第十四話 瓦礫の朝食、あるいは浸食される日常。
朝が来た。
だが、その朝陽は、昨日まで私が知っていたものとは違う色をしていた。
吹き飛んだ天井の向こう。
空は、煮詰まったコンソメのような濁った琥珀色に染まり、雲の端々からは微かに銀色の脂が滴り落ちている。
大気そのものが粘り気を帯び、呼吸をするたびに肺の奥が甘ったるい死の香気で満たされる。
酸素の代わりに、誰かが咀嚼した後の「残り香」を吸わされているような、吐き気を催す密度の朝だ。
私は、瓦礫の山となったカウンターの中で目を覚ました。
……パチッ。
小さな火花が、まだ熱を帯びたコンロの隅で跳ねる。
それは現世のガス火ではなく、昨夜の激闘で右腕の山椒が呼び寄せた、異界の残り火だった。
消えることのない呪いのように、その炎は青白く、静かに、だが確実に鉄を溶かし続けている。
身体中の節々が、錆びついた鉄扉のように悲鳴を上げていた。
指先一つ動かすのにも、激痛を伴う対価が必要だ。
筋肉の繊維一本一本に、極小のフォークが突き刺さっているような感覚。
右腕の山椒の蔓は、皮膚の下で静かに収まり、深い眠りについている。
だが、その奥底では、さらなる「熱」を求めて飢餓の胎動が始まっていた。
私の体液そのものが、四川のスパイスと化し、血管を内側から灼いている。
「……生き延びたか」
私は掠れた声で呟き、横たわっていた。
視界の端で、崩れた壁の隙間から、かつては商店街だった風景が見える。
しかしそこには、アスファルトの道も、見慣れた看板も存在しない。
代わりに広がっていたのは、脈動する肉の平原と、空に向かって口を開ける巨大な食虫植物の群れだった。
かつて信号機があった場所からは、熟しすぎた果実のような「人間の頭部」が鈴なりにぶら下がり、風に吹かれてカチカチと歯を鳴らしている。
隣では、少女が私の古い上着にくるまり、幼い寝息を立てている。
彼女の頬には、セバスチャンが放った銀の粉が微かに付着し、朝の光を浴びて真珠のように輝いていた。
彼女が生きていること。
ただそれだけが、この狂った世界における唯一の正解に思えた。
彼女の吐息は、この澱んだ大気の中で唯一、清潔な酸素の匂いがした。
私はよろよろと立ち上がり、店の惨状を見渡した。
椅子は砕け、テーブルは真っ二つに割れ、壁には宮廷料理人が放った「死の食器」が幾数も突き刺さっている。
それはまるで、世界を調理するための巨大な手術台のようだった。
床に転がる皿の破片一つにさえ、セバスチャンの冷徹な殺意が宿り、触れれば魂を切り裂かれそうなほどに鋭利だ。
「……腹が、減ったな」
私は、無事だった一本の包丁――『星天柳刃』を取り出した。
激闘の反動で、その美しい刀身には無数の刃こぼれが生じている。
だが、皮肉なことに、今の私の目には食材の「構造」が回路図のように、より鮮明に浮かび上がっている。
何処を切り、何処を残せば、その命が最も美味しく「爆発」するか。
命の継ぎ目、旨味の核、そして腐敗の始まり。
その残酷なまでの解像度が、私の脳を焼いていた。
私は、瓦礫の中から奇跡的に無傷だった小さなフライパンを取り出した。
調理場は半壊しているが、五徳は生きている。
私は、昨夜の騎士の残骸――床に降り積もった銀色の粉末――を集め、熱した鍋に放り込んだ。
粉末は熱を得て、瞬く間に芳醇な、しかしどこか血の匂いのする「銀の脂」へと姿を変える。
チリチリと音を立てて溶けるそれは、かつての栄光を煮詰めたような、重厚で虚無的な香りを放った。
食材を探す。
由良府の浸食によって、冷蔵庫の中にあった普通の野菜は、すでに異形の果実へと変貌していた。
私はそれらを躊躇なく手にとる。
「不味い」と「美味い」の境界線が消失したこの世界で、料理人がすべきことは一つしかない。
その狂気を、技術という鎖で繋ぎ止めることだ。
私は、脈動する真っ赤なナス――その表面には瞳のような斑点がある――を薄切りにする。
包丁が通るたび、ナスは小さな悲鳴のような音を立て、切り口からは紫色の粘液が溢れ出した。
だが、私は無視した。
その粘液を指で拭い、ペロリと舐める。
……悪くない。
深淵の泥のような苦味の奥に、暴力的なまでの糖分が隠れている。
次に、ピーマンに似た鋭利なトゲを持つ緑の果実。
中を割ると、種ではなく小さな「銀の歯」がぎっしりと詰まっていたが、それもスプーンで無造作に掻き出す。
それらを、銀の脂で一気に炒め上げる。
ジュゥゥゥゥゥ……!
