持っていた「一つの塊」を、彼女の口元へと無理やり叩き込んだ。

 それは、ベルゼリウスの残核に、少女が流したスープの涙、そしてあの老婆が最後に残した金平糖の光を混ぜ合わせ、私の「右腕の熱」で一瞬にして焼き上げた、小さな小さな……。

「……『焦がし辣油のフォンダンショコラ』だ。……その舌で、……人間の味を……学んでから死ね!!」

「……っ、……!? あ……」

 イザベラは、拒絶する間もなく、それを飲み込んだ。

 次の瞬間、彼女の身体の中で、何万個もの太陽が同時に爆発したかのような衝撃が走った。

「……あ、……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 彼女の目から、黄金の光が溢れ出す。

 それは、私が施した「絶対的温度差」による味覚の破壊。

 脳を麻痺させる極限の甘さの直後に訪れる、次元を焼くような四川の辛味。

 そして、その後に残る、亡霊の老婆が持っていた「切なく、温かい記憶」の余韻。

 由良府の神として君臨し、他者を「食材」としてしか見てこなかった彼女の精神は、そのあまりにも複雑で、あまりにも「人間臭い」味の波濤に耐えられず、内側から瓦解を始めた。

 神に「心」を叩き込む。

 それこそが、料理人である私が到達した、唯一の殺神術だった。

「……不味い、……不味いわ……。……こんな、……こんなに心が痛くて、……喉が焼けるような味……、……私は、……知らない……!!」

 彼女の純白のドレスが黒く焼け落ち、背中から生えていた不気味な調理アームがバラバラに砕け散る。

 由良府の絶対的な美学が、たった一口の「人間の情」を含んだデザートによって、その根底から否定されたのだ。

 ドォォォォォォォォォォォォォォン!!

 街を覆っていた銀のクロッシュが、内側からの圧力に耐えきれず、粉々に砕け散った。

 破片は夜空を舞う蛍のような光となって消え、街に「本当の夜」が戻ってきた。

 琥珀色の雲も、銀の脂も消え去り、そこには数億の星が輝く、透き通った宇宙が広がっていた。

 静寂が、廃墟となった商店街に降り積もる。

 イザベラは、かつての神々しい姿を失い、ただの「空腹で泣きじゃくる少女」のような姿で、瓦礫の上に座り込んでいた。

 彼女の瞳からは、もはや魔力ではない、黄金の涙が絶え間なく流れている。

「……もう、……お腹いっぱい……。……生まれて初めて、……満足、……したわ……。……ごちそうさま、……不器用な、……料理人さん……」

 彼女はそう、満足げに微笑むと、静かに光の粒子となって夜風に溶けていった。

 三柱の一人が、……ついに堕ちた。

 由良府の宮廷が、激震する音が、次元の彼方から地鳴りのように響いてくる。

 私は、すべての力を使い果たし、その場に仰向けに倒れ込んだ。

 右腕の山椒は、もはや感触すらなく、私の意識は薄氷の上を歩くように危うい。

 全身の血管がボロボロになり、肺に吸い込む空気さえもがカミソリの刃のように喉を削った。

「……おじさん! おじさん!! 死んじゃダメだよ!!」

 少女が駆け寄ってきて、私の胸を小さな拳で何度も叩く。

 私は、かすかに目を開け、滲む視界で星空を見上げた。

「……うるせえな、……。ちょっと、……一休みするだけだ……。……今夜は、……もう閉店だって……言っただろう……」

 私は、重い瞼を閉じようとした。

 だが、その瞬間、世界から一切の「音」が消失した。

 風の音も、少女の泣き声も、崩れた壁が立てる乾いた音さえも。

 代わりにやってきたのは、心臓を直接掴まれるような、圧倒的な「虚無」の気配。

 地平線の向こう、夜の闇よりもなお深い「黒」が、この街の端から世界を咀嚼するように静かに前進してくる。

 由良府の真の支配者。

 最後の三柱にして、……かつて先代(親父)を解体し、その魂を極上のスープへと変えた、あの男。

 彼が放つのは、セバスチャンのような殺意でも、イザベラのような狂気でもない。

 ただ、そこに在るだけで万物を「食材」へと貶める、残酷なまでの理(ことわり)そのものだ。

「……いらっしゃいませ、……なんて……。……言える状態じゃ、……ねえな……」

 私は、折れた『星天柳刃』を、震える手で再び握りしめた。

 山椒の呪いが、私の命の最後の一滴を啜りながら、紅い残り火を灯す。

「……行くぞ、……小娘。……デザートの後は、……『支払い』の時間だ」

 私は、迫り来る「神の影」を睨みつけた。

 夜は、まだ明けない。

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