第三話 記憶の残滓、銀水の温湯(あつゆ)

銀色の小川は、遡るほどにその輝きを増し、同時に私の体温を情け容赦なく奪い去っていった。

 足首まで浸かった水は、もはや液体というよりは、無数の極細の針が皮膚を突き破り、直接骨を削っているような感覚に近い。川底に敷き詰められた白石は、踏みしめるたびに「カチ、カチ」と、まるで乾いた笑い声を上げるかのように、霧の沈黙を切り裂いていく。その音は、私の脳髄の奥底に反響し、平衡感覚をじわじわと削り取っていった。

 緇衣(しい)を抜けてから、どれほどの時間を歩いただろうか。

 後ろを振り返っても、そこにはただ灰色の混沌が広がっているだけで、自分が来た道すら定かではない。私の五感は、『影の髭』の効果によって異様なほどに研ぎ澄まされている。空気中に漂うカビの胞子の爆ぜる音さえ聞き取れるほどだ。だが、その鋭敏さが、今はかえって私を追い詰めていた。霧の粒子が肌に当たるかすかな振動が、まるで紙やすりで全身を擦られているような激痛に変わる。そして何より、目の前に立つ男が発する、圧倒的な「虚無」の匂いが、私の肺を内側から腐らせようとしていた。

 官服を纏ったその男は、銀の川の真ん中に立ち、濡れることもなく静止していた。

 男が持つ翡翠の扇子からは、微かに、しかし抗いがたいほどに甘美な「沈香」の香りが漂っている。それは、生者が纏う匂いではない。数百年、あるいは数千年の間、由良府の深淵で熟成され、発酵しきった「死せる時間の匂い」だった。

「さて、料理人。私の問いに応えてもらおうか」

 男の紫の瞳が、私の包丁袋を、そして私の心臓の鼓動を射抜くように細められた。その瞳の奥には、無数の銀河が吸い込まれては消えるような、底知れぬ空虚が横たわっている。

「お前が求めているのは、伝説の『土の心臓』だ。だが、あれを口にするには、まずはこの門を通らねばならぬ。この門を通るための通行料は、金でも、ましてや命でもない。お前がこれまでの人生で積み重ねてきた『最も幸福な記憶の味』だ」

「記憶を……味にしろと?」

 私は震える指先を、冷たく湿った包丁の柄にかけた。

 男は優雅に扇子を閉じ、川面を指し示した。

「この銀の川の水は、あらゆる記憶を溶かし込み、無へと還す忘却の雫。これを使って、私を泣かせるほどのスープを作ってみせろ。お前が大切に抱えてきた記憶を、その一滴の汁の中にすべて抽出し、昇華させるのだ。お前が、お前自身を構成する最も美しい部分を捨てる覚悟があるか、それを見せてもらおう。それができれば、由良府の門は開く」

 私は、足元を流れる銀の水を見つめた。

 鏡のように滑らかな、しかし温度を持たない水面には、今の私の顔が映っていた。四川を旅立った時とは別人のような、執念という名の毒に冒され、両の眼窩が深く落ち窪んだ、亡霊のような顔だ。

 幸福な記憶。

 そんなものは、とっくの昔に捨て去ったつもりだった。

 四川の盆地で、香辛料の煙に巻かれ、血と脂にまみれて包丁を振るい続けた日々。師匠に罵倒され、火傷だらけの手で鉄鍋を握り、ただ「美味」という名の、実体のない魔物に魅せられてきた。私の人生は、ただそれだけの、色彩を欠いた修羅の道だったはずだ。

 だが、意識を深く、自らの根源へと沈めていくと、底のほうに沈殿していた、ある「色」が浮かび上がってきた。

 ――それは、雨上がりの午後の匂いだった。

 まだ包丁の重さすら知らなかった幼き日。母が作ってくれた、なんの変哲もない一椀の粥。

 庭先に咲く野菊の微かな、青臭い香りと、少しだけ焦げた米の香ばしい匂い。そして、母の手のひらが、熱を出して寝込む私の額に触れた時の、あの熱のような、柔らかな温もり。その記憶の断片が、今の私を構成する唯一の「光」だったのだと、皮肉にもこの極寒の地で気づかされる。

