第七話 主菜の胎動、自己咀嚼の迷宮

迷宮の奥へ進むほど、空気はより濃密な「血と蜜の匂い」へと変質していった。

 私の右腕と化した牛刀は、壁を構成する筋繊維が震えるたびに、共鳴するように熱を帯びる。

 もはや、ここには「静寂」など存在しない。

 壁の向こう側で蠢く巨大な臓器が、ドクン、ドクンと、私の胃の腑を直接揺さぶるような重低音を響かせ続けているからだ。

 それは、由良府という都市そのものが、一人の巨大な捕食者として呼吸している証左だった。

 吸い込む空気は重く、湿り、肺の奥でねっとりと脂の膜を作る。

 私は、自らの傷口に塗り込んだ「苦味の結晶」が、血管を焼き尽くす感覚に酔い痴れていた。

 劇痛は、もはや私にとって苦痛ではない。

 それは、私がまだ「食材」として新鮮であり、腐り落ちていないことを証明する、鮮烈な生の鼓動だった。

「……見えてきたな。ここが、欲望の終着点か」

 回廊が急激に広がり、視界が開ける。

 そこに広がっていたのは、由良府のどの場所よりも美しく、そして醜悪な光景だった。

 広大な、円形のコロシアムのような広間。

 その中央には、巨大な「銀の蒸し器」のような、奇怪な構造物が鎮座していた。

 だが、それは金属で作られたものではない。

 半透明の、硬質化した「脂肪の層」を、何千枚と積み重ねて作られた、生きた調理器具だ。

 

 蒸し器の隙間からは、純白の、しかしどこか生臭い蒸気が、間欠泉のように絶え間なく吹き出している。

 その蒸気を恍惚とした表情で浴びているのは、円環状に配置された無数のテーブルにつく、かつての「美食家」たちだった。

 彼らの姿は、もはや人間としての原型を留めていない。

 ある者は首が蛇のように長く伸び、より遠くの皿を覗き込めるようになり、ある者は指が鋭利なボーンナイフへと変質していた。

 彼らは一様に、自らの腹部を、まるで上等な絹を断つように、自らの指先で裂いていた。

 そして、そこから溢れ出す、まだ拍動している自らの内臓を、手際よく、かつ優雅に銀の皿へと盛り付けていく。

「さあ、私の『本音』を召し上がれ。三日三晩、後悔のタレに漬け込んだ、至高の肝(レバー)だ」

「いや、私の『野心』の方が、より芳醇な、野性味溢れる香りを放っているはずだ」

 彼らは互いに、自身の臓器を差し出し合い、咀嚼し、血まみれの口で、呪詛のような賛辞を送り合う。

 そこには、食らう者と食らわれる者の境界など存在しない。

 ただ、「味」という絶対的な真理だけが、そこにある全てだった。

 これが、由良府の深層――「自己咀嚼(オートファジー)」の真実。

 他者を食らうことに飽き果てた者が、最後に辿り着く、閉じられた楽園。

 それは、自分自身という名の、世界で唯一無二の食材を、自らの感覚器官で愛で、慈しみ、滅ぼすことだった。

「……茶番だな。反吐が出る」

 私の、低く濁った声が、広間に冷たく響き渡った。

 美食家たちの手が止まり、血と脂に濡れた無数の眼球が一斉に、侵入者である私に向けられる。

「己の肉を食う。それが由良府の極致だと?

 それはただの、逃げ場のなくなった円環の中での自慰に過ぎない」

 私は、右腕の刃を床の粘膜に、力任せに突き立てた。

 

 ドォォォォォォン……!

