第十二話 騎士の解体、鉄の香気が舞う夜

カラン、コロン。

 その乾いた音は、死の宣告に似ていた。

 店の入口に立つその男は、現世の重力に従っていないかのように見えた。

 全身を覆う白銀の甲冑。

 それは単なる防具ではない。かつて由良府の神が、自らの食卓を守るために「不変」の概念を鋳造して作り上げた、絶対的な拒絶の殻だ。

 その継ぎ目からは、由良府の神の血と同じ、禍々しい黄金の蒸気が絶え間なく噴き出している。

 男の身体には、無数の「銀の匙」が、まるで処刑された罪人のように突き刺さっていた。

 一本一本の匙が、騎士の肉体と魂を甲冑に縫い付け、永遠の空腹を強いている。

 ……ヒュォォォォ。

 彼が踏み出すたび、店内の温度が急速に下がる。

 熱力学の法則を無視し、騎士の周囲の熱が「食われて」いくのだ。

 せっかく温めた中華鍋の熱が、目に見えて奪われていく。コンロの火さえも、青から白へと凍りついたような色に変色していた。

「……貴様か。主を屠り、禁じられた味を振るうという野蛮な料理人は」

 騎士の声は、金属が擦れ合うような不快な響きを伴っていた。

 声そのものが、鋭利な刃物となって私の鼓膜を削る。

 彼は、腰に佩いた大剣をゆっくりと引き抜く。

 その剣身には、幾千もの「食われた魂」の叫びが、微細な刃紋となって刻まれていた。

 それは剣ではない。由良府における「究極のナイフ」なのだ。

「……営業時間はまだだが、予約の客なら話は別だ」

 私は、震える右腕を左手で押さえつけた。

 恐怖ではない。

 右腕に宿った「山椒の蔓」が、目の前の強大な「食材」を前にして、狂喜乱舞しているのだ。

 神経が焼ける。血管が沸騰する。

 脳内には、この騎士をどうやって「捌き」、どうやって「火を通すか」というレシピが、濁流のように溢れ出していた。

「だがな、騎士様。うちの店には『鉄』のメニューはないぞ。あるのは、魂を揺さぶる熱い料理だけだ」

「……案ずるな。我が剣が、貴様の肉を、魂を、神の食卓に相応しい『薄切り』にしてくれる」

「作法を知らぬ料理人に、死という名のスパイスを与えてやろう」

 騎士が、動いた。

 速い。

 巨体に見合わぬその踏み込みは、空間そのものを圧縮し、一瞬で私の懐へと至った。

 大剣が振り下ろされる。

 それは物理的な打撃ではなく、存在そのものを「切り分ける」概念の行使。

 店内の空気が断裂し、カウンターの木材が悲鳴を上げて軋む。

 ガギィィィィィィィィィン!

 火花が散った。

 私が手にしていたのは、中華鍋ではない。

 いつの間にか握りしめていた、あの由良府の深層で打ち直した包丁――『星天柳刃』だ。

 青い燐光を放つ刃が、巨大な大剣の重圧を、紙一枚の差で受け流していた。

 柳刃の刀身が、騎士の剣から放たれる「冷気」を吸収し、逆に青い炎となって噴き出す。

「……ほう。その包丁、主の残滓を使っているな。不敬の極みよ。神の肉体の一部を、道具に貶めるとは」

「不敬だと? 料理人にとって、神だろうが騎士だろうが、まな板に乗ればただの『肉』だ。動く食材に文句を言われる筋合いはねえ」

 私は、包丁の刃を滑らせる。

 騎士の甲冑の表面。

 そこには、普通の目には見えない「繊維の目」が存在していた。

 鉄であっても、それはかつて神が「味わうため」に作り出した造形物。

 生命の模倣。

 ならば、解体できない道理はない。

 私は右腕の山椒を、全神経に同期させた。

 視界が、さらに細かく分割されていく。

 騎士の動きが、筋肉の収縮ではなく、黄金の蒸気の「流れ」として可視化される。

 シュバッ!

