第十三話 宮廷の潔癖、死のフルコース
静寂。
それは、先ほどまでの破壊の音よりも、遥かに暴力的な静寂だった。
壊れた窓から差し込む街灯の光が、宙に舞う埃を銀色に照らしている。
カウンターの向こう側。
白いコックコートに身を包んだ男、セバスチャンが、指先で卓上を軽くなぞった。
……スッ。
指先に付着したわずかな銀の粉末――亡霊騎士の残骸――を眺め、彼は深く、溜息をついた。
「……耐え難い。実に、耐え難い不潔さだ」
「食材を解体した後の処理も満足にできないとは」
「貴様は料理人ではなく、ただの屠殺業者(スローター)に過ぎないようですね」
その言葉は、冷たく、鋭利な氷の針となって店内の空気を凍らせる。
彼の立つ周囲だけ、重力がねじ曲がっているかのように空気が澄み渡り、あらゆる濁りが排除されていく。
私は、手にしていた柳刃を構え直した。
右腕の山椒が、かつてないほどの警戒を告げて、激しく脈動している。
血管のポンプが、警鐘のように耳元で鳴り続けていた。
「……悪いな。うちは町の中華屋だ。高級ホテルのようなサービスは期待するなよ」
「だが、味に関しては、その潔癖な舌を驚かせる自信はあるぜ。泥の中にこそ、真の旨味は眠っているもんだ」
「……味、ですか」
セバスチャンは、冷たい眼鏡の奥で瞳を細めた。
その視線は、私の肉体ではなく、私の背後にある「概念」を品定めしているようだった。
「味とは、理(ことわり)の調和です。貴様のような野蛮な熱量だけで押し通すものは、味とは呼ばない」
「それは、舌に対する暴行だ。……無作法な音を立てて啜るだけの、卑しい生存本能の残滓に過ぎない」
彼は、自らの包丁ケースから一本のナイフを取り出した。
それは、由良府の至高の金属『神銀(ミァリール)』で作られた、透き通るような白銀の刃。
その刃が抜かれた瞬間、店内の「汚れ」が物理的に押し退けられるような錯覚に陥った。
割れたタイルの破片も、こぼれたスープの染みも、その刃が放つ光の前では「存在の誤り」として消去されていく。
「……よろしい。この汚泥に塗れた厨房を、私の料理で浄化してあげましょう」
「『死の晩餐』の第一幕です。……跪いて、味わいなさい」
セバスチャンが、動いた。
いや、彼は一歩も歩いていない。
ただ、その場に立ってナイフを振った。
シュンッ!
空気が、あまりにも綺麗に切断された。
音さえも置いてきぼりにするその速度。
私が気付いた時には、まな板の上に、どこから取り出したのかも分からない「純白の肉塊」が置かれていた。
それは、由良府の空を泳ぐ『雲鯨(くもくじら)』の心臓。
一度も大地を踏んだことのない、純粋無垢な酸素と星屑だけで構成された、高次元の食材だ。
「……調理開始(オーダー)。メニューは『魂の漂白、エッセンスの再構築』」
セバスチャンの手さばきは、もはや魔術だった。
ナイフが動くたびに、肉塊から「雑味」という名の概念が、黒い霧となって分離されていく。
彼の手が動くたび、周囲の時間が結晶化し、微細な塵さえもが幾何学的な模様を描いて静止する。
彼は炎を使わない。
ただ、絶対的な「冷気」と「精密」によって、食材の可能性を極限まで抽出していく。
不純な熱は一切排除され、素材が持つ「本来の冷たい正解」だけが磨き上げられていくのだ。
……ドクン。
私の右腕が、痛む。
彼の調理を見ているだけで、私の料理人としてのプライドが、根底から否定されていくような感覚。
汗の一滴、呼吸の乱れ、それら全てが「不純」として切り捨てられるその光景。
それは、私の「四川の熱」を真っ向から打ち消す、完璧なる「静」の調理法。
「……おじさん、危ない! あの男、空気を食べてる!」
少女が叫んだ。
確かに。セバスチャンが調理を進めるたび、店内の酸素が、熱が、そして「命の匂い」が、彼の皿へと吸い込まれていく。
彼の料理は、周囲の全てを犠牲にして、ただ一つの「正解」を作り上げるための儀式なのだ。
中華鍋の余熱が奪われ、冷蔵庫の霜が急速に成長し、店内の生気が一箇所へと収束していく。
私は、中華鍋を掴んだ。
黙って見ているわけにはいかない。
ここで彼の「理」に屈すれば、この店も、この街も、全てが彼の冷たい白に塗りつぶされてしまう。
それは死よりも静かな、永遠の停滞だ。
「……綺麗事だけじゃ、腹は満たせねえんだよ、料理長(シェフ)!」
私は、足元に落ちていた「騎士の甲冑の破片」を拾い上げ、鍋に放り込んだ。
鉄。
脂。
呪い。
騎士が何千年も抱え込んできた、どろどろとした執着の塊。
そして、先ほど作ったばかりの『銀翼の担々麺』のスープの残り。
ありとあらゆる「不純物」を、私は鍋の中で爆発させる。
カチ、カチ、カチ……ボォォォォォォッ!
