第六話 概念の咀嚼、虚無の晩餐
『土の心臓』を嚥下(えんげ)した瞬間。
私の食道は、内側から沸騰する溶岩を直接流し込まれたかのような、凄絶な激痛に襲われた。
それは「熱い」という感覚を超え、私の存在の根源を内側から焼き潰し、炭化させていくような、物理的な破壊の感触だった。
そして、次の瞬間。
あらゆる感覚が、静まり返った「絶対零度」の静寂へと一気に凍りついた。
視界から極彩色の毒が剥落し、音が形を失って霧散する。
温度という概念そのものが、私の認識という回路から、跡形もなく消滅した。
私は、自分がどこに立っているのか、あるいは自分が何者であるのか。
それすらも認識できない「情報の氾濫」の中に、独り取り残されていた。
脳髄に直接、太い杭を打ち込むように叩き込まれるのは、
この宇宙に存在する全ての食材が、宇宙の開闢から現在、そして遠い未来の終焉に至るまでに経験する、あらゆる「味」の全記録だった。
数億年前の、まだ誰もいない海で揺らめいていた、原始プランクトンの儚い塩味。
灼熱の恒星の核で、核融合の果てに生まれる、重元素たちの金属的な痺れ。
滅びゆく文明の最期に、一人の赤子が泥の中で流した涙の、鉄分と絶望が混ざり合った、この世で最も複雑で救いのない旨味。
それらが、整理されることも、拒絶することも許されず、
暴力的なまでの質量を伴って、私の精神という脆弱な器を、内側から蹂躙し続けていく。
「……あ、あ、……ああ……」
私の乾いた口から漏れ出たのは、もはや言葉ではなかった。
言葉として結実する前の、喉を掻きむしるような「原初の叫び」だった。
私は、神を喰らったのではない。
神という名の「巨大な記録媒体」に、私の意識が、私の細胞一つひとつが、一つの「記述」として、無慈悲に上書きされていくのを感じていた。
かつて四川の地で、香辛料の煙に巻かれ、汗と煤にまみれながら「究極の滋味」を追い求めていたあの男。
彼は今、物理的な重力からも、人間としての倫理からも解放され、
概念としての『食』そのものへと、不可逆な変貌を遂げようとしていた。
気がつくと、私は由良府(ゆらふ)の、さらに「奥」の領域に立っていた。
そこは、先ほどまで私がいた臓器の樹がそびえ立つ場所とは、位相が完全に異なっていた。
空には、不気味な瑠璃色さえもなく、ただ、底知れぬ漆黒の闇が、重油のようにべったりと広がっている。
しかし、その闇は「何も見えない」のではない。
あまりにも高密度な「旨味の粒子」が、光さえも磁石のように飲み込んでいるために、黒く見えるのだ。
大気を一息吸い込むだけで、肺腑が極上のフォアグラを無理やり詰め込まれたように重く、そして耐え難く苦しくなる。
呼吸をするという行為自体が、ここでは「過剰な摂取」となり、私の内臓をじわじわと肥大させていった。
足元は、もはや塩の砂漠ではなかった。
それは、未だ名付けられぬ、銀河ほども巨大な獣の、まだ温かい「舌」の上を歩いているかのような感触。
柔らかく、湿り気を帯びた粘膜の大地が、私の足裏を吸い込むようにして迎え入れる。
一歩踏み出すたびに、大地からは極上の脂が、黄金色の汗のようにじわりと染み出す。
それが私の足首を、そして這い上がるようにして、私の膝を、腰を、全身を包み込んでいく。
「ようこそ。神の食堂(しょくどう)へ」
不意に、背後から氷のような声がした。
振り返ると、そこには「豪奢な服を纏った鳥」のような姿をした、異形の給仕(メートル・ド・テル)が立っていた。
その身体は人間の紳士のように直立し、銀の刺繍が施された、透けるほどに薄い燕尾服を完璧に着こなしている。
