第十六話 収穫祭の亡霊、あるいは冷え切った厨房
雨は、灰の色をしていた。
ベルゼリウスの艦隊が灰燼に帰し、空に開いた風穴から降り注ぐのは、煤と脂が混じり合った重たい雫だった。
それが瓦礫の街を濡らすたび、コンクリートからは「茹で上がった肉」のような、湿り気を帯びた獣臭が立ち上る。
私は、崩壊した『翠嵐』のカウンターに深く腰掛けていた。
右腕の山椒は、すべての葉を落とし、ただの枯れた蔦のように私の皮膚にへばりついている。
熱が失われた腕は、氷のように冷たく、自分の心臓の鼓動さえもがどこか遠い他人の出来事のように感じられた。
「……限界か」
私は、震える指先で一本のタバコに火をつけようとしたが、ライターの火さえもが、この澱んだ大気の中では弱々しく、すぐに立ち消えてしまう。
大気中の酸素は、由良府の「食気」に食われ尽くし、ただ燃焼することさえも困難な「飢えた空間」へと変質していた。
店の奥では、魔力を使い果たした少女が、積み上がった小麦粉の袋の上で死んだように眠っている。
彼女の呼吸は浅く、吐き出される息はかすかに銀色の火花を散らしていた。
彼女を救うために振るった「虚無の火」の代償は、彼女の幼い魂を内側から削り取っている。
「……おじさん……、……お腹、すいた……」
眠りの中で、彼女が小さく呟いた。
その声は、かつての中華屋の客が漏らした注文などよりも、遥かに重く、鋭利な刃となって私の胸を抉った。
だが、今の私の厨房には、まともな食材など一つも残っていない。
セバスチャンとの戦い、ベルゼリウスとの死闘。
それらを経て、私の店は「調理場」から「墓場」へと成り果てていた。
私は、重い腰を上げ、調理場の床を這いずるようにして食材を探した。
足元には、ベルゼリウスの調理アームから剥がれ落ちた、銀色の装甲板が転がっている。
それは高次元の硬度を持つ金属だが、今の私の目には、それが「煮詰まったゼラチンの塊」に見えた。
由良府の存在が死ねば、その構成物質はすべて「食べられる何か」へと堕ちる。
それが、この世界の冷酷なルールだ。
「……鉄を煮て、……魂を練るか」
私は、唯一無事だった小さな片手鍋に、空から降る灰色の雨水を溜めた。
そこに、ベルゼリウスの残骸である銀の破片を放り込む。
カチ、カチ……。
コンロの火は、もはやガスでは点かない。
私は右腕の山椒に残された、最後の一滴の血を導火線にして、精神の底に沈んでいた「四川の残り火」を無理やり引きずり出した。
……ボォォォッ!!
青白い炎が、鍋の底を舐める。
瞬間、銀の破片が溶け出し、鍋の中からは「数万人の断末魔」を凝縮したような、禍々しい芳香が溢れ出した。
それは、ベルゼリウスがかつて調理し、体内に取り込んできた無数の生命の「履歴」だった。
私は、それをひたすら灰汁(あく)として掬い取る。
丁寧な作業。
絶望を捨て、悲鳴を捨て、ただ純粋な「存在のエネルギー」だけを抽出していく。
料理人としての意地が、意識を失いかけた私の脳を繋ぎ止めていた。
「……不味いものは、……出さねえ。……それが、……俺の矜持だ」
私は、冷蔵庫の影に落ちていた、一本の萎びた「人参」を見つけた。
それは由良府の影響を受ける前からそこにあった、現世の、ただの野菜だ。
水分を失い、シワだらけになったその赤い根っこが、今の私には神の指先よりも神聖なものに見えた。
私は、その人参を丁寧に刻む。
刃こぼれした柳刃でも、人参の細胞を潰さないように、滑らかに。
銀色のスープの中に、真っ赤な現世の色彩が落ちていく。
それはまるで、血の海に浮かぶ一筋の救済のようだった。
「……おい。……起きろ、……飯だ」
私は、完成したスープを手に、少女の元へ歩み寄った。
スープは、銀色の輝きの中に、黄金色に透き通った人参のエキスが混ざり合い、この世のものとは思えない神秘的な光を放っていた。
メニュー名は、『亡霊の追悼、あるいは明日への繋ぎ』。
少女は、ゆっくりと目を開けた。
彼女の瞳はまだ混濁していたが、スープの香りを嗅いだ瞬間、彼女の身体に「生きる意志」が戻ってきた。
「……これ、……。あの、……嫌な人たちの匂いじゃない」
