第十話 地獄の厨房、解体される世界。
音が、消えた。
神の象徴であった銀の匙を叩き割り、その瞳に概念の包丁を突き立てた瞬間。
世界は白濁した虚無へと塗りつぶされた。
それは爆発というにはあまりにも静かで。
終焉というにはあまりにも冷徹な。
理(ことわり)の崩壊だった。
……ドサリ、と重い音がした。
自分の膝が、砕け散った迷宮の床に触れた音だと気づくまでに、数秒の時間を要した。
右腕が、熱い。
いや、熱いという感覚さえ、すでに神経の焦げ跡をなぞる残響に過ぎない。
牛刀と化した私の腕は、神の硬度を上書きするために自らの全存在を「火力」へと転換し。
今はただの焼け焦げた鉄屑のような、無惨な炭塊に成り果てていた。
「……はぁ、……はぁ、……っ」
肺に吸い込む空気は、焦げた唐辛子の粒子と、蒸発した神の血が混ざり合い。
呼吸をするたびに内臓を内側からヤスリで削るような激痛を走らせる。
だが、その痛みが愛おしかった。
痛覚があるということは、まだ私が「料理人」として、この地獄に存在している証拠だからだ。
「……おじさん。……生きてる?」
銀色の髪を黄金の返り血で汚した少女が、震える手で私の肩に触れた。
彼女の瞳の奥、かつては虚無の黒が沈んでいたそこには。
今や「神を食らった」ことによる、禍々しくも神々しい光が宿っている。
「死んでたまるか。……まだ、何も食っちゃいないんだぞ」
私は、喉元までせり上がった鉄錆の味を強引に飲み下した。
「あんなスカスカな高次元の味を、最後に食って死ねるかよ」
「……俺はもっと、泥臭くて、痺れて、腹の底から命が沸き立つようなもんを食うまでは」
「地獄にだって行けやしない」
「神様よ、お前の味は……デザートにもなりゃしねえ」
由良府が、泣いていた。
神という絶対的な管理者を失った迷宮は、自律的に存在を維持しようとして、狂ったように細胞分裂を繰り返している。
肉壁はドロドロに溶け落ち、その隙間からは、これまで見たこともない異形の臓器が露出し、脈動を始めた。
床からは無数の「舌」のような触手が這い出し、神の不在を嘆くように虚空を舐め回している。
その舌の一つが、私の足元に流れる神の血を啜った瞬間。
鮮やかな紅色に変色し、そのまま「自らを調理」し始めた。
じゅうじゅうと音を立てて、その触手は自身の熱で自らを焼き、芳醇な肉の香りを漂わせる。
「……見てろ、小娘。神がいなくなった後の迷宮は、自らを『供物』として差し出し始めたんだ」
「管理を失った食欲が、自分自身を喰らい尽くそうとしている」
瓦礫の山からは、生き残った美食家たちが這い出していた。
だが、彼らの瞳にはもはや理性の光はない。
神の血を吸い、迷宮の変異に当てられた彼らは、自らもまた「食材」へと変質していく恐怖に。
ただ獣のような咆哮を上げている。
一人の美食家が、自身の腕を眺めて絶叫した。
彼の腕は、最高級の霜降り肉のように美しいサシが入り、そこから極上の脂が滴っていた。
彼は飢えと恐怖の板挟みになり、ついに自らの指を噛み砕き。
その「旨さ」に涙を流しながら笑い始めた。
「……地獄だな。だが、料理人にとっては、これ以上ない仕入れ先だ」
私は震える左手で、腰のポーチから一掴みの「山椒の種」を取り出した。
それは、現実の世界で私が最後に育てていた、魂の欠片。
私はそれを、地面に溢れた神の血溜まりへと叩きつけた。
ジュウ、と音を立てて種が弾ける。
神の血という究極の肥料を吸った山椒は、一瞬で芽吹き。
鋼のようなトゲを持つ巨大な蔓へと成長した。
蔓は生き物のようにのたうち回り、迫り来る「舌」の触手や、正気を失った美食家たちを次々と絡め取り。
その痺れるような香気で、迷宮の狂乱を強引に鎮めていく。
「……麻(マー)だ。痺れさせて、一度眠らせる」
「これ以上の自己解体は、鮮度を落とすだけだからな」
私は、自らの右腕に、その山椒の蔓を巻き付けた。
トゲが炭化した皮膚を貫き、神経に直接「痺れ」を注入する。
激痛が脳を白く染めるが、同時に。
死んでいた右腕に無理やり「電気」が走り、指先がピクリと動いた。
私たちは、さらに地下深くへと続く螺旋階段を下り始めた。
由良府の構造は、神が死んだことでその「深層」を隠しきれなくなっていた。
これまで私たちが見てきたのは、あくまで神の「客間」に過ぎない。
この下に広がるのは、由良府の胃袋であり、内臓であり。
すべての「味」が生成される原初の工場だ。
階段を下りるたび、重力が増していくのを感じた。
一段下りるごとに、肩に数キロの肉が乗せられるような、物理的な質量。
それはこの場所に堆積した、数千年にわたる「食われた者たちの未練」の重さだった。
