第八話 無垢なる捕食者、終わらぬ晩餐
少女が銀の皿から立ち上がった瞬間、迷宮を支配していた全ての物理法則が、沸騰した油の中に落とされた氷のように、激しく音を立てて溶解を始めた。
それまで鼻を突いていた、焦げ付いたスープの死臭。
狂い果てた美食家たちが撒き散らした、生々しい血生臭さ。
それらがまるで真空の巨大な口に吸い込まれるように、一瞬にしてこの世から消え去った。
代わりに満ちたのは、生まれたての赤子の肌のような香り。
あるいは死後数秒の、まだ魂の余熱が残る肉体が放つような、あまりにも清浄で、それゆえに脳髄の奥を麻痺させる「絶対的な無臭」の香りだった。
「……おじさん、動かないの?」
少女が首を傾げる。
「私は、もうお腹が空きすぎて、背中とお腹がくっついちゃいそうだよ」
少女は一歩、また一歩と、濡れた粘膜の床を裸足で踏みしめて近づいてくる。
現代のビル群が落とす深い影、都会の雑踏の裂け目から繋がるこの異界「由良府」において、目の前の少女こそが全ての「食」の頂点。
そして、この世の全ての飢餓の源流。
彼女の小さな足跡がついた場所から、由良府の熱い大地は急速に白濁していく。
活力を吸い取られて、カサカサに干からびていく。
彼女はただそこに存在しているだけで、周囲のあらゆるエネルギーを奪う。
時間を。
概念を。
存在の熱量を。
無意識のうちに「最高の栄養」として強奪し続けているのだ。
「……来い。お前を調理するのが、私の料理人としての、新たな試練らしいな」
私は、もはや自分のものとは思えない重さになった右腕を、ゆっくりと掲げた。
牛刀と化した刃は、彼女が近づくにつれ、小刻みに震え、金属特有の冷たい悲鳴のような鳴き声を上げている。
それは、かつて数多の獣を解体してきた誇り高き道具の震えではない。
ただ、目の前の圧倒的な「捕食者」に呑み込まれるのを待つ家畜が抱く、抗いようのない原初的な恐怖の震動だった。
少女は、私の刃の届く、あと一歩という距離でぴたりと足を止めた。
彼女の瞳を間近で覗き込んだ瞬間、私は自分の意識が、光の届かぬ巨大な深海へ引きずり込まれるような凄絶な錯覚に陥った。
そこには、慈悲も、悪意も、憎しみもなかった。
ただ、無限に広がる絶望的な「空虚」。
それを一秒でも早く埋めようとする、底知れぬ「原初的な食欲」だけが、銀河の渦のように荒れ狂っていた。
「おじさんの手、凄く美味しそう。鉄の味がして、四川の火の色がして……」
少女が細い指を伸ばし、私の右腕の「刃」に愛おしげに触れようとした。
「……ねえ、少しだけ、私に味見させて?」
「させるか!」
私は反射的に刃を振り下ろした。
空を切り裂き、因果を断つ、四川の猛火を纏った一閃。
しかし、私の自慢の柳刃は、少女の柔らかな喉元に届く数ミリ手前で、物理的な抵抗ではなく、絶対的な「消失」に阻まれた。
いや、阻まれたのではない。
私の刃が、彼女の周囲に漂う「圧倒的な飢餓の磁場」に一方的に食われ、質量を失って霧散し始めたのだ。
「ひ……っ!」
鋼が、少女の温もりに触れる前に、ボロボロと崩れ、溶けていく。
かつて四川の名工が魂を削って鍛え上げた名刀が、彼女の前では、ただの「一口サイズの飴細工」のように脆く、儚い存在に成り下がっていた。
「ダメだよ、おじさん。そんなに急いだら、素材の味が壊れちゃう」
少女はクスクスと、鈴を転がすような、あまりにも澄んだ声で笑った。
「料理はもっと、丁寧に、優しく壊さなきゃ」
その笑い声が耳の奥に届くたび、私の脳裏から、大切な記憶の断片が剥がれ落ちる。
剥離していく。
――幼い頃、母が作ってくれた、湯気の立つ白い飯の、甘い香り。
――南江の河原で、仲間と肩を並べて食べた、川魚の泥臭くも愛おしい苦味。
――初めて客に「旨い」と言われた時の、全身の穴から汗が吹き出すような高揚。
それらの「暖かな人生の味」が、少女の笑い声という名の強力な消化液によって瞬時に溶かされた。
そして、彼女の乾いた喉へと吸い込まれていく。
彼女は物理的な肉体だけでなく、その人間が一生をかけて積み上げた「記憶という名の出汁」を啜る、概念的な神格捕食者だったのだ。
私は、崩れ落ちそうになる精神の輪郭を、自らの舌を噛み切る激痛で繋ぎ止めた。