「ああ。……不純物は全部、……俺が食ってやったよ。……これは、……ただのスープだ」
少女は、震える手で木椀を受け取り、一口、その液体を啜った。
「…………っ、……あ」
彼女の目から、大粒の涙が溢れ出した。
それは、ベルゼリウスが持っていた「支配の味」でも、セバスチャンが誇った「潔癖の味」でもない。
どこまでも温かく、そしてどこまでも切ない、……「帰る場所」の味だった。
「……おいしい。……おじさん、……これ、……すごく、おいしいよ……」
「……そうか。……なら、全部飲め」
少女がスープを飲み干すたび、彼女の肌に血色が戻り、背中の「虚無の火」が、穏やかな、現世の焚き火のような色へと変わっていく。
由良府の毒に冒されていた彼女の精神が、ただの一本の人参と、徹底的に精製されたエネルギーによって、再構築(デフラグ)されていく。
だが、その安らぎを打ち砕くように、店の外から「異様な足音」が近づいてきた。
……パシャッ、……パシャッ。
それは、灰色の雨の中を歩く、湿った足音。
だが、その音には重量感がなかった。
まるで、実体のない「影」が水たまりを叩いているような、不気味な響き。
私は柳刃を手に、瓦礫の隙間から外を覗いた。
そこに立っていたのは、一人の老婆だった。
彼女は、かつてこの商店街で駄菓子屋を営んでいた、顔なじみの老婆だ。
だが、その姿は異形を通り越して、もはや「概念」へと昇華していた。
彼女の全身は、数千枚の「半透明のライスペーパー」で覆われ、その透けた皮膚の下では、無数の「文字」が虫のように蠢いている。
彼女の手には、巨大な「筆」のような調理器具が握られ、そこからは黒い墨汁のようなソースが絶え間なく滴っていた。
「……翠嵐の、……若旦那。……いい、……いい匂いだねぇ……」
老婆の声は、数千人の老婆が同時に囁いているような、幾重にも重なった不協和音だった。
「……由良府の『収穫祭』が、……始まるよ。……あんたのような、……いい出汁(だし)が出る料理人を、……神様が放っておくはずがないじゃないか……」
老婆の周囲では、空から降る灰色の雨が「黒いソース」へと変わり、地面に描かれた魔方陣へと吸い込まれていく。
彼女は、由良府の宮廷料理人ではない。
由良府の浸食によって、この土地の「記憶」そのものが食材と化した、土地神の成れの果て――『収穫祭の亡霊(フェスティバル・ゴースト)』。
「……婆さん。……悪いが、うちはもう閉店だ。……材料も、……俺の体力も、……底をついてるんでな」
「……ひっひっひ。……材料がないなら、……あんたの『過去』を煮込めばいい。……あんたが殺してきた神の記憶、……あんたが愛した料理の記憶。……それ以上に、……極上の食材がどこにあるんだい?」
老婆が筆を振るった。
シュッ!
空間に黒い墨の線が描かれ、それが実体を持って私に襲いかかってくる。
それは物理的な刃ではない。
私の「記憶」を切り裂き、それを「味」として収穫しようとする、高次元の調理プロセス。
「……くっ、……あぁッ!!」
墨の線が私の腕を掠めた瞬間、私の脳裏に、かつて修行時代に火傷を負った瞬間の激痛が、味覚(あじ)として蘇った。
苦い。
焦げた肉の、やりきれないほどの苦味が、私の全身を支配する。
「……どうだい、……いい苦味だ。……これが、……あんたの人生の『下ごしらえ』だよ……」
老婆は、執拗に筆を動かし、私の周囲を「黒いレシピ」で埋め尽くしていく。
墨が描かれるたびに、私の過去の失敗、後悔、そして守れなかった人々の記憶が、凄まじい「えぐ味」や「酸味」となって私を襲う。
視界が歪む。
現実の厨房が、いつの間にか「巨大なすり鉢」の中へと変わっていた。
私は、自分の記憶という名の材料と共に、この婆さんにすり潰されようとしているのだ。
「……おじさん! しっかりして!」
少女の叫びが聞こえた。
彼女は、まだおぼつかない足取りで立ち上がり、私に向かって手を伸ばしている。
彼女の掌には、先ほど飲んだスープの残り火が、淡い光となって宿っていた。
「……その婆さん、……おじさんを『食べて』ない! おじさんの『心』を、……料理してるだけだよ!」
「……心、……だと……?」