「……おじさん、足が重いよ。何かに、引っ張られてるみたい」
「……構うな。それも全部、スパイスの重みだと思え」
「……重厚な味にするには、このくらいの圧(プレッシャー)が必要なんだ」
壁面には、古の料理人たちが遺した「血のレシピ」が浮き彫りになっていた。
彼らは神に仕えながらも、密かに神を出し抜くための調理法を模索していたのだ。
ある者は毒を盛り、ある者は自身の寿命を旨味に変えた。
その失敗の歴史が、この地下深くには澱(おり)のように溜まっている。
階段を下りきった先に広がっていたのは、見渡す限りの「銀の砂漠」だった。
いや、それは砂ではない。
すべては、神に捧げられ、そして神に飽きられて捨てられた。
数千年の「文明の残りカス」だ。
銀色の砂の山には、宝石のような輝きを放つ骨や、かつては英雄が振るったであろう剣の残骸。
そして名もなき民の祈りが結晶化した石が、無造作に積み上げられている。
私はその砂を一掴みし、指の間からこぼし落とした。
砂の一つひとつが、誰かの人生の一片だった。
それを神は「ふりかけ」程度にしか思っていなかったのだ。
「……おじさん、ここ、凄く寂しい匂いがする」
少女が鼻をつまんだ。
確かに。そこには、腐敗さえ許されなかった、永遠の「退屈」が充満していた。
「……ああ。味のしねえ、砂を噛むような世界だ」
「……なら、俺たちが『火』を入れてやるしかねえな」
砂漠の中央に、巨大な「黒い塔」が立っていた。
それは塔ではなく、巨大な「煙突」だった。
由良府という迷宮で煮炊きされた、すべての「欲望の煙」を、異次元へと逃がすための排気口。
私は、その煙突の根元に、少女の漆黒の炎を叩きつけるよう指示した。
「……いいの? これを焼いたら、全部壊れちゃうよ」
「壊すんじゃない。……『着火』するんだよ」
「溜まった煤(すす)を燃やし尽くして、新しい火種を作るんだ」
少女が両手を広げ、彼女の全存在を賭した虚無の炎が、煙突の底部へと吸い込まれていく。
瞬間、煙突が咆哮を上げた。
何万年も排出され続けていた「欲望の煤」に火がつき、由良府の最深部で巨大な「火柱」が巻き起こる。
銀色の砂漠が、その熱で赤く溶け始めた。
文明のカスが、英雄の剣が、名もなき民の祈りが、一つの巨大な「るつぼ」の中で混ざり合う。
その光景は、さながら天地開闢の瞬間だった。
私は、その溶岩のような熱の海に向かって、一振りの包丁を投げ入れた。
それは神との戦いで折れ、炭化した、私の相棒。
「……再構築(リビルド)だ。神の素材を使って、俺だけの『道具』を打ち直す」
溶岩の中から、青白い光を放つ一本の「包丁」が、ゆっくりと浮上してきた。
刃紋には銀河の渦が刻まれ、柄には少女の黒い炎が宿っている。
私は、再生し始めた右腕で、その包丁を掴み取った。
その瞬間、私の頭の中に、由良府の全情報が流れ込んできた。
この迷宮は、神が作った「レストラン」ではなかった。
それは、神がいつか来るであろう「真の飢餓」に備えて作った、巨大な「非常食貯蔵庫」だったのだ。
そして、その非常食の中身とは……。
「……そうか。俺たち自身が、熟成されるのを待たされていたわけか」
私は、新たな包丁を振るい、空間そのものを切り裂いた。
裂け目から溢れ出したのは、由良府の「裏側」に隠されていた、膨大な数の「命の苗床」。
そこには、まだ人間としての形さえ持たない、純粋な「魂の原形質」が、無数の繭となって吊り下げられていた。
神は、ここで「新しい味」を人工的に培養していたのだ。
それは、人間の喜びを抽出し、悲しみを濾過し、純粋な「快楽」だけを煮詰めるための実験場。
「……不愉快だな。料理を弄ぶ奴は、神だろうが許さねえ」
私は、繭の一つに近づき、包丁の先で優しく触れた。
繭が震え、中から一人の赤ん坊のような光が溢れ出す。
それは、まだ何者でもない、純粋な「空腹」の意思。
私は、その光に向かって、自らの「四川の心」を分け与えた。
熱く、辛く、痺れ、そして何よりも「生きる」ことを肯定する、あの暴力的なまでの旨味。
光は、私の味を吸い込み、力強い産声を上げた。
その声が、静寂に包まれていた由良府の深層を揺らし、眠っていた無数の繭を次々と目覚めさせていく。
「……おじさん! 世界が、……歌ってる!」
少女が笑った。
繭から解き放たれた光たちが、銀色の砂漠を駆け巡り、灰色の世界に鮮やかな色彩を塗り込んでいく。
それは、単一の味しか知らなかった世界が、数万の「スパイス」を得て爆発した瞬間だった。
しかし、その光の乱舞を遮るように、砂漠の地平線から巨大な「影」が立ち上がった。