私のコンロから、かつてないほどの紅蓮の炎が吹き上がった。
それは、神を屠ったあの瞬間の業火を、無理やりこの狭い厨房へと再構築した「概念の火力」。
右腕の山椒が、血管を突き破らんばかりに隆起し、私の全生命力を「火力」へと変換する。
視界が血の色に染まるが、構わない。
「……雑味があるからこそ、人は美味いと感じるんだ!」
「完成された静寂なんて、死体と同じだぜ! 汚れも、傷も、全てが隠し味なんだよ!」
私は、鍋を振る。
鉄が溶け、脂が弾け、四川の唐辛子が暗黒の香煙を巻き上げる。
セバスチャンの「白」と、私の「紅」。
二つの異なる理が、厨房という名の戦場で、激しくぶつかり合った。
その境界では、物理法則が崩壊し、鉄の破片が空中で発芽しては燃え尽き、蒸発したスープが雨となって降り注ぐ。
パキィィィィィィン!
空間が、熱と冷気の境界線で、ガラスのように割れ始めた。
セバスチャンの眉が、わずかに動いた。
彼の完璧な所作に、初めてコンマ数秒の遅れが生じる。
「……不愉快な。私の神聖な調理場を、これ以上汚すというのですか」
「その醜悪なノイズ、……私の『沈黙』ですら拭いきれないというのですか」
「……ええい、五月蠅い! これが俺の味だ、食らえ!」
私は、鍋の中の「混沌」を、一枚の皿へと叩きつけた。
それは料理と呼ぶにはあまりにも荒々しい、肉と鉄の「衝突体」。
どろりとした黒褐色のソースが、皿の上で生き物のようにうごめいている。
だが、そこからは、魂を根こそぎ揺さぶるような「生の叫び」が聞こえてきた。
メニュー名は、『地獄の業火、鉄の再誕』。
それは、死者を無理やり現世へ引き戻すための、呪いのような味。
それと同時に、セバスチャンもまた、一皿を完成させた。
透き通るような氷の器に盛られた、一筋の輝き。
それは、全ての感情を排し、あらゆる五感を拒絶する、究極の「無」。
「……さあ、判定の時間です」
セバスチャンは、私の皿を見下し、冷たく笑った。
その瞳には、私の料理など端から眼中にないという絶対的な傲慢が宿っている。
「どちらの味が、この壊れゆく世界に相応しいか。……神に代わって、私が証明して差し上げましょう」
「貴様の毒が勝つか、私の光が勝つか。……答えはすでに出ている」
彼は、私の作った「鉄の混沌」を、優雅に一口、口に運んだ。
……沈黙。
セバスチャンの顔から、表情が消えた。
時間が、完全に止まったかのように思えた。
彼の白いコックコートに、微かな「汚れ」のような汗が滲み出る。
それは、由良府の宮廷では決して流すことの許されなかった、生身の人間の分泌物。
「……な、……んだ、これは……」
「……暴力だ。……あまりにも、……汚らしく、……そして、……」
彼の瞳の奥で、かつて彼が捨て去ったはずの「空腹」という名の怪物が、目を覚まそうとしていた。
それは、洗練された知識では決して御することのできない、泥に塗れた飢え。
セバスチャンの身体が、小刻みに震え始める。
彼が築き上げてきた、数千年にわたる「完璧な世界」に、私の四川の熱が、修復不能な亀裂を入れていた。
私の料理に含まれた「鉄」の成分が、彼の高次元な肉体を現世の重力へと引きずり降ろす。
「……バカな。……このような、……土臭い、……計算違いの味が……」
「……この私の、……計算を、……上回る……などと……!」
「私は、……神の隣で、……完璧を具現化してきたはずだ……!」
彼は崩れ落ちるように、椅子に手をついた。
彼の料理人としての矜持が、私の放った「生の熱量」によって、内側から溶かされていく。
料理とは、管理ではない。
料理とは、爆発だ。
生命が、他の生命を喰らう際の、最も汚らしく、最も美しい火花なのだ。