 私は、覚悟を決めた。

 懐から、緇衣の宿で手に入れた小さな、しかし驚くほど重い土鍋を取り出した。

 それは、大地の湿り気をそのまま焼き固めたような、鈍い褐色の鍋だ。その肌はザラつき、まるで生き物の皮膚のような感触を持っている。

 私はまず、銀の川の水を、恭しく土鍋に汲み上げた。

 水は鍋の中で、意志を持っているかのように銀の光を放ち、螺旋を描いて渦を巻いている。

 次に、私は四川から持ち込んだ「究極の触媒」を取り出した。それは、先ほどの宿で石肉を捌いた際に、こっそりと懐に忍ばせておいた、石肉の「髄」の破片だ。石のように硬いが、その奥には大地の生命力が凝縮されている。これを一欠片、鍋に投じる。

 山椒の炭を熾し、土鍋を火にかけた。

 銀の水が沸騰し始める。

 普通、水が沸けば白い湯気が立つ。しかし、この忘却の水は、沸騰しても煙を上げない。代わりに、鍋の中から「声」が聞こえ始めた。

 それは、私の記憶の断片が、熱によって崩壊していく断末魔の叫びだった。

 誰かの笑い声、風が木々を揺らす音、そして、遠い日の母の呼び声。それらが複雑に混ざり合い、鍋の中で銀色の泡となって弾けていく。

「……煮立ってきたな」

 私は、包丁を抜いた。

 目の前に食材はない。あるのはただの、記憶を飲み込んだ銀の水だ。

 だが、私は空中に向かって刃を振るった。

 形なき食材を、切り刻むために。

 まず、母の優しい眼差しを、繊細な千切りにする。

 夕暮れの温かな光、食卓に並んだ質素な菜の香り。それらを一つひとつ、執拗なまでに細かく、細胞レベルで寸断していく。

 次に、幼き日の無邪気な笑みを、石臼で挽くようにしてすり潰し、滑らかなペーストにする。

 私の指先は、自分でも驚くほど正確に動いた。包丁が空気を裂くたびに、銀の水の中に、私の過去が「具材」として投入されていく。

 柳刃の刃先が、虚空を切り裂く「シュッ、シュッ」という音が、緇衣の霧の中に冷たく響く。私の頬には、熱を失った銀の飛沫が飛び散り、そこから私の過去が蒸発していくのを感じた。

 鍋の中は、もはや液体ではなかった。

 それは、私の魂そのものを煮詰め、発酵させた、極彩色の泥沼と化していた。

 銀色の水面は、次第に粘り気を増し、ドロリとした重厚な質感へと変化していく。

 