 

 衝撃波が広がり、美食家たちの銀のテーブルが、無残にひっくり返る。

 

「料理とは、断絶だ。

 食材という『死』と、食らう者という『生』の間に立つ、絶対的な境界。

 お前たちはただ、己の脂の熱で脳が溶けているだけだ。

 本当の『味』を、この四川の男が、魂の底から教えてやろうか?」

 一人の、一際巨大な、山のような肥満体が、ゆっくりと立ち上がった。

 かつては、一つの大陸を支配した王だったのかもしれない。

 彼の全身には、最高級の、今や絶滅したはずのスパイスが、皮膚の穴という穴に執拗に詰め込まれ、

 彼が僅かに動くたびに、むせ返るような、脳を麻痺させる芳香が周囲に霧となって散らばる。

「……生意気な、痩せこけた前菜が迷い込んだものだ」

 王と呼ばれた肉塊が、巨大なフォークを構える。

 そのフォークは、自らが食い殺した敵対者の骨を削り出して作られた、呪いの骨細工だった。

「この由良府において、お前は、我々の主菜(メインディッシュ)を完成させるための、最後の一振りの『塩』に過ぎない。

 死んで、私のスープにコクを与える光栄を噛みしめるがいい」

「いいだろう。どちらが『食らう側』にふさわしいか、ここで白黒つけてやる」

 私は、左手に握りしめた「苦味の結晶」を、自らの口に放り込み、奥歯で砕いた。

 瞬間、全身の神経がガソリンを被せられたように火を噴き、私の筋肉は、限界を超えて不気味に膨張する。

 私は、跳んだ。

 王のフォークが空を切り、風が咆哮する音を聞きながら、私はその巨大な腹部へと肉薄する。

 私の右腕、牛刀と化した刃が、彼のスパイス漬けにされた贅肉を、一文字に、深々と切り裂いた。

 しかし、そこから流れ出したのは、赤い血ではなかった。

 黄金色の「極上コンソメ」だった。

「……あは、ははは! 素晴らしいだろう?

 私の肉体は、既に、私自身の欲望によって、完璧なスープへと書き換えられているのだ!」

 王は笑いながら、自らの傷口から噴き出す、熱いスープを、私の顔へと容赦なく浴びせかけた。

 

 その、暴力的なまでの熱。

 そして、意識を刈り取るほどの、濃厚な香り。

 