炎が異質な野菜の水分と衝突し、七色の煙が立ち上る。
店内に、強烈な、殺気立った香りが満ちる。
異界のスパイスが熱によって深化し、えぐ味が甘美な余韻へと姿を変えていく。
四川の唐辛子が、それら全ての「狂気」を一つにまとめ上げ、食欲という名の暴力に変換していく。
「……ん、……おじさん、いい匂い」
少女が目を覚ました。
彼女は、寝癖のついた銀髪を揺らしながら、ふらふらと調理場へ歩み寄ってくる。
その瞳は、昨日までの怯えを失い、代わりに深い「空腹」の色を宿していた。
それは生き物が本来持っている、最も純粋で、最も浅ましい光だ。
「……おはよう。丁度いい、朝飯だ」
「……これ、食べられるの? 昨日の騎士さんみたいな匂いがする」
「ああ。騎士の魂を『出汁』にした。……これからの戦いに備えて、力をつけておけ。不味いものは出すなと言っただろう」
私は、異形の野菜のソテーに、昨夜の騎士の肉から削り出した「ジャーキー状の乾肉」を合わせた。
最強の苦味と、最強の旨味。
それは、もはや朝食という名の「生存儀式」だった。
私は彼女の前に、無愛想に皿を差し出した。
少女が、その料理を一口、口に運んだ。
「……っ!!」
彼女の身体が、ビクリと震える。
舌を刺すような衝撃が、彼女の脳を直撃したのだろう。
瞳孔が開き、指先が微かに震える。
「……すごい、……。身体が、……熱い。お腹の奥で、何かが暴れてるみたい」
「そうだ。由良府の食材は、食べる者の魂を直接書き換える。……負けるな。お前の『意識』で、その味を従えろ。飲み込めないなら、そのまま『餌』になるだけだぞ」
彼女は汗を流しながら、夢中で咀嚼を続けた。
異形のナスの苦味が、彼女の神経を覚醒させ、騎士の乾肉が、彼女の枯れかけた魔力を強制的に充填していく。
瓦礫だらけの店内で、天井のない空の下。
私たちは、異世界の残滓を貪り続けた。
身体の痛みが、引いていくのが分かった。
細胞が、異質の熱量を燃料にして、急速に再生していく。
胃壁が焼けるような熱さが、今は心地よい。
だが、その静かな朝食の時間は、長くは続かなかった。
……ドシン。
……ドシン。
店の前の通りから、重苦しい地鳴りが響いてきた。
私は箸を置き、店の外へ出た。
商店街の風景は、絶望的に美しく変貌していた。
昨日までそこにあった日常は、すでに風化し、由良府の「胃袋」の一部となっていた。
かつてのパン屋は、壁一面が「発酵する肉の壁」となり、そこから芳醇だが腐敗した香りを撒き散らしている。
電柱からは、巨大な「豚の胃袋」のような果実がぶら下がり、道ゆく人々を飲み込もうと待ち構えていた。
そして、通りの向こうから歩いてくるのは、昨日までの隣人たちではなかった。
ある者は、頭部が巨大な「蟹のハサミ」に変貌し、そのハサミで自分の記憶を切り刻んでいる。
ある者は、腹部から「銀のフォーク」を生やし、涎を垂らしながら、まだ人間の形を保っている者を探して彷徨っている。
……浸食の進行が、早すぎる。
セバスチャンとの決闘で、この街の次元の「蓋」が完全に吹き飛んでしまったのだ。
ここはもう、愛知の片田舎ではない。由良府の「前菜」が並ぶ食卓だ。
「……おじさん。あのおばさん、……パン屋の奥さんだよね?」
少女が、私の後ろから震える声で言った。
彼女が指差した先には、身体の半分が「クロワッサンの生地」のように層を成してねじ曲がった女性がいた。