もはや右腕の刃は半分以上が食い荒らされ、歪な鉄の塊と化している。
だが。
私にはまだ「熱」がある。
王を爆散させ、由良府の静寂を焼き払った、あの泥臭くも焦げ付くような執念がある。
四川の料理人としての、救いのない執念が。
「料理人は……いつだって、最後は一人だ!」
私は叫んだ。
「客が神だろうが、ただの空腹のバケモノだろうが、納得のいく一皿を出すまでは……」
「地獄の門の前だって、包丁は置かないんだよ!」
私は、自分自身の魂という名の油脂を「薪」にした。
全身の血管が、許容量を超えた熱量で沸騰し、皮膚が内側からの圧力で弾け飛ぶ。
まるで加熱された石榴のように。
飛び散る血飛沫は、空中で一瞬にして蒸発し、紅い霧となって広間を覆い尽くした。
私は、震える残された左手で、懐の奥深くに忍ばせていた「最後の一瓶」を掴み出した。
それは、由良府の食材ではない。
私が現代の四川で、代々受け継いできた古びた甕(かめ)の底から抽出した、究極の「豆板醤(トウバンジャン)」。
百年の時を経て、無数の菌たちが死と再生を繰り返し、太陽の光と大地の呼吸を何層にも吸い込み続けた、命の凝縮。
時間の化石。
それは、美しくも冷酷な「死の美食」を誘う由良府の理に対する、生臭く、泥臭い「生の回答」だった。
「喰らえ……! これが、人間という矮小な生き物が、何代もかけて繋ぎ、守り抜いてきた……」
「発酵という名の『時間の暴力』だ!」
私はその赤黒い、宝石のように重い雫を、溶けかけた右腕の断面に塗り込んだ。
自らの肉を焼く音を響かせながら。
そして、少女の無垢な胸元へと、全身の質量を乗せて突き出した。
今度は斬るためではない。
私という「存在そのもの」を、四川の猛火と発酵の記憶と共に、彼女の喉奥に詰まらせ、焼き尽くすための、最後の一撃。
「お……お……あああああああ!」
私の魂の叫びが、迷宮の肉壁を激しく震わせ、崩落させる。
少女は、迫りくる私の、あまりにも「生」の臭いに満ちた熱を、驚いたように、しかしこの上なく嬉しそうに目を見開いて見つめていた。
私の、血と発酵の匂いに塗れた腕が、彼女の小さな胸に触れた瞬間。
ドォォォォォォォォォォォン……!
由良府の地底から、世界を二つに叩き割るような、巨大な衝撃波が全方位へと走った。
私の「執念の熱」と百年の「発酵の記憶」が、彼女の「絶対的な虚無」と真正面から衝突する。
次元の境界が耐えきれずに悲鳴を上げる。
少女の白磁の肌に、初めて、明らかな「亀裂」が走った。
そこから漏れ出したのは、光でも、血でもなかった。
この世のものとは思えないほど濃厚な、しかしどこか懐かしく、胸を締め付けるような「雨上がりの土の香り」だった。
「あ……あつい。辛い……辛くて、痛いよ、おじさん……」
少女は私の腕を、小さな、しかし万力のような力で掴んだ。
「でも、……すっごく、胸がドキドキして……自分がここにいるのが、わかる」
彼女の手のひらから、私の存在が、逆流する砂時計の砂のように、猛烈な勢いで吸い込まれていく。
だが、その瞬間。私の視界に、由良府のさらに「下層」へと続く、巨大な奈落が見えた。
少女の胸の亀裂から溢れ出したのは、彼女を操っていた、さらに巨大な「美食の意志」だった。
彼女もまた、この由良府という巨大な調理場における、一つの「器」に過ぎなかったのだ。
周囲の壁が。
脈動する肉のカーテンが。
少女の流した涙を媒介にして、不気味に色を変えていく。
これまで私が歩んできた迷宮そのものが、一つの巨大な「胃袋」の内部であったことを、私は悟った。
「……そうか。私たちは、最初から鍋の中にいたわけか」
私は、感覚のなくなった右腕を無理やり引き抜き、少女の細い肩を抱き寄せた。
彼女の身体は冷たい。
だが内側では、私の豆板醤が引き起こした「命の火」が爆発的に燃え盛っている。
その熱が、由良府の冷徹な秩序を焼き切っていく。
迷宮の崩壊は加速し、天井からは巨大な「塩の結晶」のような瓦礫が、凶器となって降り注いだ。
轟音の中で、私は少女の耳元で叫んだ。
「いいか、小娘。お前はもう『主菜』じゃない」
「今日からお前は、この地獄をぶち壊すための、最高にたちの悪い『スパイス』だ!」
私は、少女の内側に渦巻く「虚無」と、自らの「発酵した情熱」を、料理人としての精神力で無理やり捏ね合わせた。