 それは、かつて私が四川の厨房で、数千羽の鶏を犠牲にし、あらゆる秘伝の香辛料を駆使して、一生をかけても作れないと絶望した、あの究極の出汁の香りだった。

「……くっ、これが……由良府の、本当の『毒』か」

 私は自らの舌を、引きちぎれるほどに噛み切った。

 口内に広がる、鉄臭く、生々しい「自分の血」の味が、甘美なスープの誘惑を、辛うじて遮断する。

「お前のスープには、決定的なものが欠けているぞ、太った王よ」

 私は脂と血にまみれた顔で、王を、地獄の底から這い上がった亡者のような瞳で睨み据えた。

「それは、『飢え』だ。

 自分を満たすためだけに、自分を愛でるためだけに精製されたスープなど、家畜の餌よりも価値がない。

 他者の喉を焼き、その魂を強奪し、記憶に一生の傷を残すような、あの狂気的な渇望が……ここには、一滴も入っていない!」

 私は、王の懐に、死を覚悟して深く潜り込んだ。

 そして、彼の胸の中央、最も濃厚で、最も熱い出汁が湧き出している「心臓の弁」に、刃を逆手に構えて突き立てた。

「私の四川の、地獄の炎を、その冷え切った、傲慢なスープにぶち込んでやる!」

 私は、己の体温を、そして人間としての怒りを、刃を通じて王の体内に、雷鳴のように送り込んだ。

 冷徹で、完成しきった美食の世界に、沸騰するような「生の暴力」が注入される。

 王の身体が、内側から激しく、不気味に泡立ち始めた。

 黄金色のスープが、私の熱によって一気に煮詰まり、凝縮され、そして――修復不可能なほどに焦げ付いていく。

「な……何をしている! 私の完璧な熟成が……焦げている! 苦い、苦すぎる!」

「それが、人間の生きる味だ! 焦げ付き、淀み、それでもなお喰らおうと足掻く、泥臭い命の味なんだよ!」

 王の巨躯が、内側から噴き出した高圧の蒸気によって、風船のように爆散した。

 広間には、焦げ付いたスープの、香ばしくも残酷な匂いが、霧のように立ち込める。

 美食家たちは、その焦げた、しかし強烈な「生」の匂いに当てられ、獣のような悲鳴を上げた。

 秩序は崩壊し、広間はただの、血飛沫舞う屠殺場へと変貌を遂げた。

 王が爆散した後、広間には死よりも重い静寂が訪れた。

 私は、膝をつき、激しく喘いだ。

 右腕の刃は、王の黄金のスープを吸って鈍く輝き、私の肉と鋼の境界が、熱でドロドロに溶け合っている。

 もはや、この刃を切り離すことはできないだろう。

 私の視界は、脂の膜と自分自身の血で、半分以上が塞がっていた。

 だが、その濁った視界の向こう側に、新たな「道」が口を開けていた。

 崩れ落ちた美食家たちの死骸の山。

 彼らが最期に食らい合おうとした、その欲望の残滓が、床の上で黒いシミとなって広がっている。

 私は、折れかかった足を引きずり、そのシミを踏み越えて進んだ。

 一歩、踏み出すたびに、私の記憶が剥がれ落ちていく。

 四川の市場の喧騒。

 初めて包丁を握った時の、あの冷たい感触。

 師匠が作った、目から火が出るほど辛く、そして涙が出るほど旨かった麻婆豆腐の熱。

 それらの人間としての宝物が、由良府の「旨味の重力」によって吸い出され、空っぽの抜け殻へと変わっていく。

 

 だが、それでいい。

 今の私に必要なのは、過去の思い出ではない。

 目の前にある、この「究極」を解体するための、剥き出しの殺意だけだ。

 銀の蒸し器のさらに奥。

 そこには、これまでとは比較にならないほどの「巨大な、天を揺るがす拍動」を刻む、漆黒のカーテンがあった。

 カーテンは、まるで巨大な肺のように、ゆっくりと膨らみ、そして萎んでいた。

 その隙間から漏れ出す「光」は、白銀というよりは、すべての色を飲み込んだ末の「無」の色をしていた。

「……ようやく、辿り着いたな」

 私は、自分の指が一本、また一本と、感覚を失っていくのを感じていた。

 神経が死に絶え、代わりに由良府の「味」が私の全身を支配しつつある。

 私の喉は、砂漠のように乾き、何か「絶対的なもの」を飲み込まなければ、今すぐ崩壊してしまいそうだった。

 私は、その漆黒のカーテンを、血塗られた刃で一気に切り裂いた。

 そこにいたのは、神でも、悪魔でもなかった。

 

 ただ、一人の「少女」だった。

 

 彼女は、銀の皿の上にちょこんと座り、血の混じった自らの指をしゃぶりながら、静かに私を待っていた。

 

 その白磁のような肌。

 夜の深淵よりも深い、漆黒の髪。

 そして、その瞳――。

 彼女の瞳には、全宇宙の星を飲み込んでも、一瞬で消えてしまうほどの、無限の「空腹」が宿っていた。

 それは、生命が誕生した瞬間に抱いた、最初の、そして最後の飢餓だった。

「……おじさん。私のこと、もっと美味しく、苦しくしてくれるの?」

 少女の、鈴を転がすような、あまりにも無垢な声。

 その声を聞いた瞬間、私の脳内に、かつて失ったはずの、あるいはこれから失うはずの、すべての「愛」の形がフラッシュバックした。

 しかし、それは救いではない。

 

 彼女の存在そのものが、見る者の「愛」や「希望」を、最高級の調味料として吸い取り、自分を彩るための「餌」に変えてしまう、究極の捕食者の姿だった。

「お前が……この由良府の、主菜か」

 私は、震える腕で、彼女に向けて刃を構えた。

 

 少女は、首を小さく傾げ、愛くるしく微笑んだ。

 その瞬間、私の右腕の刃から、これまで聞いたこともないような「悲鳴」が上がった。

 

 鋼が、恐怖に震えている。

 私の肉が、彼女に喰われることを、魂の底から熱望し始めている。

「おじさん、いい匂いがするね。四川の、焦げた、苦い匂い。

 私、そういうの、大好きだよ」

 少女が、銀の皿からゆっくりと立ち上がる。

 

 その小さな足が床に触れた瞬間、迷宮全体が、歓喜の咆哮を上げた。

 

 晩餐は、まだ始まったばかりだ。

 私は、自らの正気が、少女の無垢な視線によって、一口ずつ、丁寧に咀嚼されていくのを感じていた。

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