 私の包丁が、騎士の肩口を撫でるように走った。

 金属音が響くことはない。

 ただ、最高級のバターを切り裂くような、背徳的な手応えだけが手に残った。

 鉄の結合を、「味の結び目」として斬ったのだ。

 ドサリ。

 騎士の肩から、銀色の装甲が一枚、音を立てて剥がれ落ちた。

「……何……!? 我が不壊の甲冑を、調理したというのか!?」

「言ったはずだ。お前は今、俺の厨房に立っているんだと。ここでは、俺が理(ルール)だ」

 私は、カウンターを飛び越えた。

 右腕の山椒が、私の神経を加速させ、時間の流れを極限まで引き延ばす。

 空中に舞う装甲の破片、割れた窓ガラスの破片、それら全てが静止して見える。

 騎士の放つ黄金の蒸気。

 それは、ただの排気ではない。

 それは、彼がこれまで神に捧げてきた「最高級の肉」の脂が、魂と共に蒸発したもの。

 由良府の歴史そのものが、この蒸気の中には煮詰められている。

「……贅沢な出汁(だし)を垂れ流してやがる。勿体ねえな。その香りを閉じ込めなきゃ、料理人失格だ」

 私は空中で体を捻り、二の太刀を叩き込む。

 狙うのは、彼の胸部。

 そこに突き刺さっている、一際大きな「銀の匙」。

 それが、彼の「味の核」であり、動力源であることを、私の料理人としての直感が見抜いていた。

 あの匙を砕けば、この「鉄の缶詰」の中身が露わになる。

「……下がれ、汚らわしい食い詰め者が! 貴様の如き下衆が、高貴なる我に触れるな!」

 騎士が叫び、大剣を円に振るう。

 衝撃波が店内の椅子を粉砕し、床をめくり上げる。

 現実世界と異界の法則が衝突し、店内の空間が歪んで、天井と床が反転したかのような錯覚に陥る。

 だが、その嵐の中を、漆黒の炎が切り裂いた。

「……おじさん! 余所見しないで! 火加減は私が持っておくから!」

 少女が、カウンターの影から飛び出した。

 彼女の両手には、由良府の深層で手に入れた「虚無の残り火」が宿っている。

 炎は騎士の足元を舐め、その白銀の甲冑を赤熱させる。

 「不変」の概念を、少女の「破壊」の火が溶かしていく。

「……グ、オォォォ! 忌々しい生贄の娘が! 貴様が主の糧となっていれば、このような屈辱は……!」

「生贄じゃない。……私は、この店の『看板娘』だよ! 迷惑な客は、お断りなんだから!」

 少女の炎が、騎士の影を拘束し、その動きを一瞬だけ止めた。

 その「一瞬」があれば、私には十分だった。

 私は、赤熱した騎士の甲冑の隙間に、右手を突き立てた。

 熱など感じない。山椒の蔓が、私の腕を異質の「調理器具」へと変えていた。

 トゲが、鉄の奥深くに眠る「魂の神経」を貫く。

 痺れ。

 それは、麻(マー)の究極形。

 意識を飛ばし、存在の根源を弛緩させる、暴力的なまでの快楽と痛みの混濁。

 神の騎士ですら、その感覚の暴力には抗えない。

「……あ、……ぁ……力が、……抜ける……」

 騎士の動きが完全に停止した。

 全身の甲冑が、ガタガタと震え、そこから黄金の脂が濁流のように溢れ出す。

 厨房全体が、芳醇な、しかし毒々しいまでの「肉の香り」で充満する。

 私は、その至近距離で、包丁を垂直に振り上げた。

 青い燐光が、極限まで凝縮される。

「……解体、開始(いただきます)」

 包丁が、騎士の胸の匙を捉えた。

 ピキィィィィィィィン!