 私は、仕上げに、自分の指先を少しだけ切り、一滴の鮮血をその渦の中心へと落とした。

 血が混ざった瞬間、鍋の中の銀色は、深い琥珀色――いや、夕焼けの空に血を混ぜたような、不吉なまでの黄金色へと変貌を遂げた。

 その瞬間、私の脳内から、ある「色」が完全に消えた。

 母の顔が、霧に隠れるように思い出せなくなる。

 あの日、私を包み込んでいた温もりが、どういう物理的感覚だったのか、もはや概念すら理解できない。

 私は、門を通るために、私を私たらしめていた「芯」の一部を、この鍋の中にすべて差し出したのだ。

「……完成しました」

 私の声は、砂漠で乾いた石のように、カサカサに枯れ果てていた。

 琥珀色のスープを、小さな黒い椀に注ぎ、私はそれを番人の男に差し出した。

 スープからは、もはや何の匂いもしない。ただ、そこにあるだけで周囲の全ての熱を吸い込むような、底知れぬ「静寂」だけが漂っている。

 男は、翡翠の扇子を傍らの石の上に置き、震える手で椀を受け取った。

 彼はゆっくりと、その一口を、自らの半透明な口腔へと運んだ。

 一瞬、時が止まった。

 銀の川のせせらぎが止み、霧の動きすら凍りつく。由良府の境界線全体が、一人の男の咀嚼を待って息を潜めていた。

 男の紫の瞳が、一気に拡大し、その奥に数千年前の光景が走馬灯のように駆け巡る。

 彼がこれまで喰らってきた、数多の旅人たちの記憶。そのどれもが、今の私のスープの前では霞んでいく。

 男の頬を、一筋の雫が伝い落ちた。

 それは、人間が流す涙とは違う、真珠のように硬く、冷たい輝きを放つ「忘却の残滓」だった。

「……懐かしいな。この味は」

 男の声は、もはや雅楽のような調べではなかった。それは、一人の孤独な魂が、永い、永い眠りの中で夢見た、たった一度の「救済」の響きだった。

「お前は、このスープの中に、私さえも忘れていた『生』の感覚を閉じ込めた。忘却の川の水を使って、これほどまでに強烈な『記憶』を再構築し、肉体なき者に血の通った温もりを思い出させるとは。……お前は、ただの料理人ではない。己の魂を薪にして、虚無そのものを焼く狂信者だ。あるいは、食という名の神を信じる、最も呪われた信徒だ」

 男は、一口も残さずにスープを飲み干すと、椀を返し、深々と頭を下げた。

 その瞬間、彼の背後の霧が、まるで巨大な門が開くかのように、左右に大きく割れていった。

 そこには、これまで見てきた泥の南江とも、霧の緇衣とも違う、異様な光景が広がっていた。

 空は深い瑠璃色に染まり、大地はそれ自体が発光しているかのように、どこまでも白く輝いている。

 立ち並ぶ建築物は、翡翠、象牙、そして人の骨を削って造られたかのような、重力に逆らうように天へと伸びる奇矯な尖塔の群れ。

 そして、その中心部には、巨大な「木」のようなものがそびえ立っていた。

 その枝には、果実ではなく、脈打つ「肉」の塊が、重々しくたわわに実っている。風が吹くたびに、その肉の果実たちがこすれ合い、濡れた音を周囲に撒き散らしていた。

「ようこそ、由良府(ゆらふ)へ」

 男は、霧に溶けるように消え入りそうな声で告げた。

「門は開かれた。だが、覚えておけ。今のスープで、お前は自分の中の『愛』と『慈しみ』をすべて使い果たした。この先にあるのは、ただひたすらに、純粋で、美しく、そして残酷な、美食の荒野だ。そこでは、お前が四川で学んだ知識など、何の役にも立たない」

 私は、空っぽになった自分の胸を抱えながら、その門を潜った。

 もう、母の顔を、あの粥の匂いを思い出すことはできない。

 私が抱いていた幸福な過去は、すべてあの男の胃袋に消えた。

 

 私の足元には、由良府の白い土が広がっている。

 それを指ですくい取ると、それは土ではなく、極細の「塩」の結晶だった。数万年分の欲望が結晶化したかのような、純白の塩。

 口に含むと、鋭利な塩味の奥に、かつて滅んだ文明の、あらゆる欲望を煮詰めたような、昏い、しかし抗いがたい旨味が潜んでいた。

「……さあ、始めよう。本当の、絶望の味を」

 私は包丁を鞘に戻し、震える足を一歩前に出した。

 目の前の「肉の実る木」から、風に乗って、この世のどこの辞書にも載っていない、未知の「苦味」の香りが漂ってくる。

 

 私の視界の端に、かつての四川の風景が、陽炎のように揺れては消えた。

 私はもう、戻ることはできない。

 料理人として、人として、真っ当な場所へは。

 私はただ、この異形なる都の深淵で、究極の「滋味」を、その心臓を、この手で掴み取るまでは。

 由良府(ゆらふ)――。

 それは、神に捨てられ、食に選ばれた者たちの、永遠の牢獄。

 私は、一歩、また一歩と、その中心部へと歩みを進めた。

 空は瑠璃色に澄み渡っているが、そこからは太陽の温もりも、雨の慈しみも感じられない。

 ただ、私の胃袋だけが、この異常な風景を喰らい尽くしたいという欲望に、激しく疼いていた。

 私の旅は、今、極限の飽食と、精神の崩壊へと加速していく。

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