それを思い知らされた宮廷料理長の顔には、もはや潔癖な優雅さは残っていなかった。
「……おじさん、勝ったの?」
少女が、おずおずと尋ねる。
「……いや。……まだだ。……こいつは、まだ『メインディッシュ』を出してねえ」
「本当の絶望ってのは、ここから始まるんだよ」
私は、セバスチャンを睨み据えた。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
その眼鏡の片方が割れ、露わになった左目には、底なしの「黒い飢餓」が宿っていた。
それは、神さえも喰らい尽くそうとする、由良府の深層に眠る原初の欲求。
「……認めましょう。……貴様は、害獣です。……駆除するには、……私自身が、……『野獣』になるしかないようだ」
「高貴さは捨てました。……今、私はただの『飢えた個体』に過ぎない」
セバスチャンが、自らのコックコートを乱暴に引き裂いた。
その胸には、神から授かったとされる「第三の肺」が、禍々しく脈動していた。
それは、大気中の魔力を吸い込み、次元を超えた「旨味」を精製するための異形の臓器。
「……第二幕の開始(デセール)です。……今度は、貴様の魂そのものを、調理して差し上げましょう」
彼は、自らの腕を切り裂き、その鮮血を調理器具へと注ぎ込んだ。
血液が銀色の輝きを放ち、鍋の中で星々のように明滅する。
厨房が、異質のプレッシャーによって歪んでいく。
由良府の宮廷。
その最深部で磨き上げられた、真の「死の技術」が、今まさに解き放たれようとしていた。
それは、もはや味覚の範疇を超えた、存在の抹消。
セバスチャンの周囲に、無数の「銀の食器」が幻影として現れ、不協和音の合唱を始める。
キィィィィィィィィィィィ……。
その音は、聞いた者の理性を剥ぎ取り、ただ「食われること」を悦びとする呪いの調べ。
厨房の壁が剥がれ落ち、そこから由良府の死者の顔が幾千も覗き込む。
「……小娘、耳を塞げ! こいつ、……本気で世界を『更地』にする気だぜ!」
「食欲の嵐で、この街ごと飲み込むつもりだ!」
私は、中華鍋を盾のように構えた。
右腕の山椒が、かつてないほどの発熱を上げ、私の皮膚を赤く染めていく。
皮膚の下で山椒の蔓がうごめき、私の骨を削ってでもエネルギーを生み出そうとしていた。
「……面白い。……宮廷料理がなんだ。……町中華の底力、……見せてやるよ!」
「高級食材がなんだ、こっちには『生きたい』っていう、最大の隠し味があるんだよ!」
私は、冷蔵庫の奥に隠していた「最後の切り札」を取り出した。
それは、由良府の神を殺した際、その心臓から零れ落ちた、一個の「究極の種」。
まだ芽吹いていない、全宇宙の味の可能性を内包した、始まりの種子。
「……これを食らって、……腹を壊さなかった奴はいねえんだ」
私は、その種を、自分の全精力を込めた炎の中へと放り込んだ。
瞬間。
厨房の中に、巨大な「生命の樹」の幻影が立ち上がり、セバスチャンの死の合唱を力強く塗り潰していく。
緑。
赤。
金。
ありとあらゆる色彩が爆発し、店内の瓦礫さえもが「最高の装飾」へと変貌していく。
それは、死をも食らい尽くして成長する、圧倒的な生の暴力。
「……なんだ、……この生命力は……!」
「……腐敗すらも、……滋養に変えるというのか……!」
セバスチャンが絶叫した。
彼の「死のフルコース」が、私の「生の暴走」によって、次々と飲み込まれていく。
冷たい正解が、泥臭い生命の躍動によって、跡形もなく蹂躙されていく。
彼は、自分の血で描いた魔法陣を必死に繋ぎ止めようとしたが。
私の鍋から溢れ出した「生きようとする意志」の前に、それはあまりにも無力だった。
「不変」は「変異」に敗北し、「沈黙」は「産声」にかき消された。
ドォォォォォォォォォォォォン……!