彼女は、うつろな瞳で自分の腕を齧り、それを「美味しい」と呟きながら笑っていた。
溢れ出すのは血ではなく、甘ったるいシロップのような液体だ。
「……もはや、人間じゃねえ。……『食材』に堕ちたんだ。……理性に食欲が勝った瞬間に、奴らはこっち側の住人じゃなくなる。食われるのを待つだけの、哀れなジビエだ」
私は、腰に差した包丁の柄を強く握りしめた。
由良府の理は、この街の人々を、捕食者と被食者の二つに分けようとしている。
「食べる側」か、「食べられる側」か。
中間の存在は許されない。
そして「食べる側」であっても、それがただの暴食であれば、すぐに「食材」へと成り下がる。
その時。
一人の「客」が、こちらに向かって突進してきた。
それは、全身が「生ハム」のように薄くスライスされた巨漢だった。
皮膚の下の毛細血管が透けて見え、彼は一歩動くたびに自らの身体を削り、激痛と快楽の叫びを上げる。
彼が踏み出した足跡には、どろりと濃厚な脂肪の染みが残る。
「……腹が、減った……!! 何でもいい、……俺を満たすものを……出せ!!」
彼の背後には、彼を「収穫」しようとする由良府の小鬼たちが、銀の網を持って追いかけてきている。
小鬼たちは、彼を「熟成した一級品」と呼んで、笑いながら追い詰めていた。
彼らにとって、この街は巨大なスーパーマーケットに変貌したのだ。
「……あいにくだが、うちは予約制だ。それに、自分を粗末にする客には何も出さねえ」
私は、右腕の山椒を解放した。
蔓が、まるで意志を持つ蛇のように私の腕を駆け巡り、周囲の空気を加熱する。
アスファルトが熱で溶け、硫黄の匂いが立ち込める。
シュバッ!
私の柳刃が、生ハムの巨漢の首元を掠める。
斬るのではない。
肉の中に溜まった、過剰な「塩分」と「由良府の魔力」を逃がすための、一筋の切開。
外科手術にも似た、精密な解体技術の応用。
膿のような欲望を排出させ、素材を浄化する。
「……ガ、……ぁ……!?」
巨漢の身体から、黒いガスが噴き出し、彼の肥大した筋肉がみるみるうちに縮んでいく。
塩辛い絶望が抜け落ち、彼は食材へと変質する直前で、かろうじて人間の形を繋ぎ止めた。
ただの「肉」から、「人間」へと引き戻したのだ。
私は、そのまま着地し、彼を追いかけていた小鬼たちの前に立った。
私の足元から、黒い炎が波紋のように広がる。
「……料理を台無しにするゴミ共が。……食材(人間)を汚れた手で触るんじゃねえ。いい食材ってのはな、丁寧に扱わなきゃいけねえんだよ」
小鬼たちは、私の姿を見て、一瞬で硬直した。
私の背後には、神を屠った際に宿った「黒い太陽」の幻影が、冷たく、そして激しく輝いている。
「……ひ、……ヒィッ!! 料理人だ!! 神殺しの料理人がいるぞ!!」
「あいつの鍋に入れられたら、魂まで煮込まれるぞ! 逃げろ!!」
小鬼たちは、獲物を捨てて一目散に逃げ出した。
彼らにとって、私は神さえも解体する、この世で最も恐ろしい「地獄のコック」なのだ。
私は、倒れ込んだ男を横目に、店の看板を立て直した。
『翠嵐』の文字は、煤で汚れ、半分欠けているが、その重みだけは増していた。
「……おじさん。……これから、どうするの?」
少女が、私の隣に並んで空を仰いだ。
琥珀色の空には、さらに巨大な「美食の船」が、雲を割って降りてこようとしていた。
あれは、由良府の本格的な軍勢――『大厨房艦隊』だ。
