第十一話 変貌する街、あるいは異界の朝食

朝の光が、厨房のタイルを白く焼き、反射していた。

 使い込まれた換気扇が、油の層を抱えたまま、重々しく回転を続けている。

 ブォォォン……。

 その低く、一定のノイズが、ここが現実であることを私に強要していた。

 だが、その現実は、かつてのそれとは決定的に何かが違っていた。

 私は、まな板の上に置かれた「葱(ねぎ)」を手に取った。

 近所の八百屋で買ってきた、何の変哲もないはずの野菜。

 しかし、今の私の目には、その白い茎の奥で脈動する「銀色の導管」が見えていた。

 由良府の神を解体したあの瞬間。

 私の視覚は、食材の深淵――その生命の「構造」を透視する域にまで変質してしまったのだ。

 由良府の毒が、私の視神経を焼き、再構築した結果。

 ただの野菜が、今は「情報の塊」として、私の脳を直接殴りつけてくる。

「……はぁ。これじゃあ、まともに買い出しもできやしねえな」

 私は独り言を漏らしながら、包丁を握った。

 由良府で打ち直した『星天柳刃』ではない。

 現実で長年使ってきた、馴染みの牛刀だ。

 だが、刃先が食材に触れる寸前。

 私の右腕に巻き付いた「山椒の蔓」の幻影が、神経をチリチリと灼(や)いた。

 神経が、調理を要求している。

 細胞が、解体を渇望している。

 シュバッ。

 一瞬だった。

 葱は、自身の構造に沿って、最も効率的に、最も細胞を傷つけない角度で解体された。

 まな板の上には、宝石のように輝く薬味が山を成している。

 香り。

 それは以前の葱よりも遥かに鋭く、脳を直接刺激するような「揮発性の殺意」すら孕んでいた。

 それはもはや調味料ではない。

 吸い込むだけで意識を覚醒させ、同時に、神経を麻痺させる「毒」に近い何かだ。

「……おじさん、テレビ。変なこと言ってる」

 カウンター席で、湯気の立つ白飯を抱えていた少女が言った。

 彼女の名前はまだ聞いていない。

 いや、名前という概念さえ、あの地獄では意味をなさなかった。

 少女が指差した小型のブラウン管の中。

 ニュースキャスターが、困惑を隠せない表情で原稿を読んでいた。

『――続いてのニュースです。本日未明、市内の各地で原因不明の「隆起現象」が相次いでいます。』

『隆起したアスファルトの隙間からは、肉厚で赤みを帯びた植物のようなものが自生しており……』

『保健所は、これらへの接触を控えるよう注意を呼びかけています。』

 画面が切り替わり、現場の映像が映し出された。

 見覚えのある商店街の、裏路地。

 コンクリートを突き破って生えていたのは、植物ではなかった。

 それは、由良府の深層で見覚えのある「肉壁」の末端。

 あるいは、神の死骸からこぼれ落ちた、食欲の種子。

 その肉厚な「芽」は、カメラが回っている間も、ドクン、ドクンと心臓のように脈動していた。

 街全体が、一つの巨大な「胃袋」へと書き換えられようとしているのだ。

「……始まったか」

 私は、中華鍋に油を注いだ。

 カチ、カチ、カチ、ボォッ!

