第九話 天の匙を叩き割れ、狂乱の神前調理

衝突の瞬間、音は消えた。

 私の放った概念の刃と、天より降り注ぐ「神の匙」が接触した点から、白濁した光が溢れ出す。

 それは色という概念さえ持たない、純粋な「拒絶」の光。

 由良府の全次元が、その一点に集中する圧力に耐えきれず、ガラスが砕けるような悲鳴を上げている。

 私の腕の中で、少女が耳を塞いで絶叫していた。

 だが、その声さえも光に呑み込まれ、届かない。

 私の右腕、牛刀と化した鋼は、神の食器に触れた瞬間から、凄まじい「摩擦熱」を発していた。

 熱い。

 いや、熱いという言葉では足りない。

 私の魂という名の「油脂」が、強火にかけられた中華鍋の中で、ジュウジュウと音を立てて蒸発していく感覚。

 血管を流れる血は沸騰し、皮膚の隙間から真紅の蒸気が吹き出す。

 だが、私は笑っていた。

 視界が白く焼き切れる寸前、私は確かに「視た」のだ。

「……見つけたぞ」

「神様。お前の『味』の、急所を」

 由良府という地獄を統べる「真の主」。

 その正体は、高次元に座する飽食の神。

 彼らにとって、この迷宮を蠢く美食家たちも、そしてそれらを調理する料理人も、ただの「前菜」に過ぎない。

 何千、何万という人間の欲望を煮込み、熟成させ、最高のタイミングで掬い上げる。

 そのための、冷徹なる銀の匙。

 だが、その完璧な食器に、今、明らかな「傷」が入った。

 私の百年の豆板醤、そして少女が解き放った漆黒の虚無。

 相反する二つの極みが、神の無機質な秩序を、内側から食い破ったのだ。

 ミ、シ……。

 不気味な亀裂が、巨大な銀の表面を走る。

 そこから漏れ出したのは、芳醇すぎるほどの、しかし死を予感させる「香気」。

「……おじさん! スプーンが、割れる!」

 少女が目を見開く。

「割れるんじゃない。解体(おろし)てるんだよ」

 私は、砕け散り始めた匙の破片を、炭化した「左手」で強引に掴み取った。

 神性の破片は、触れるだけで細胞を爆発させる劇薬。

 私の五指は瞬時に焼け落ち、剥き出しになった骨が銀色に染まる。

 激痛が脳を突き抜け、脊髄を駆け巡る。

 だが、止まらない。

 私は、その灼熱の欠片を、自らの口に放り込んだ。

「……不味いな」

 血の味が混じった神の欠片を、私は奥歯が砕けるほどに咀嚼した。

「高貴すぎて、深みがない。何万年も同じものを食い続けてきた、退屈な味だ」

 私は、自身の内側にある「料理人の本能」を最大化させる。

 目の前の神の匙を、ただの食器としてではなく、一つの「食材」として再定義する。

 硬すぎるなら、叩き割って叩き潰せ。

 淡白すぎるなら、己の血で味をつけろ。

 私は、少女を地面へと突き放した。

「小娘! その黒い炎を、もっと熾せ!」

「この由良府そのものを、俺の『中華鍋』にするぞ!」

 少女は一瞬、呆然とした。

 だが、私の狂気に触れた彼女の瞳に、禍々しい喜びの色が広がる。

「……いいよ。おじさん。全部、焼いちゃおう」

 彼女が両手を広げると、迷宮の肉壁が激しく脈動し始めた。

 少女の虚無が、迷宮の全エネルギーを強制的に「熱」へと変換する。

 床が赤熱し、岩が溶け、由良府そのものが巨大な燃焼室へと変貌していく。

 吹き上がる漆黒の炎は、天へと届き、神の匙を包み込んだ。

 それは、究極の「下処理」だった。

 神性を、人間が扱えるレベルまで引きずり落とすための、冒涜的な火入れ。

 空から、苦悶とも取れる「震動」が響く。

 神が、自らの獲物に焼かれるという事態に、初めて動揺したのだ。

 私は、溶け落ちていく神の匙の「雫」を、自身の包丁の腹で受け止めた。

 銀色の液体は、私の柳刃と混ざり合い、七色に輝く奇妙な「餡(あん)」へと姿を変える。

 その餡は、触れるものすべてを腐食させ、同時に再生させるという、矛盾した命の塊。

「さあ……メインディッシュの仕上げだ」

 私は、空中に浮遊する無数の美食家たちの魂を、強引にその餡の中に絡め取った。

 彼らの欲望。

 彼らの後悔。

 彼らの最後の一滴の生命力。

 それら全てを、四川の猛火で一気に煮詰めていく。

 立ち昇る香りは、もはや食欲をそそるものではなかった。

 それは、嗅いだだけで理性が崩壊し、狂気に陥るような、圧倒的な「生の咆哮」。

「神様よ。お前はいつも、上から掬うだけだったな」

 私は、全身から吹き出す血をスパイス代わりに、その餡を天へと向かって放り投げた。

「たまには、下から突き上げられる『毒』の味を、堪能していけ!」

 放たれた餡は、一筋の紅い流星となって、雲の向こうにある神の「口」へと突き刺さった。

 ドォォォォォォォォォォォォン……!