それは、由良府の真の守護者。
神の食卓からこぼれた「残り香」を糧にして育った、実体を持たない「飢餓の精霊」だった。
それは巨大な黒い雲のような姿をしながら、数千の「口」を持ち、周囲の光を次々と吸い込んでいく。
「……チッ。食後の片付けを邪魔する奴がいるな」
私は包丁を構え直した。
新たな包丁『星天柳刃』が、私の鼓動に呼応して青い燐光を放つ。
「小娘、火力を維持しろ。あいつは、……この世界の『冷めた空気』そのものだ」
「芯まで熱を通さねえと、不味くて食えねえ」
精霊が咆哮し、極寒の突風が吹き荒れる。
それは魂を凍らせ、存在そのものを「鮮度落ち」させる呪いの風。
だが、私はその風の中に、あえて一歩踏み出した。
私の右腕が、再び異形へと変質していく。
山椒の蔓が血管と融合し、脈動するたびに火花が散る。
私は包丁を垂直に振り下ろし、迫り来る寒風を「一刀両断」した。
「……四川の熱は、絶対零度だって焼き切るんだよ!」
私は精霊の懐に飛び込み、その無数の「口」の一つに。
左手で掴み取った「沸騰する銀の砂」を叩き込んだ。
ドォォォォォォォォォォォォン……!
精霊の内側で、欲望の煤と四川の火が爆発する。
黒い雲は一瞬で黄金色に染まり、断末魔の叫びを上げながら。
美しい「金の塩」となって砂漠に降り注いだ。
沈黙が戻った。
銀の砂漠は、いまや金の塩と四川の情熱が混ざり合った。
この世で最も贅沢な「調味料の海」へと変わっていた。
「……おじさん、見て。迷宮が、……開いていくよ」
少女の指差す先、煙突の頂上が崩れ落ち、そこから「地上の光」が差し込んできた。
由良府という閉じた円環が、ついについに、現実の世界へと繋がったのだ。
私たちの足元が、猛烈な勢いで上昇を始める。
崩落する壁、降り注ぐ神の血、舞い上がる銀の砂。
それらすべてを巻き込みながら、由良府は一つの巨大な「意思」となって。
地上へと突き抜けようとしていた。
「……おい、小娘。しっかり捕まってろ」
「……これから、世界中に『四川の風』を吹かせてやる」
私たちは、光の渦に包まれながら、暗黒の深淵を脱出した。
……気がつくと、私は見覚えのある「天井」を見上げていた。
排気ガスの匂い。
遠くで鳴るクラクション。
そして、古びた換気扇が不規則に回る、あの安らぐノイズ。
そこは、私の店『翠嵐』の厨房だった。
「……戻って、きたのか?」
私は、自らの手を見た。
右腕は、焦げた跡一つなく。
しかしその皮膚の下には、あの銀色の神経が網目状に走り。
山椒のトゲのような脈動を秘めているのが見えた。
手には、あの銀河の刃紋を持つ包丁が。
冷たく、重く、現実のものとして握られている。
隣を見れば、少女がカウンター席に座り、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
彼女の銀髪は元の色に戻っているが、その瞳には。
今も由良府の深層で見た「星の火」が灯っている。
「……おじさん。……お腹、空いた」
彼女が、静かに言った。
その声は、もはや神の呪いに怯える少女のものではなく。
新しい世界を貪欲に楽しもうとする「一人の人間」のものだった。
私は、黙ってコンロに火をつけた。
中華鍋が、カチカチという音と共に、青白い炎に包まれる。
由良府は消えていない。
私の店、私の包丁、そして私の肉体の中に、あの地獄は確実に息づいている。
神を殺し、解体し、再定義したあの経験は。
今や私の一部となって、次なる一皿を求めて咆哮している。
私は、冷蔵庫から一塊の肉を取り出した。
「……いいぜ。地獄を食らい尽くした後の、最初の一皿だ。心して食え」
包丁を走らせる。
肉は、刃が触れる前に、自ら解体されることを悦ぶように。
均一な厚みでスライスされていく。
豆板醤が油の中で爆ぜ、香ばしい煙が厨房を満たす。
それは、神さえも手に入れられなかった。
人間という名の「業」が作り出す、究極の麻婆豆腐。
店を一歩出れば、そこにはまだ、由良府の影響で変容しつつある世界が広がっている。
空には時折、黄金の雲が走り、路地裏からは異界の香気が漂ってくる。
だが、今の私に迷いはない。
私は料理人だ。
たとえ世界が解体されようと、再構築されようと。
目の前の客を満足させるために、この火を絶やすことはない。
「……いただきます」
少女が、出来立ての料理を口に運ぶ。
その瞬間に見せた彼女の笑顔こそが。
私が神を殺してまで手に入れたかった「最高のスパイス」だった。
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