第十五話 大厨房艦隊、あるいは地獄の炊き出し。

空が、物理的な重量を持って私を押し潰そうとしていた。

 琥珀色の雲が渦を巻き、その隙間から降りてきたのは、巨大な「蒸し器」にも似た鋼鉄の円盤群だった。

 『大厨房艦隊』。

 由良府の宮廷が、反逆した料理人――私を解体するために放った、動く調理要塞だ。

 円盤の底面からは、数千度を超える高圧の蒸気が噴き出し、街のビル群をまるで茹でられた野菜のように柔らかく溶かしていく。

 私は、その破壊的な光景を、天井のない『翠嵐』の厨房から冷めた目で見つめていた。

「……賑やかになってきやがったな。開店準備には丁度いい」

 私は、手元の中華鍋を叩いた。

 カォォォン……と、心地よい鉄の音が響く。

 だが、その音はもはや現世の物理振動ではない。

 右腕の山椒が、空の軍勢から放たれる圧倒的な「食気」に共鳴し、私の精神を研ぎ澄ませていく。

 調理場には、昨夜から集め続けた「材料」が並んでいた。

 セバスチャンが残した銀の食器の破片。

 街を侵食する「肉の壁」から削り取った、鮮度の良すぎる脂身。

 そして、空から降り注ぐ黄金の露を煮詰めて作った、透き通ったスープ。

 どれもが、一歩間違えれば食べる者を内側から破壊する毒物だ。

 だが、この狂った世界で「毒」を含まない食事など、もはや栄養にはならない。

「……おじさーん! 連れてきたよー!!」

 空から、少女の声が降ってきた。

 見上げれば、銀髪をなびかせた彼女が、背中の「虚無の火」を器用に操り、巨大な籠を吊り下げて降下してくる。

 籠の中には、先ほど助けた「生ハムの巨漢」をはじめ、正気を失いかけた十数人の街の人々が詰め込まれていた。

 ある者は自分の指をしゃぶり、ある者は空に浮かぶ艦隊を「巨大なケーキ」だと思い込んで指を差している。

 彼らの瞳には、もはや「人間」としての光は乏しく、ただ「何かを食いたい」という原初の飢餓だけが、ドロドロとした膿のように溜まっていた。

「……ひどいもんだな」

「うん、みんな『美味しそうなもの』を見ると、すぐに追いかけちゃうんだもん。拾うの大変だったんだから!」

 少女は着地すると、ふう、と額の汗を拭った。

 彼女の服は煤と返り血で汚れていたが、その表情には奇妙な活力が宿っている。

 由良府の空気を吸い、異界の食事を摂り続けることで、彼女自身もまた、人間の域を外れつつあるのだ。

「……よし。そこの『元・人間』ども。……死にたくなかったら、耳の穴かっぽじってよく聞け」

 私は、並べられた椅子(といっても、ただの瓦礫の塊だ)に彼らを座らせた。

 巨漢が、よだれを垂らしながら私の腕を掴もうとする。

「……肉……。美味そうな、……肉……」

「……触るな。俺は料理人だ。食材じゃねえ」

 私は彼の額に、加熱したおたまの底を押し付けた。

 ジッ、という音と共に、彼の脳に直接「熱」を叩き込む。

「……あ、……あぁっ!?」

「目が覚めたか。……これからお前らに出すのは、お前らが今まで食ってきたどの高級料理よりも不味く、どの劇薬よりも苦い飯だ」

 私は、コンロに火をつけた。

 青白い炎が、瓦礫の厨房を照らし出す。

「……だが。それを食い切れた奴だけが、……自分の名前を思い出せる。……食うか、……それともそこで、空に浮かんでるあのデカい蒸し器の具材になるか。……選べ」

 人々は、私の背後に揺らめく「山椒の魔人」の影を見て、本能的な恐怖で身を震わせた。

 彼らの飢餓感よりも、眼前の料理人が放つ「解体者の気配」の方が勝った瞬間だった。

 調理を開始する。

 まず、巨大な寸胴鍋に、街の「肉の壁」から抽出した牛脂に近い脂を投入する。

 パチパチと弾ける音と共に、異質の脂が溶け出し、そこから甘ったるい、だが強烈な「死」の香りが漂う。

 そこに、由良府の騎士の魂が溶け込んだ「銀の粉末」を大量に投下。

 銀粉は脂と反応し、黄金色のスープの表面に、鏡のような銀の膜を張っていく。

「……第十四話の朝飯とは、レベルが違うぞ。……今度は、魂の再構築(リカバリー)だ」

 私は、冷蔵庫の奥に眠っていた、先代から受け継いだ「伝説の中華スープの素」を取り出した。

 それは、数十年の年月を経て、もはや意志を持っているかのように黒光りしている。

 それを一欠片、銀の海へと沈める。

 ドォォォォォン……!