 青い炎が立ち上がり、鉄の肌をなめる。

 由良府は消滅したのではない。

 それは、私の店『翠嵐』を基点として。

 あるいは、あの爆発で開いた「穴」から。

 この平穏な街へと、じわじわと「味」を浸食し始めているのだ。

 かつて神が独占していた「究極の食」というシステムが。

 管理を失い、この現実という無防備な皿の上に溢れ出したのだ。

 店を一歩出れば、空気の質感が変わっているのが分かった。

 空は高いが、その雲の輪郭には、微かに黄金色の脂が浮いている。

 街を行き交う人々は、まだ気づいていない。

 自分たちが歩いている歩道の下で、神の残滓が呼吸をしていることに。

 アスファルトの温度が、かつてより数度高い。

 それは、地中の深部で「調理」が始まっている証左だ。

 そして、その残滓に引き寄せられた「新たな客人」たちが。

 影の中からこちらを伺っていることに。

 私は、店の暖簾(のれん)を出しに表へ出た。

 その時だ。

 路地裏から、じりじりと這い出てくるものがあった。

 一見すれば、それは普通の野良犬に見えただろう。

 だが、その背中には、まるで「豚の角煮」のような層を成した脂肪が露出していた。

 毛並みは、煮汁で煮込まれたかのように茶色く光り。

 目はなく、ただ巨大な「口」が腹部にまで裂けている。

「……ガ、……ル……」

 それは言葉にならない飢餓を漏らしながら、私を見上げた。

 その獣の喉の奥からは、かつて四川の山奥で嗅いだ「最高級の古酒」のような香りが漂っていた。

 それは、迷宮の法則に呑み込まれ、自らを食材へと進化させてしまった悲しき獣。

 いや、私ではなく。

 店の中から漂う「四川の香り」に、魂を引かれているのだ。

「……あいにくだが、開店はまだだぞ。それに」

 私は、右手の指を鳴らした。

 バチリ、と青い火花が指先で爆ぜる。

 それは調理の火ではなく、獲物を仕留めるための殺意の閃光。

「……野良の食材が、勝手に厨房を覗き込むんじゃねえ」

 異形の獣は、一瞬で恐怖に駆られ、闇へと逃げ去った。

 神を殺した男が放つ「捕食者のプレッシャー」に、本能が震えたのだろう。

 あるいは、私の背後に立っている、あの銀髪の少女が放つ「虚無の火」を、その獣は視たのかもしれない。

 店に戻ると、少女が葱のたっぷり乗った麻婆豆腐を、無心に頬張っていた。

 熱い。

 辛い。

 痺れる。

 彼女の額には珠のような汗が浮かび、頬は血色を取り戻して赤らんでいる。

 かつて由良府で見た、あの青白い不健康な肌は、もはやそこにはない。

「……おじさんの料理。……世界が混ざってから、もっと凄くなった」

「そうかよ。……神様の血ってのは、案外いい出汁になるらしいな」

 私は笑い、自分用の賄い(まかない)を作りはじめた。

 今日から、この店は普通の「中華料理店」ではなくなる。

 地獄と現世。

 その境界線上で、迷い込む異形を調理し。

 飢えた人々を「由良府の味」で繋ぎ止める、最後の砦だ。

 私は、カウンターの隅に置かれた、一冊の古いノートを開いた。

 そこには、これまで私が開発してきたレシピが書き連ねられている。

 だが、今の私なら、その全てのページを書き換えられる。

 神を解体したあの経験を。

 あの時感じた「存在の味」を。

 どうやって、この狭い皿の上に落とし込むか。

 既存の調味料では、もはや足りない。

 豆板醤の赤に、神の血の黄金を。

 山椒の黒に、星の残滓の銀を。

「……まずは、スープの取り方から見直すか」

 私は、店の地下にある貯蔵庫へ目を向けた。

 そこには、昨夜の爆発の際、無意識に持ち帰ってしまった「神の骨」が、未だに黄金の燐光を放ちながら鎮座している。

 それは、腐ることのない、究極の出汁。

 だが、その味はあまりにも「正解」すぎて、毒に等しい。

 昼時が近づくにつれ、店の周囲に不気味な気配が濃厚になっていった。

 街の風景は変わらない。

 サラリーマンが急ぎ足で通り過ぎ。

 学生たちが談笑しながら歩いている。

 だが、彼らの足元の「影」が、不自然に伸び、揺らめいていた。

 影が、意志を持っている。

 それは、現世の人間たちの「食欲」が、由良府のエネルギーに呼応して実体化し始めた兆候だった。

 カラン、コロン。

 店のドアが開いた。

 入ってきたのは、一人の男だった。

 仕立ての良いスーツを着ているが、その顔色は土色で。

 瞳の焦点が、定まっていない。

「……いらっしゃい」

 私は、声をかけた。

 男は、ふらふらとカウンターの端に座ると。