 冷徹な破壊音が店内に響き渡る。

 匙が砕け、その中から圧縮されていた数千人分の「美味の記憶」が、奔流となって溢れ出した。

 それは、暴力的なまでの香気だった。

 熟成された肉の深み。

 煮込まれた果実の甘美な酸。

 蒸発した海の、生命の塩気。

 それら全てが混じり合い、店内に「美食の嵐」を巻き起こす。

 騎士の甲冑は、その圧力に内側から耐えきれず、次々と弾け飛んでいった。

 一枚、また一枚と、歴史の殻が剥がれ落ちる。

 中から現れたのは、肉体を持たない、ただの「虚空の影」。

 数千年の飢えに耐え続けた、哀れな亡霊の核だ。

 彼は、自らの味が霧散していくのを、絶望の目で見守るしかなかった。

 彼が守ってきたものは、高貴さなどではない。ただの「蓄積された欲望」に過ぎなかったのだ。

「……主よ。……私は、……これほどまでに、……『不味い』存在だったのか……」

「……ああ。お前は食う専門で、作られる痛みを忘れてたからな。食材への感謝がねえ奴に、いい味は出せねえ」

 私は、最後の一太刀で、その影を切り裂いた。

 影は、美しい「銀色の粉末」となって、粉雪のように床に降り積もった。

 静寂が、再び店を支配した。

 粉々になった椅子。

 割れた窓ガラス。

 壁に突き刺さった甲冑の破片。

 そして、床に降り積もった、騎士の成れの果てである銀の粉。

 それは、街の街灯を反射して、まるで天の川が店内に流れ込んだかのような幻想的な光景を作り出していた。

 私は、大きく息を吐き、膝をついた。

 全身の筋肉が、過負荷で悲鳴を上げている。

「……はぁ、……はぁ……。……しんどい客だったな。……一銭も置いていかねえとは」

「……おじさん、大丈夫? 手、震えてるよ」

 少女が駆け寄ってくる。

 彼女の炎も消え、少しだけ疲れが見えたが、その瞳はかつてない満足感に輝いていた。

「……ああ。だが、これだけの材料(ゴミ)を放置しとくわけにはいかねえ。掃除も料理のうちだ」

 私は、床に積もった銀の粉を、一掴み手に取った。

 それは、騎士が何千年もかけて吸い込んできた、食材たちの「未練の結晶」だ。

 本来なら、触れるだけで魂を汚染する呪いの塊。

 だが、今の私なら、これを「最高のスパイス」に転換できる。

 解体されたものは、再構成されなければならない。それが料理人の責任だ。

「……小娘、掃除を手伝え。……こいつを使って、口直しを作るぞ。店を壊した詫び料、あいつの魂から取り立ててやる」

 私たちは、壊れた店内で、後片付けを始めた。

 ほうきで銀の粉を集め、割れた皿を選別する。

 外を見れば、夜の闇はさらに深まっているが。

 街の灯りは、どこか以前よりも「鮮やか」に見えた。

 由良府の浸食は続いている。

 だが、それを食らい、自らの血肉に変える強者が、この街には二人いるのだ。

 私は、唯一無事だった小さな鍋に、火をかけた。

 水は、神の骨から取った黄金の出汁。

 そこに、先ほどの騎士の粉を、パラパラと振りかける。

 シュゥゥゥゥ……。

 粉が溶け込んだ瞬間、スープは銀色に輝き、芳醇な「鉄の香り」を放ち始めた。

 それは、かつて騎士が持っていた冷たさではなく。

 全ての食材を包み込むような、慈悲深い温かさへと昇華されていた。

 鉄分が、由良府の魔力と結びつき、血を造り、魂を強化する滋養強壮の液体へと変わる。

「……おじさん、これ、なんの匂い? 懐かしくて、でも知らない匂い」

「……騎士の鎮魂歌(レクイエム)だ。……食われた奴らの想いを、温かいスープに変えてやるんだよ。もう誰にも食われる必要はねえ、血肉となって生き直せってな」

 私は、そのスープに、手揉みの麺を投入した。

 小麦の香りが、銀のスープと絡み合う。

 四川の暴力的な力強さと、由良府の神秘的な静寂が混ざり合う、究極の一杯。

『銀翼の担々麺』。

 砕かれた騎士の匙。

 それは今、客に提供される「レンゲ」としての役割を終えようとしていた。

 かつては命を奪うための匙が、今は命を救うための道具へと、その本質を書き換えられたのだ。

 カウンターに、二つの丼が並ぶ。

 湯気の中に、銀色の粒子が舞い、まるで星空を飲んでいるかのような錯覚に陥る。

「……いただきます」

 少女が、スープを一口、口に含んだ。

 その瞬間、彼女の身体が微かに浮き上がったように見えた。

 彼女の髪が一瞬だけ黄金色に輝き、瞳の中の黒い太陽が穏やかに揺れる。

「……美味しい。……今までで、一番、……優しい。……騎士さん、本当はこんな味だったんだね」

「……だろうな。……あいつも、最後はただの『食べられたい』存在に戻ったんだ。戦うよりも、食卓を囲むほうが、ずっと性に合ってたんだろうよ」

 私も、自分の分を啜った。

 喉を通る熱が、全身の細胞を浄化していく。

 右腕の山椒も、今は静かに眠っていた。

 戦いの後の、静かな宴。

 だが、これで終わりではないことを、私たちは知っている。

 店を一歩出れば、そこにはまだ、解体を待つ「世界」が広がっているのだから。

 由良府の深層から来た亡霊は、まだ数多(あまた)存在する。

 そして、彼らを引き連れてくる「次の料理人」の影を、私は街の角に視ていた。

「……おじさん、次。……誰か来てるよ。さっきの鉄屑より、ずっと嫌な予感がする」

 少女が、空になった丼を置いて言った。

 カラン、コロン。

 三度(みたび)、ドアが開く。

 そこに立っていたのは、甲冑を着た騎士ではない。

 白いコックコートを完璧に着こなし、冷たい眼鏡の奥で知性を光らせる、一人の男だった。

 彼の指先は白く細いが、そこには無数の「食材を屠った証」としてのたこができていた。

 男は、自らの包丁ケースを、埃の舞うカウンターの上に置いた。

 そこには、由良府の王宮料理人の証である、黄金の紋章が刻まれていた。

「……素晴らしい。……騎士を『出汁』にするとは。……野蛮だが、独創的だ。……しかし、衛生管理がなっていない」

 男はハンカチで眼鏡を拭き、軽蔑の色を隠そうともせずに私を見た。

「……お前が、……次の客か? それとも、掃除の代行屋か?」

「いいえ。……私は、この汚れた厨房を『清掃』しに来た、……由良府第一宮廷料理長、セバスチャンです」

「貴様の如き素人に、神の味を語る資格はない。……死の晩餐の準備を始めましょう」

 男が包丁ケースを開くと、中から眩いばかりの銀の刃が並んでいた。

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