 鍋の中から、重低音の振動が響いた。

 現世の旨味と、異界の魔力が、鍋という名の戦場で激しく激突し、中和されていく。

 私はひたすら木べらを回し、その「不協和音」を、一つの旋律へと無理やり整えていく。

 右腕の山椒が、熱で真っ赤に発光していた。

 血管を流れる血が蒸発しそうなほどの高熱。

 だが、その熱こそが、異世界の呪いを「味」へと変える唯一の触媒だ。

 次に、具材を投入する。

 浸食された街に生えていた、脈動する真っ赤な根菜。

 それを空中で高速にスライスし、鍋へと叩き込む。

 切断面から溢れる紫色の汁が、スープに深みを与えていく。

 さらに、昨夜の決戦で砕け散ったセバスチャンの食器の破片――その中でも、最も純度の高い磁器の粉末を、ミネラルとして添加する。

「……おじさん、それ、本当に食べられるの? 石とか入ってるよ?」

「いいんだ。……今のあいつらの身体は、由良府の理に侵されて、スカスカのスポンジみたいになってる。……硬い概念を食わせて、中から骨組みを叩き直してやるんだよ」

 私は、最後に大量の四川唐辛子を放り込んだ。

 唐辛子は熱を浴び、真っ赤な「火の粉」となって鍋から噴き出した。

 それはもはや調味料ではなく、正気を呼び覚ますための、魂へのビンタだ。

 スープが、完成した。

 メニュー名は、『再誕の四川、あるいは絶望の解毒剤』。

 私は、真っ黒なスープを木椀に盛り、目の前の巨漢に突き出した。

「……飲め。……死ぬほど苦いぞ」

 巨漢は、獣のような仕草で、そのスープを両手で受け取った。

 スープからは、銀色の蒸気が立ち上り、彼の鼻腔を容赦なく灼いている。

 彼は躊躇うことなく、その液体を一気に煽った。

 ……沈黙。

 一瞬、彼の動きが止まった。

 次の瞬間。

「……ガ、……ブハァァァァァァァッ!!」

 彼は口から、黒い煙を勢いよく吐き出した。

 それは、彼の魂に寄生していた由良府の「悪食の記憶」。

 スープの暴力的な苦味と、唐辛子の灼熱が、彼の内側を文字通り洗浄したのだ。

 巨漢の瞳から、うつろな光が消え、はっきりとした理性が戻ってくる。

 彼は自分の手を見つめ、そして私を見上げた。

「……俺は、……。俺の名前は、……佐藤。……商店街の、……肉屋の……」

「……思い出したか。……肉屋が、自分を生ハムにして食わせようとするんじゃねえよ」

 佐藤と呼ばれた男は、膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らした。

 それは、失いかけた尊厳を取り戻した者の、最初の産声だった。

 私は次々と、集まった人々にスープを配っていった。

 至る所で黒い煙が上がり、人々が「人間」へと引き戻されていく。

 瓦礫の店内に、絶望ではない、……「苦しみの先の安堵」が満ち始めた。

 だが。

 そんな私たちのささやかな「抵抗」を、空の支配者が許すはずもなかった。

 パキィィィィィィン……!