 掠れた声で、こう言った。

「……あの。……とにかく、……『濃い』ものを。……足りないんです。……何かが」

 彼の指先は、小刻みに震えていた。

 それは薬物の中毒症状ではなく、もっと深い、魂の「欠乏」だった。

 私は、男の背後に憑いている「影」を見た。

 それは、由良府の美食家たちの残響。

 神の食事を一口だけ舐めてしまい、永遠に満たされない飢えを抱えた亡霊。

 その亡霊が、男の生命力を「調味料」として啜り上げている。

 この男は、食えば食うほど、内側から空っぽになっていくのだ。

「……ああ、分かった。……おあつらえ向きのレシピがある」

 私は、秘蔵の醤(ジャン)を取り出した。

 それは、由良府の銀の砂漠で見つけた「英雄の骨」を粉末にし。

 四川の唐辛子と、少女の炎で三日三晩煮詰めたもの。

 名前はまだない。

 強いて呼ぶなら、『断罪の紅油』。

 それは、食した者の「未練」を焼き切り、強制的に「現在」へと引き戻すための、劇薬。

 調理が始まる。

 炎は、コンロを越えて天井にまで届かんとする勢いで荒れ狂う。

 だが、私はそれを完璧に統御していた。

 鍋の中で、肉と、野菜と、異界の調味料が、壮絶な殺し合いを演じる。

 衝突。

 融合。

 昇華。

 バチバチ、と火花が散るたびに、現実の次元がわずかに歪む。

 立ち昇る煙は、もはや料理の匂いではない。

 それは、魂を根こそぎ揺さぶる「呼び声」だ。

 カウンターの男が、びくりと身体を震わせた。

 彼の背後の亡霊が、そのあまりにも強烈な「生の圧力」に耐えきれず。

 霧散し、悲鳴を上げて消えていく。

「……お待たせ。……『特製・激辛肉豆腐』だ」

 男の前に、真っ赤な皿が置かれた。

 そこには、現実世界の素材を使いながらも。

 由良府の理によって再構築された、一つの「宇宙」が具現化していた。

 豆腐の白、肉の褐色、そしてすべてを覆い尽くす紅の嵐。

 男は、震える手で蓮華(れんげ)を取り。

 一口、その赤い熱を口に運んだ。

 瞬間。

 彼の瞳に、猛烈な「光」が戻った。

「……っ! ……あ……あああああ!」

 彼は叫んだ。

 それは、恐怖の叫びではなく。

 自らの存在が、再びこの世界に「繋ぎ止められた」ことへの驚喜。

 汗が、彼の土色の顔を洗い流していく。

 彼は無我夢中で食べ続けた。

 汗と涙が入り混じり、鼻水さえ垂らしながら、彼は「生きている」ことを噛み締めていた。

 一皿を平らげる頃には、彼のスーツはびっしょりと濡れていたが。

 その表情は、先ほどとは別人のように清々しいものだった。

「……ごちそうさまでした。……私、……何を迷っていたんだろう」

 男は、深々と頭を下げて店を出て行った。

 彼の影は、もう不自然に揺れてはいない。

 しっかりと地面に定着し、一人の人間としての重みを取り戻していた。

「……おじさん。……今の人、美味しかったって」

 少女が、皿を下げながら言った。

「ああ。……だが、これからが本番だ」

 私は、店の外の空を仰いだ。

 黄金の雲が、さらに大きく、重く。

 この街を覆い尽くそうとしている。

 雲の切れ間から、時折、巨大な「銀の食器」が空を薙ぐような幻影が見えた。

 由良府の門が開いたことで、世界中には「神の残り香」を求めて。

 さらなる上位の存在、あるいは、忘れ去られた古の神々が。

 「美食」の名を冠した略奪を開始するだろう。

 奴らにとって、この世界は、いまだ手つかずの「巨大な市場(マルシェ)」に過ぎない。

「小娘。……準備はいいか?」

 私は、腰の『星天柳刃』を軽く叩いた。

 由良府は終わっていない。

 むしろ、世界という名の「巨大な中華鍋」の中で。

 新たな調理が始まったばかりなのだ。

 次は、何を解体し、何を煮込むか。

 私の右腕が、歓喜に震えていた。

「……私は、いつでもお腹空いてるよ」

 少女は、不敵に微笑んだ。

 その瞳の奥、黒い太陽が、再び燃え上がるのを私は見た。

 カラン、コロン。

 次の客が、入ってくる。

 その客は、人間ではない。

 全身を白銀の鎧で包み、その隙間から「神の血」の蒸気を噴き出させている。

 身体中に「銀の匙」を突き刺した、由良府の亡霊騎士。

 奴は、店内の香りを一つ嗅ぎ、不快そうに剣を抜いた。

「……貴様か。主を屠り、禁じられた味を振るうという野蛮な料理人は」

 私は、ニヤリと笑い。

 最強の火力を叩き込むべく、鍋を振った。

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