だが、首から上は、鋭利な嘴(くちばし)を持つ巨大な梟(ふくろう)のそれだった。
その金色の瞳には、幾千もの銀河が、あるいは数え切れないほどの晩餐の歴史が回転しており、
私という存在を、まるで一皿の「出来の悪い前菜」を値踏みするかのような、冷徹で残忍な好奇心で見つめていた。
「お前は『土の心臓』を、自らの意思で口にした。
それは、この宇宙における唯一の、そして最後の『調理台』に立つ権利を、一時的に得たことを意味する」
鳥の給仕は、カチリと嘴を鳴らして続けた。
「だが、勘違いするな。お前はまだ、料理人ではない。
お前は今、この偉大なる、終わりなき晩餐の、ただの『一粒の岩塩』に過ぎないのだ」
彼は優雅な、しかし鋭利なカミソリで空を斬るような仕草で、私の前に一台のテーブルを差し出した。
端が見えないほど無限に広がっている、白銀の、凍てついたテーブル。
その上には、皿など置いていない。
ただ、透明な「空(くう)」が、銀のトレイの上に、あたかも最高級のジビエのように鎮座していた。
「……これを、料理しろというのか。何もない、この『虚無』を、食材だと言い張るのか」
「その通りだ。由良府の深淵、そこでは、物質を扱うことなど、もはや稚拙な児戯に過ぎぬ」
給仕の声が、重力を持って私の脳内に直接響く。
「火を使い、水を通し、刃を振るうという物理的な行為。
それら全てを、この『虚無』という最高の、そして最も気難しい食材に捧げてみろ。
お前の魂という名の出汁(だし)を取り、お前の存在理由という名の香辛料を振りかけろ」
給仕は私の顔の間近まで嘴を寄せ、死臭の混じった吐息を吹きかけ、残酷に笑った。
「神を唸らせる一皿を完成させろ。
さもなくば、お前はこのテーブルの上で、永遠に、神々の歯によって咀嚼され続けることになる」
私は、震える指をテーブルの縁にかけた。
右手に持っていたはずの、四川から携えてきたあの牛刀は、いつの間にか、私の右腕そのものと、肉を介して完全に融合していた。
皮膚からは鋼の刃が骨を突き破って直接突き出し、
血管からは、血液の代わりに、濃厚で黒ずんだ熟成ソースが脈動しながら絶え間なく流れ出している。
私は、料理人であることを辞めたのではない。
料理という「破壊と再構築の現象」そのものになったのだ。
私は、目の前の「虚無」に向かって、狂ったように腕を振るった。
物理的な対象など、そこには存在しない。
だが、私の刃は、空間そのものを無理やり切り裂き、その断面から「時間の雫」を抽出し始めた。
昨日という日の、二度と取り返しのつかない後悔。
明日という日の、決して届くことのない絶望的な渇望。
それらを、目に見えぬほどの繊細さで、ミクロの単位で千切りにしていく。
シュッ、シュッ、シュッ……。
刃が「無」を斬る音が、漆黒の闇の中に冷たく響く。
それは、私の存在という名の輪郭が、少しずつ、少しずつ削り取られ、銀のトレイの上に無残に積み上げられていく音でもあった。
私は、自分の胸に左手を突き立てた。
肋骨をへし折り、まだ拍動を続ける自分の心臓から、一滴の「真実」を、血を絞り出すように搾り出す。
それは、どんなに記憶を抹消されても、どんなに由良府という地獄に呑まれても、
決して、決して消えることのなかった、ただ一つの、醜くも気高い執念。
「美味いものを、作りたい」
あまりにも単純で、あまりにも残酷な、料理人としての根源的な、救いのないエゴイズム。
その血の一滴が、銀のトレイの上に落ちた瞬間。
虚無は激しく爆ぜ、そこに「ミニチュアの宇宙」が、混沌のスープとして再構築され始めた。