 空気が割れるような音が、天上から降り注いだ。

 見上げれば、『大厨房艦隊』の旗艦――ひときわ巨大な「銀の円盤」のハッチが開いていた。

 そこから、一筋の光の柱が降りてくる。

 光の中から現れたのは、セバスチャンが着ていたものよりも、遥かに豪華で威圧的な軍服に身を包んだ男だった。

 男の背後には、六つの巨大な「調理アーム」が翼のように展開されている。

 そのアームの先には、それぞれ異なる地獄の調理器具――骨まで溶かす圧力鍋、次元を切り裂くスライサー、星を焼くバーナーが装備されていた。

「……報告にあった通りだな。……神殺しの料理人、……そして、出来損ないの炊き出し」

 男の声は、周囲の全ての音を「吸い込む」ような、不気味な低音だった。

 彼が一歩踏み出すたび、地面の瓦礫が「美しく盛り付けられた料理」へと強制的に変質し、そして次の瞬間には腐敗して灰になる。

 存在するだけで周囲の時間を加速させ、食材の「賞味期限」を自在に操る、由良府の最高幹部。

 『大料理長(グランド・シェフ)』、ベルゼリウス。

「……ようやく、マシな客が来たな」

 私は、空になった寸胴鍋を叩きつけ、ベルゼリウスを睨み据えた。

 右腕の山椒が、かつてないほどの激痛と共に、黒い炎を噴き上げる。

「……セバスチャンは、……あの男は、……あまりにも『清潔』にこだわりすぎた。……料理の本質は、……破壊だ。……奪い、殺し、……その魂を我が肉体へと強制的に同化させることだ」

 ベルゼリウスは、六つのアームを不気味に蠢かせた。

「……貴様が配っているそのスープ、……実につまらん。……それは、……獲物に正気を与え、……『逃げる余地』を与える行為だ。……真の料理人は、……獲物の全てを、……絶望ごと煮込まねばならん」

「……うるせえよ。……管理された絶望なんて、……出涸らしの茶と同じだ。……そんなもん、……うちのメニューにはねえ」

 私は、腰の『星天柳刃』を抜いた。

 刃こぼれした刀身が、ベルゼリウスの放つ銀の光を反射して、不気味な虹色に輝く。

「……小娘! こいつらは佐藤さんに任せて、お前は店の奥にいろ!」

「……やだ! 私も戦う! このおじさん、……すごい『嫌な匂い』がするもん! 放っておいたら、みんな、……ドロドロのスープにされちゃう!」

 少女は私の横に並び、その小さな掌に「虚無の火」を凝縮させた。

 彼女の髪が逆立ち、銀色のオーラが周囲の瓦礫を浮かび上がらせる。

「……よろしい。……二人まとめて、……我が『大厨房』の供物として差し上げよう。……メニュー名は、……『反逆者の煮込み、希望の消失を添えて』だ」

 ベルゼリウスが、動いた。

 六つの調理アームが、それぞれ独立した意志を持つ蛇のように襲いかかってくる。

 あるアームは超高圧の蒸気を噴射し、あるアームは絶対零度の液体窒素を撒き散らす。

 一瞬で、私の視界は白濁した死の領域へと変わった。

「……ふんっ!」

 私は、右腕の山椒を地面に突き立てた。

 私の周囲に、四川のスパイスを触媒とした「炎の結界」が展開される。

 蒸気と炎が衝突し、厨房の中に巨大な「爆発的対流」が発生した。

 その嵐の中で、私は柳刃を振るった。

 シュバッ!

 ベルゼリウスのアームの一つ――「次元スライサー」の先を、私の刃が掠める。

 火花が散り、異界の金属同士が削り合う不快な音が響く。

「……遅い! 貴様の技術は、……あまりにも原始的だ!」

 ベルゼリウスのアームが、私の死角から「圧力鍋」を叩きつけてきた。

 ドォォォォォン……!

 私は間一髪で回避したが、私の立っていた場所は、巨大なクレーターとなって陥没していた。

 そのクレーターの底では、岩石が「溶けたラード」のように液状化している。

「……おじさん、右!」

 少女が叫び、虚無の火の弾を放った。

 火弾は、私を狙っていた別のアームに直撃し、その動きを数秒間だけ停止させる。

「……いいぞ、小娘! その隙、……もらった!」

 私は、佐藤たちが飲み干したスープの「残り滓」が溜まった鍋を掴み、ベルゼリウスの顔面へと投げ飛ばした。

 ただのゴミではない。

 それは、人々から排泄された「絶望の澱」を濃縮した、由良府の存在にとっては猛毒となる液体だ。

「……な、……ぬ……!?」

 ベルゼリウスの顔面に、黒い飛沫が命中する。

 ジュゥゥゥゥ……!