 由良府の全土を震撼させる、文字通りの天地崩壊。

 天が裂けた。

 そこから溢れ出したのは、黄金の血。

 神が、嘔吐したのだ。

 人間の、あまりにも泥臭く、あまりにも執念深い、四川の味に耐えきれずに。

「……やったの?」

 少女が、膝をつきながら空を見上げる。

 だが、私は首を振った。

 空から降ってくるのは、神の死体ではない。

 それは、怒り狂った神が放つ、さらなる「捕食の軍勢」。

 雲を割り、無数の小さな「銀の箸」が、雨のように降り注いできたのだ。

 一本一本が、高層ビルを貫くほどの威力を持った、殺意の礫。

「ハハッ……お替わりが来たぞ。歓迎されてるじゃないか」

 私は、もはや右腕の感覚がない。

 筋肉は千切れ、神経は焼き切れ、ただ意志という名の見えない糸だけで繋がっている。

 視界も、自分の血で赤く染まっている。

 だが、包丁を握る左手だけは、岩のように固く固定されていた。

 降り注ぐ箸の雨を、私は概念の包丁で弾き飛ばす。

 一振りごとに、空間が火花を散らし、私の寿命が削られていく。

 火花が散るたび、周囲の「時間」が歪む。

 一瞬が永遠に引き延ばされ、一振りの包丁捌きに、数年分の修練が凝縮される。

 だが、私の心はかつてないほどに澄み渡っていた。

 現代の四川の厨房で、安穏と鍋を振っていた頃には決して辿り着けなかった、究極の「調理」。

 由良府。

 この呪われた異界こそが、私にとっての「聖域」だったのだ。

 私は、少女を肩に乗せ、再び地を蹴った。

 目標は、天の裂け目。

 神が鎮座する、その食卓そのもの。

「行くぞ。次は、デザートの準備だ!」

 跳躍する私たちの視界が、情報の洪水に飲み込まれる。

 神の血が、天から雨となって降り注ぎ、由良府の呪われた大地を塗り替えていく。

 黄金の液体が肉壁に触れるたび、そこから奇妙な「変異」が芽吹いた。

 だが、私はその光景を、空中で回転しながら見つめていた。

「……綺麗なもんだな。だが、これも全部『食材』だ」

 私は、降り注ぐ神の箸を足場にした。

 一本の箸に着地し、その反動でさらに高みへと加速する。

 少女の漆黒の炎が、私の背中から翼のように広がる。

 それは、地獄から天へと昇る、一本の紅い龍。

「喰らえ……! 翠嵐の食譜、奥義……!」

 私の叫びと共に、世界が静止した。

 包丁の先が、神の瞳に触れる、その刹那。

 私の脳内に、神が数億年かけて積み上げてきた「美食の記憶」が逆流してきた。

 星の輝きを煮込んだスープ。

 銀河の回転を模したパイ生地。

 文明の滅亡をスパイスにしたロースト。

 あまりにも壮大で、あまりにも冷酷な、神のレシピ。

 だが、そのどれもが、今の私には「味の抜けたガム」のように感じられた。

 そこには、一皿のために指を切り、客の笑顔のために命を削る、あの「泥臭い情熱」が欠けていたからだ。

「お前は、……不味すぎるんだよ!」

 包丁が神の瞳を貫通した瞬間、私は見た。

 神の瞳の奥に広がる、果てしない「飢え」の深淵を。

 彼らもまた、食っても食っても満たされない、哀れな捕食者に過ぎなかったのだ。

 閃光が、由良府を包み込んだ。

 私は、光の中で少女を強く抱きしめた。

 私たちの身体が、光の粒子となって分解され、再び構築されていく。

 由良府の構造が、根底から書き換えられていく。

 胃袋は、厨房へ。

 捕食は、共鳴へ。

 絶望は、……空腹へ。

 ……気がつくと、私たちは、崩壊した迷宮の頂に立っていた。

 神は消えていた。

 代わりに、そこには一本の、焼け焦げた「箸」だけが転がっていた。

 私は、膝から崩れ落ちた。

 全身が、もう動かない。

 肺胞は焼け、呼吸をするたびに血の泡が口から溢れる。

 だが、私は空を見上げた。

 由良府の空が、少しずつ、明け方の四川の色に近づいていく。

「……おじさん。勝ったの?」

 少女が、私の隣で座り込む。

「勝負は、まだついてないさ」

 私は、乾いた喉で笑った。

「デザートが、まだ出てきていないからな」

 迷宮の底から、新たな脈動が聞こえてくる。

 神を追い払ったところで、この由良府という「場」そのものが消えるわけではない。