私は、朦朧とする意識の中で、その言葉を噛み締めた。
そうだ。
料理人とは、食材の命を奪い、それを自分の技術で別の存在へと作り替える者。
ならば、今この老婆がやっていることは、私という料理人を「最高の物語」として調理することに他ならない。
「……ふん。……勝手に、……献立を決めるんじゃねえよ、……糞婆」
私は、自分の左胸を強く叩いた。
そこにあるのは、記憶でも、過去でもない。
「今、この瞬間に腹を空かせている者を救いたい」という、剥き出しの食欲だ。
私は、老婆が描いた黒い墨の線を、自分の手で掴み取った。
「……な、……なんだって!? 概念を、……直接掴むのかい!?」
「……俺の過去が不味いってんなら、……俺が自分で、……最高のスパイスを足してやるよ!!」
私は、自分の中に溜まっていた「死の記憶」を、あえて右腕の山椒に注ぎ込んだ。
枯れていた山椒が、私の負の感情を餌にして、禍々しい「黒い芽」を吹き出す。
それは、絶望を滋養とする、この世で最も不吉な調味料。
私は、その黒い蔓を老婆に向かって投げつけた。
「……喰らえ。……これが、……俺の人生の『隠し味』だ!!」
黒い蔓は、老婆の描いた墨の線と混ざり合い、巨大な「黒い炎の中華鍋」へと姿を変えた。
老婆の放つ過去の苦味が、私の黒い炎によって、強制的に「旨味」へと転換(コンバート)されていく。
ドォォォォォォォォォォォォン!!
老婆の周囲の空間が、激しく爆発した。
爆風と共に、彼女を覆っていたライスペーパーが次々と剥がれ落ち、中から現れたのは、ただの、小さく震える老婆の魂だった。
「……ああ、……ああ……。……なんて、……なんて熱いんだ。……こんな、……こんな味、……知らないよ……」
老婆の魂は、私の炎に包まれながら、かつての「駄菓子屋の老婆」の穏やかな表情を取り戻していった。
彼女もまた、土地の記憶という重圧に押し潰され、由良府の「食材」へと変えられていた犠牲者だったのだ。
「……成仏しな、……婆さん。……あんたの駄菓子、……子供の頃、……大好きだったぜ」
私は、火力の弱まった炎を老婆の魂に送り、彼女を優しく「昇天」させた。
彼女の魂は、一粒の「金平糖」のような光となって、灰色の空へと消えていった。
戦いが終わり、私はその場にへたり込んだ。
今度こそ、指一本動かせない。
右腕の山椒は、今度こそ完全に炭化し、私の精神もまた、深い闇へと落ちようとしていた。
だが、その闇を遮るように、空から一つの「声」が響いた。
「……素晴らしい。……実に見事な『記憶の調理』だ」
その声は、ベルゼリウスの傲慢な響きとも、セバスチャンの冷徹な響きとも違った。
それは、音楽のように美しく、そして聞いただけで満腹感を与えるような、甘美な誘惑。
見上げれば、灰色の雲が割れ、そこから一脚の「玉座」がゆっくりと降りてきていた。
玉座に座っていたのは、純白のドレスを纏った、少女のような外見の女性だった。
彼女の周囲には、無数の「黄金のナイフとフォーク」が、まるで天使の羽のように展開されている。
彼女の名は、由良府の三柱の一人。
『美食の魔女』、イザベラ。
「……まさか、……最高幹部が、……直接来るとはな……」
私は、薄れゆく意識の中で、彼女を見上げた。
彼女の瞳には、私を敵としてではなく、……「今夜の晩餐」として楽しみにしているような、残酷な期待が宿っていた。
「……安心しなさい、料理人さん。……あなたの人生、……私が、最高のデザートに仕立ててあげる」
イザベラが指を鳴らす。
瞬間、街全体が「巨大な銀のクロッシュ(皿の蓋)」に覆われ、外界との接触が完全に断たれた。
この街は、今、由良府の『メインディッシュ』として供されたのだ。
「……おじさん、……。あのお姉さん、……怖いよ……」
少女が私の服を掴む。
私は、震える手で彼女の頭を撫でた。
「……大丈夫だ、……。まだ、……俺の包丁は、……折れちゃいねえ……」
私は、炭化した右腕を無理やり動かし、瓦礫の中から「最後のスパイス」――ベルゼリウスが落とした『次元の核』を拾い上げた。
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