 彼の完璧な美貌が、酸を浴びたように焼け爛れ、そこから不快な異臭が漂い出す。

「……貴様ぁ……!! 私の、……私の気高き『盛り付け』を、……汚したな……!!」

 ベルゼリウスの理性が、怒りによって崩壊し始める。

 彼が纏っていた洗練された軍人の空気が消え、その下から「巨大な蠅の化身」のような、禍々しい本体が露わになっていく。

 彼の背中から、無数の羽が生え、高速で振動を始める。

 その羽音は、聞いた者の鼓膜を内側から破壊し、脳細胞をドロドロに溶かす「死のハミング」だった。

「……第ニ形態(セカンド・オーダー)開始! ……全世界を、……私の糞尿と、……残飯で埋め尽くしてくれる……!!」

 空に浮かぶ『大厨房艦隊』が、一斉に砲門を開いた。

 砲身から放たれるのは、物理的な弾丸ではない。

 それは、あらゆる生命を強制的に「発酵」させ、腐敗させるための、高濃度の「腐敗ガス」の塊だ。

 街中の建物が、瞬く間に黒く変色し、崩れ落ちていく。

 再生を始めたばかりの佐藤たちも、そのガスの余波にさらされ、再び苦しみ始めた。

「……やらせるかよ!」

 私は、調理場の中心に立ち、空を指差した。

「……小娘! お前の火、……全部俺に貸せ!!」

「……分かった! 全部、……持っていって!!」

 少女が私の背中に抱きつき、彼女の持つ全ての「虚無の火」を、私の体内に流し込んできた。

 激痛。

 血管が焼き切れ、骨が炭化するような衝撃。

 だが、その痛みこそが、私の「四川の熱」を最終段階へと引き上げるための、最後のスパイス。

 右腕の山椒が、私の意志を超えて変容を始めた。

 山椒の蔓が私の腕を完全に覆い、巨大な「黒い龍の腕」へと姿を変える。

 その龍の掌には、銀色のスープと、黒い絶望、そして虚無の火が混ざり合った、超高密度の「エネルギーの団子」が形成されていた。

「……由良府の神がなんだ。……宮廷の料理長がなんだ」

 私は、その団子を、空から降り注ぐ腐敗ガスの直撃コースへと投げ上げた。

「……俺の味は、……『お口直し』には……刺激が強すぎるぜ!!」

 ドガァァァァァァァァァァァァァァン!!

 空中で、二つの巨大な理が衝突した。

 腐敗の黒と、四川の紅。

 その激突は、街全体を昼間のような光で包み込み、由良府の艦隊を次々と「蒸発」させていく。

 爆風の中、私はベルゼリウスに向かって突進した。

 私の柳刃は、今や光り輝く「炎の刃」へと変貌している。

「……これが、……町中華の、……最後の一撃だ!!」

 ズバァァァァァァァン!!

 ベルゼリウスの六つのアームを全て切り落とし、私は彼の「心臓」――調理の核となる異界のスパイスを、柳刃で正確に貫いた。

「……ば、……バカな……。……私の、……私のレシピが……、書き換えられて……いく……」

 ベルゼリウスの身体が、内側から激しく燃え上がり、花火のように弾け飛んだ。

 彼の死と共に、空を覆っていた『大厨房艦隊』もまた、誘爆を起こして連鎖的に崩壊していく。

 静寂。

 琥珀色の空は、爆発の影響で一部が吹き飛び、そこから本物の、透き通った青空が微かに覗いていた。

 降り注ぐのは、もはや黄金の露ではなく、ただの冷たい雨だった。

 私は、力尽きて膝をついた。

 右腕の山椒は、枯れた木のように色を失い、私の生命活動も限界に達していた。

「……やった、……の?」

 少女が、私を支えるように隣に座り込む。

 彼女もまた、全ての魔力を使い果たし、顔色は紙のように白い。

「……ああ。……とりあえず、……メインディッシュの一皿目は、……片付いたな」

 瓦礫の中から、佐藤たちが這い出してきた。

 彼らは、空から降る「普通の雨」を顔に浴び、涙を流しながら笑っていた。

「……ありがとう、……おじさん。……本当に、……不味いスープだったよ」

「……ふん。……二度とあんなもん作らせるな。……次は、……もっとマシな材料、……持ってこいよ」

 私は、折れた柳刃を見つめ、静かに目を閉じた。

 だが、街の遠くからは、さらに巨大な「食気の予感」が響いてくる。

 ベルゼリウスは、あくまで前菜に過ぎない。

 由良府の「食卓」は、まだ始まったばかりなのだ。

 それでも。

 今はこの冷たい雨と、隣で眠る少女の温もり。

 そして、人間に戻った連中の笑い声があれば、それでいい。

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