トレイの上で、銀河が濃厚なコンソメのように、静かに、しかし力強く渦を巻く。
星々が岩塩のように美しく、冷たく散らばり、スープの表面で火花を散らす。
私は、その宇宙という名の鍋を、執拗に煮込み始めた。
火など、もはや必要ない。
私の、この焦がれるような「情熱」そのものが、絶対零度の空間を強制的に沸騰させる、唯一の熱源だった。
「……煮立ってきたな。由良府の神々よ、この『孤独』を、最後の一滴まで味わえ」
私は、自分の左の眼球を、指先でえぐり抜き、その宇宙のスープの中に躊躇なく投じた。
これが、この一皿に必要な、最後の「隠し味」だ。
視界が、半分に削り取られる。
だが、心眼で見える世界は、より鮮明に、よりグロテスクに、その本質の輪郭を際立たせていく。
スープの中で、私の眼球が「目玉焼き」のように白濁して固まっていく。
それは、世界を冷静に観察する者の視点を、食らう者の狂った視点へと、強制的に融合させるための、呪われた触媒だった。
「……完成だ。これは、お前たちが決して味わうことのできなかった、『孤独の真髄』という名のフルコースだ」
私は、一椀の、淀んだ黄金色の「宇宙の澱」を、鳥の給仕に差し出した。
私の身体は、もはや透け始め、輪郭が真夏の熱に浮かされた陽炎のように、頼りなく揺らいでいた。
魂を使い果たし、自らを薪(まき)にして焼き上げた、禁忌の一皿。
それは、美味などという安っぽい言葉で形容できるものではない。
この世の全ての喜びを凝縮し、その裏側に潜む全ての絶望で分厚くコーティングした、究極の「呪い」の塊だった。
鳥の給仕は、その鋭い嘴を、ゆっくりと、そして儀式的に皿の中へと沈めた。
その瞬間。
由良府の漆黒の闇が、内側から引き裂かれるような、巨大な「音」が鳴り響いた。
それは、神が、初めて自分の存在の中にある「絶対的な欠落」を肯定し、咽び泣いた際の吐息だった。
「……素晴らしい。料理人よ。
お前は、この空っぽで、ただ飢えていただけの宇宙に、初めて『痛み』という名の味を与えた。
これこそが、我ら神々が、何万年もの間、待ちわびていた刺激だ」
給仕の声は、もはや梟のものではなかった。
数え切れないほどの男女、子供、老人の声が、不気味な合唱のように重なり合った、多重奏のような響き。
「だが、これで終わりだと思うなよ。
お前が作ったこのスープは、まだ『序菜(オードブル)』の最初の一口に過ぎない。
メインディッシュへの道は、まだ、始まったばかりだ」
給仕がその巨大な羽根を大きく広げると、テーブルの向こう側に、新たな「門」が現れた。
それは、巨大な、そして濡れそぼった「口腔(こうくう)」そのものの形をした門だった。
門の奥からは、見たこともない、不気味な色に明滅する肉の回廊が、どこまでも、どこまでも続いていた。
門を潜った先に広がっていたのは、視神経を直接灼き切るような「肉の迷宮」であった。
壁という壁が、瑞々しいピンク色の筋繊維で構成され、一定の周期で痙攣を繰り返している。
天井からはリンパ液の雫が、甘い、しかし喉を焼く雨となって降り注ぐ。
一歩歩くごとに、足元の粘膜は私の重みに反応し、脳髄を痺れさせる、濃厚な生肉の芳香を放った。
私は、融合した右腕の刃を、壁の肉に深く突き立てた。
シュワリ、という断末魔のような音と共に肉が悶え、そこから透明で熱い、脂の奔流が溢れ出した。
私はその脂を両手で受け、自らの顔に、首筋に、執拗に塗りつける。
視界が脂の膜で滲み、世界がより残酷な「食材の集合体」として、歪んで立ち上がってくる。
迷宮の奥からは、何千、何万という人々の、おぞましい「咀嚼音」が聞こえてくる。