世界を丸ごとスープにするための、巨大な調理器具の群れ。
「どうもしねえよ。……俺は、料理人だ。……誰が来ようが、何が起きようが、……腹を空かせてる奴がいるなら、鍋を振るだけだ」
「……でも、世界がこんなになっちゃったのに」
「だからこそだ。……世界が『狂った味』になっちまったなら、……俺が、それを美味しく『調律』してやる。不味い運命なんて、俺が全部食いつくして、最高のディナーに変えてやるよ」
私は店内に戻り、吹き飛んだ天井を見上げた。
そこからは、雨ではなく、神の血の混じった「黄金の露」が降り注いでいた。
その露は、店内に生えた不気味なシダ植物の葉を濡らし、さらに青白い輝きを与えていく。
私は、一滴の露を口に含んだ。
……甘い。
だが、その奥には底知れぬ「孤独」の味がした。
私は、店の奥の冷蔵庫を開けた。
中には、セバスチャンとの戦いで使い切ったと思っていたが、わずかに残っていた「宮廷の食材」がある。
それは、一度口にすれば二度と現世の食事には戻れなくなるという、禁断の香辛料。
そして、先代から受け継いだ、最後の中華スープの素。
カウンターの下には、騎士の魂が溶けた銀の粉。
まな板の上には、今まさに収穫されたばかりの、脈動する異界の果肉。
それらを目の前にして、私は自嘲気味に笑った。
「……最高に、不味そうな材料ばっかりだ」
「……おじさん、また変な顔してる」
「……小娘。……お前に、……新しい仕事をやる」
「……仕事?」
「ああ。……この街に溢れ出した『不味い奴ら』を集めてこい。……食材としてじゃねえ、客としてな。……自分が誰だか分からなくなる前に、俺の飯で目を覚まさなきゃならねえ連中だ」
少女は、きょとんとした後、ニヤリと笑った。
彼女の瞳の奥にも、私と同じ、狂気じみた「料理人」の光が宿り始めていた。
それは、どんな神も消すことのできない、生命の業火だ。
「……分かった。……美味しいものを食べないと、みんな『誰かの餌』になっちゃうもんね。……いっぱい連れてくるよ。その代わり、私の分も残しておいてね」
彼女は、私の背中から「虚無の火」を翼のように広げ、琥珀色の空へと飛び立っていった。
その姿は、絶望に沈む街にとって、唯一の「希望の火種」に見えただろう。
あるいは、最も恐ろしい「集金人」か。
私は、鍋を磨き始めた。
天井のない厨房。
瓦礫のカウンター。
だが、ここには由良府の神さえも持っていなかった「真の火」がある。
私は、折れた柳刃を砥石にかける。
シュッ、シュッ、という音が、静寂に包まれた街に響き渡る。
「……さて。……次は何を煮込むか。……世界そのものを、最高の四川風に仕上げてやるよ」
私は、右腕の山椒を撫でた。
蔓は、周囲の異界の気配に反応して、チリチリと心地よい振動を返してくる。
私の心臓は、ドラムのように力強く脈動し、血流は沸騰したスープのように全身を駆け巡る。
街のどこかで、また誰かの悲鳴が上がる。
それは、飢えの叫び。
あるいは、食われる恐怖。
だが、その悲鳴さえも、今の私には「調理中の音」にしか聞こえなかった。
私は、コンロの火を最大にした。
青い炎が、琥珀色の朝空を突き刺し、世界への挑戦状を書き上げる。
いらっしゃいませ。
地獄の『翠嵐』へ、ようこそ。
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