それは、四川の厨房で、猛火を操りながら、相反する味覚を一皿に閉じ込める作業に似ていた。
甘美な死と、泥臭い生。
究極の無と、百年の堆積。
それらが混ざり合い、化学反応を起こした瞬間、少女の身体から「漆黒の火炎」が噴き出した。
その炎は、周囲の「捕食しようとする意志」を、逆に焼き尽くしていく。
喰らい尽くしていく。
「おじさん……不思議」
少女が呟く。
「私、さっきまであんなにお腹が空いていたのに。今は、……何かを『作りたい』って、思っちゃう」
少女の瞳に、人間らしい「意志」の光が宿る。
それは、この由良府という管理された美食の庭園にとって、最も致命的な「毒」であった。
管理者は、食材が意志を持つことを許さない。
調理される側が、包丁を手に取ることを認めないからだ。
その時。
天を覆っていた漆黒の雲が割れた。
そこから「巨大な銀の匙」が、物理的な質量を伴って降臨した。
それは、もはや比喩ではない。
この次元そのものを「掬い取る」ための、神の食器。
由良府の「真の主」が、ついにこの煮詰まった鍋の中に、直接手を伸ばしてきたのだ。
大気が悲鳴を上げ、空間が歪む。
銀色の光圧が、私たちの皮膚を焼き、細胞を沸騰させる。
「ふざけるな……。誰が、誰の餌になるって言った!」
私は、崩壊する床を蹴り、少女を抱えたまま跳躍した。
右腕は動かない。
だが、私の内側には、これまで出会ってきた食材たちの断末魔が溜まっている。
師匠から受け継いだ、地獄の炎の記憶が、マグマとなって溜まっている。
「食卓に上がるのは、俺たちじゃない」
「お前のその、傲慢な舌の方だ!」
私は、少女の背中に自身の左手を当てた。
彼女の「漆黒の火炎」を自分の牛刀へと、無理やり誘導する。
溶けかけた鉄の塊が、少女の虚無と私の発酵を吸い込んだ。
次元を切り裂く「概念の包丁」へと、それは狂暴に再構築されていく。
大気が激しく攪拌され、銀色の匙が、迷宮の瓦礫もろとも私たちを掬い上げようと迫る。
匙の表面に映った自分たちの姿は、あまりにも矮小で、一飲みにされるのを待つプランクトンのようだった。
だが、私の目は死んでいない。
少女もまた、その漆黒の火を瞳に宿し、天を見上げている。
「おじさん、見て。あの銀色のスプーン……凄く冷たくて、不味そう」
「ああ、そうだな。あんなに磨き上げられただけの食器に、味なんてあるもんか」
私は、全身の骨が軋む音を聞きながら、空中へと身体を捻り出した。
由良府という巨大なシステムそのものを「調理場」として利用する。
崩落する肉壁の断片を足場にし、私たちは重力を無視して加速する。
少女の漆黒の炎が、私の振るう概念の刃を、より鋭く、より冷酷な「切っ先」へと変貌させていく。
「一振りでいい。その傲慢な食器の喉元を、四川の地獄で貫いてやる!」
由良府の第八話は、ここから加速する。
降り注ぐ神の匙に対し、私は、かつてないほどに凶悪な「笑顔」を浮かべた。
口の端から、自分の血が滴るのも構わずに。
これは、単なる反逆ではない。
これは、料理人による「神への調理」の幕開けだ。
私は、その銀色の光の渦へと、真っ向から突っ込んでいった。
少女の叫びが、私の魂と共鳴し、空間に幾何学的な「斬り込み」を発生させる。
背後で、美食家たちの幽霊たちが、畏怖と期待の混じった絶叫を上げている。
食うか、食われるか。
そんな退屈な二択は、もういらない。
俺が、この「食う側」と「食われる側」に分かれた歪な世界そのものを、細切れにしてやる。
激辛の油で、徹底的に炒め直してやる。
「……さあ、最高のディナーだぜ。神様よ!」
私の咆哮が、由良府の全てを震わせた。
その瞬間、私の手の中にある概念の刃が、神の匙の「縁」を、鋭く捉えた。
鋼と神性が衝突し、火花が宇宙の誕生のような閃光を放つ。
戦いは、まだ終わらない。
むしろ、この地獄の晩餐は、今ようやく「メインディッシュ」へと突入したのだ。
銀の匙が砕け散るか、私たちの魂が霧散するか。
料理人として、この一撃に全ての「味」を懸ける。
「……煮え切らない世界ごと、食らい尽くしてやるよ!」
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