クチャ、クチャ、クチャ……。
それは幸せを噛み締める音ではない。
己の存在が、目に見えぬ何かに喰らわれ、あるいは何かを喰らわねば自分を保てないという、原初的な恐怖が鳴らす音だ。
私は、その音の源へと向かって、肉の回廊を走り出した。
私の背後には、もはや影すらない。
私の影さえも、先ほどの「虚無の調理」において、燃料としてトレイの上に捧げてしまったからだ。
私は今、ただの「食欲」という名の、制御不能な衝動となって、
由良府のさらなる深淵へと、真っ逆さまに堕ちていく。
もはや、人間へと戻る道など、どこにも残されてはいない。
迷宮の深層に至ると、そこには「自己咀嚼(オートファジー)」の間が広がっていた。
そこには、かつて高名な料理人だった者たちの、変わり果てた成れの果てがいた。
彼らは自らの身体の一部を、包丁で丁寧に切り取り、自ら火にかけ、自ら喰らうという、狂気の円環に囚われていた。
「見てくれ、私のこの大腿部は最高に熟成されているぞ。四川の炎より熱く、南江の風より芳しい」
「まだだ、私の心臓を包む脂の乗りこそが、神への唯一の供物、至高のデザートだ」
彼らは、もはや痛みすら感じていないようだった。
笑いながら、恍惚とした表情で、自らを解体し、煮込み、喰らっていた。
彼らの肉体は、喰らわれるたびに由良府の霊気によって瞬時に再生し、
その度に、より「旨味」を増した、人間ではない組織へと書き換えられていく。
「……愚か者が」
私は、その惨状に唾を吐き捨てた。
自らをただ食らうのは、調理ではない。それはただの「自己消費」だ。
私は、私という食材を、この世界の深淵という「巨大な鍋」の中に放り込み、
私という個を完全に消滅させ、全く別の「神の一口」へと変質させなければならないのだ。
迷宮の最深部、そこには「万色のスパイス」が結晶化した、巨大な鍾乳洞があった。
人々の「嫉妬」という醜い感情から精製された、舌を焼き切るような辛味の紅い結晶。
「諦念」という冷たい感情から抽出された、喉を凍らせ、呼吸を止めるような青い苦味。
それらが、壁面から鋭い針となって無数に突き出し、私を拒絶するように、あるいは誘うように不気味に輝いている。
私はその、青く輝く苦味の針を一本、素手で力任せに折り取った。
掌から瑠璃色の血が流れ出し、スパイスの結晶と混ざり合う。
全身を貫く、脳を焼くような劇痛が走る。
だが、その痛みこそが、私の魂という名のスープに必要な、最後の、そして最も鋭いスパイスだった。
「これだ……。神を呪い、同時に神を愛した、人間の血という名の隠し味だ」
私はその結晶を、自らの胸の開いた傷口に、直接塗り込んだ。
全身の血管が、スパイスの暴力的なまでの刺激によって、真っ赤に、そして真っ青に、不規則に明滅を繰り返す。
私は今、自らを、最高の「辛味」と、最も深い「苦味」を宿した、究極の食材へと昇華させたのだ。
私は、光を失い、脂にまみれた瞳で、肉の迷宮のさらに奥へと足を踏み出した。
そこには、由良府の本当の支配者――「大胃王」の、巨大な影が揺らめいている。
「待っていろ、神よ。今、お前を殺すほど旨い『終わり』を、その喉元に届けてやる」
私の歪んだ、もはや人ではない唇から、透明な脂が、一滴、粘液のように滴り落ち、大地を熱く、ジュワリと焦がした。
由良府の最深部で、新たなる、より巨大な「拍動」が。
私という、煮えたぎるスパイスが、その喉を通り抜ける瞬間を、狂おしく待ちわびている。
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