厨房の天井が吹き飛んだ。
いや、吹き飛んだのは次元の壁だ。
現実世界の夜空と、由良府の深層が重なり合い、オーロラのような光が街を包み込む。
夜空には、巨大な「調理器具」の形をした星座が輝き。
街中の人々が、その圧倒的な「美味の予感」に足を止めて空を仰いだ。
その光の中心で、私は最後の一振りを、セバスチャンの眼前に突きつけた。
「……お代わりは、……地獄で受け付けるぜ、……シェフ!」
光が、全てを包み込んだ。
光が収まった後。
そこには、ただ一人の、疲れ果てた男が立っていた。
セバスチャンは、真っ白な灰になったかのように、床に座り込んでいた。
彼のコックコートはボロボロで、あの冷たい眼鏡もどこかへ消えていた。
その姿は、かつての威厳を失っていたが、どこか憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……負け、……ました。……料理に、……これほどの『熱』が必要だとは……」
「……私は、……ただ、……神の好む『正解』ばかりを、……追っていたようです……」
「……誰かのために作るのではなく、……誰かを支配するために作っていた……」
彼は、震える手で、私の差し出した一杯のスープを受け取った。
それは、先ほど作ったばかりの、不格好だが熱いスープ。
騎士の鉄粉が混じり、四川のスパイスが効いた、ただただ熱い一杯。
セバスチャンは、それを一口飲み。
生まれて初めて、……涙を流した。
その涙は、彼の頬を伝い、床の埃を濡らした。
「……ああ、……不味い。……不味くて、……心が震える……」
「……これが、……『生きた』味、……なのですね……。……喉を焼くような、……痛々しいほどの……喜びだ……」
彼は、そのまま静かに目を閉じ、銀の粉となって消えていった。
彼もまた、由良府という迷宮に囚われていた、哀れな料理人の亡霊に過ぎなかったのだ。
夜風が、吹き飛んだ天井から吹き込んでくる。
煙突の煤の匂いと、夜露の匂いが混ざり合う。
私は、空になったスープの器を見つめ、静かに呟いた。
「……ごちそうさま、……宮廷料理長。……あんたの技術、……いつか俺が盗んでやるよ」
隣では、少女が壊れたカウンターの上で、ぐっすりと眠りについていた。
彼女もまた、全力を出し切り、今はただの子供に戻っていた。
彼女の寝顔には、もう神の呪いの影はない。
私は、彼女に自分の上着をかけ、夜空を見上げた。
由良府の浸食は、これで止まったわけではない。
むしろ、今ので「本格的な宣戦布告」が済んだようなものだ。
空の向こう。
神がいなくなった後の玉座を狙う、数多の「美食の王」たちが。
この小さな店『翠嵐』を、次なるターゲットに定めたのが分かった。
星々が、ナイフやフォークの形に並び、私を嘲笑っている。
「……ふん。……かかってこいよ。……誰が相手でも、……俺の鍋は、……冷めやしねえからな」
私は、折れた柳刃を研ぎ始めた。
シュッ、シュッ、と規則的な音が、静かな夜に響く。
夜明けは、まだ遠い。
だが、私の心には、四川の炎が、消えることなく燃え続けていた。
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