 むしろ、主を失ったことで、この地獄はさらなる混沌へと突き進もうとしていた。

 私は、震える手で懐を探り、一本の小さな「唐辛子」を取り出した。

 それは、この由良府へ来る前に、自分の店で大切に育てていたもの。

「さあ……お替わりだ」

 私は、その唐辛子を口に放り込み、ガリリと噛み砕いた。

 走る激痛。

 蘇る意識。

 辛味が脳幹を突き刺し、強制的に肉体を再起動させる。

 私は、少女の手を借りて、再び立ち上がった。

 神を撃退した料理人は、今、真の意味で「地獄の料理長」への道を歩み始める。

 由良府は今や、主を失った巨大な調理場。

 神の血を吸った大地からは、見たこともないような不気味な植物や、飢えた美食家の残党たちが、新たな「食の秩序」を求めて蠢いている。

 だが、それでいい。

 それこそが、料理人が最も腕を振るえる「戦場」なのだから。

「小娘。まだ、ついてこれるか?」

「……デザート、楽しみにしてる」

 私たちは、崩れゆく迷宮の奥底へと、再び足を踏み入れた。

 次なる食材は、この世界そのもの。

 そして、神さえも逃げ出した、この「空虚」な地獄そのものを、俺が最高に旨い一皿に作り変えてやる。

 遠くで、また新しい「空腹」の鳴き声が聞こえた。

 料理人の夜は、まだ明けない。

 鍋の底は、まだ、熱いままだ。

 私たちは暗い階段を下りていく。

 かつて美食家たちが優雅に晩餐を楽しんでいた広間は、今は瓦礫の山と化し、そこには神の血によって変異した「何か」が、粘り気のある触手を伸ばしている。

 それは植物のようでもあり、肉のようでもある。

 壁一面を覆い尽くすその生命体は、私たちが近づくと、不気味に震え、甘い蜜のような汁を滴らせた。

「……おじさん。これ、美味しそう」

 少女がその汁を指ですくい、舐めようとする。

「待て。まだ火が入っていない」

 私は彼女の手を止め、包丁の先でその生命体の「核」を優しく突いた。

 瞬間、激しい熱風が吹き抜け、生命体は真っ赤に染まった。

 これは、神が残した「種」。

 この地獄を、さらに残酷な美食の庭園へと変えようとする、神の執念の残り香。

「だが、どんな理不尽な食材も、俺の包丁からは逃げられない」

 私は、自身の左腕の傷口から流れる血を、その生命体へと振りかけた。

 料理人の血。

 それは、数多のスパイスと、絶え間ない熱意によって鍛え上げられた、究極の「呼び塩」。

 私の血が触れた瞬間、生命体は苦悶の叫びを上げ、その姿を劇的に変えていく。

 醜悪な触手は、美しい緑色の「皮」へと収束し。

 不気味な震動は、心地よい「歯応え」へと転換される。

 それは、この由良府というシステムそのものを、私の意志で「調律」している証。

「……さあ、見せてみろ。お前の、本当の味を」

 私は、その中心部を一気に切り裂いた。

 中から溢れ出したのは、エメラルド色の輝きを放つ、透き通ったスープ。

 それは神の血が、私の執念によって完全に「浄化」された姿。

 少女は、そのスープを両手で受け止め、一気に飲み干した。

「……あつい。でも、……凄く、優しい」

 彼女の瞳に、再び光が戻る。

 透き通っていた彼女の指先が、確かな肉体としての密度を取り戻していく。

 私たちは、こうして「食う」ことでしか、この地獄を生き抜けない。

 神を食らい、迷宮を食らい、そして、自らの運命を食らい尽くす。

 私は、空になった少女の器を手に取り、静かに微笑んだ。

「お替わりが欲しければ、さらに奥へ行くぞ」

「……うん。どこまでも、ついていくよ。おじさんの、料理があるところまで」

 崩壊し続ける由良府。

 だが、その瓦礫の中で、私たちは新たな「火」を見つけた。

 神さえも予想しなかった、人間という名の料理人が引き起こす、終わりのない晩餐。

 それは、神への宣戦布告であり。

 そして、新たな地獄の始まりを告げる、銅鑼の音だった。

 私は、折れた包丁を握り直し、さらなる深淵へと歩み出した。

 そこには、まだ誰も見たことのない「食材」たちが、私たちの到着を待っているはずだ。

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