第四話 肉実る樹、絶望の市場(バザール)

由良府(ゆらふ)の土を踏みしめた瞬間、私の足裏に伝わってきたのは、無機質な大地の冷たさではなく、微かな、しかし確かな「体温」だった。

 一面に広がる白銀の塩の砂漠。その砂粒の一つひとつは、かつてこの地で飽食の果てに餓死した者たちが流した、最期の涙が結晶化したものだと言い伝えられている。砂漠を渡る風が吹くたびに、その砂粒同士が擦れ合い、まるで数千、数万の亡霊が耳元で「もっと喰わせろ」と囁きかけてくるかのような、乾いた、不吉な摩擦音が辺りに充満していた。

 砂は、私の肌を刺し、毛穴から執拗に脂を吸い取ろうと躍起になっている。瑠璃色の空には雲一つなく、ただ底知れぬ静寂が、まるで鉛のような重油となって、頭上から私の肩にのしかかっていた。この静寂は、音がないのではない。あらゆる音が、この圧倒的な質量を持った大気に押し潰され、真空のような圧迫感となって、私の鼓膜を内側から破らんばかりに圧迫し続けているのだ。

 私は、門番に差し出した記憶の空位を抱えながら、中心部にそびえ立つ異形の巨木へと歩を進めた。

 一歩、足を踏み出すたびに、白銀の塩が靴の隙間から這い入り込み、私の体温を、そして人間としての残り僅かな「生」の温もりを貪欲に奪い去っていく。記憶を失った私の心は、冷え切った巨大な空洞のようだった。かつて母が作ってくれた粥の味も、師匠に叩き込まれた四川の炎の熱さも、今はもう、霧の向こう側の出来事のように朧気で、実感を伴わない。だが、その空洞を埋めるように、由良府の不気味な情景が、極彩色の毒となって、私の視神経から直接脳髄へと流れ込んできた。

 近づくにつれ、その「樹」の正体が、剥き出しの真実となって私の眼前に露わになる。

 それは断じて植物ではなかった。数万、数億の血管が複雑怪奇に絡み合い、互いに絡め取られながら、石化した巨大な肋骨を支柱として天へと這い登る、巨大な「臓器」の柱だ。樹皮に相当する部分は、乾いてひび割れた皮膚のような質感を持っており、その亀裂からは絶えず、腐敗と発酵の中間にあるような、甘酸っぱい体液が滲み出していた。

 枝に見えるものは、拍動を繰り返す肥大化した動脈であり、その先にたわわに実っているのは、果実ではない。薄い、向こう側が透けて見えるほどに引き伸ばされた半透明の膜に包まれたまま、執拗なまでの一定間隔で、ドクン、ドクンと拍動を続ける、生々しい「肉」の塊であった。

 風が吹くたびに、肉の実同士が「ピチャリ、ピチャリ」と、濡れた臓器を打ち付けたような粘り気のある音を立てて触れ合う。

 その隙間から漏れ出す香りは、四川のいかなる秘伝の香草も、南江のいかなる熟成肉も足元に及ばない、暴力的なまでの芳醇さ。それは、生命が死の間際に放つ最後の輝きを、永劫の時の中に、あるいは冷たい真空の中に閉じ込めたような、頽廃的で、かつ官能的な香りだった。嗅ぐだけで胃壁が痙攣し、脳髄が痺れ、唾液腺が壊れた蛇口のように溢れ出す。その香りは、もはや「良い匂い」などという生温いものではなく、嗅ぐ者の生存本能を狂わせる、目に見えない麻薬の霧だった。

「……これが、由良府の恵みか。神が人間を試すために用意した、最高級の毒餌か」

 私は、腰に下げた牛刀の柄を、指の関節が白く浮き上がり、皮膚が裂けるほどに強く握りしめた。

 幸福を代償に差し出し、過去という名の「自己」を失った私の胃袋は、今やこの世界の全てを喰らい尽くさんとする、底知れぬブラックホールと化していた。内側から私を突き上げるのは、単なる生理的な空腹ではない。存在そのものを維持するための、根源的な「死への恐怖」と、それを一瞬だけ忘れさせてくれる「美食への狂信」だ。私はもう、料理を作って誰かを喜ばせるような、そんな温かい料理人ではない。この空腹を満たすためだけに、世界を解体し続ける一振りの刃に成り下がっていた。

 樹の根元には、いつの間にか、異様な人影が集まっていた。

 彼らは緇衣(しい)の住民のように泥にまみれ、飢えを剥き出しにしているわけではなかった。皆、透けるほどに薄い極上の絹や、眩いばかりの宝石を無数に散りばめた、かつての王朝の官服を思わせる豪奢な装いだ。だが、その顔は一様に、白塗りの仮面のように血の気がなく無機質で、眼窩の奥には「飢え」という名の黒い、ドロリとした重油のような炎だけが、鈍く燃え盛っていた。

 ここは市場(バザール)だった。ただし、金銭や銀貨という概念が入り込む余地はない。ここでは、自身の「尊厳」や「五感」、あるいは「残された寿命」そのものが、肉一切れと交換されるのだ。ある者は自らの片目を天秤に載せ、その引き換えに得た肉を貪り、ある者は愛する者の名前やその声、あるいは初恋の記憶を紙に記して、目の前の「肉」と引き換えにしていた。彼らにとって、失うものはもう何もない。ただ次の瞬間の「美味」だけが、彼らの存在を辛うじてこの世に繋ぎ止める楔となっていた。

「新入りの料理人か。その包丁、いい光だ。冷たい絶望の底で、じっくりと研ぎ澄まされた色をしている」

 不意に横から声をかけてきたのは、首筋から無数のエラが突き出し、全身が鈍い銀色の鱗に覆われた、魚の化身のような男だった。男は、自らの腕から剥ぎ取ったばかりの、まだぴくぴくと小刻みに動く鮮紅色の皮を、古びた秤(はかり)の上に載せている。その秤が、肉の物理的な重みではなく、そこに込められた「苦痛の純度」で傾くのを、男は陶酔したような、濁った目で見つめていた。

「あそこの、さらに高い位置にある『上層肉』を狙うなら、ただの包丁捌きじゃ届かないぞ。あの肉は、調理する者の絶望を吸って初めて、その本当の味を開くんだ。お前、何か美味しい『絶望』は持っているか? なければ、その料理人の腕でも一本、ここに置いていくんだな。それなら、あの上層の肉を、一噛みくらいはさせてやる」

 私は男の言葉を完全に無視し、樹の最も低い位置にある枝に、吸い寄せられるように、あるいは磁石に引かれる鉄片のように手を伸ばした。

 膜に包まれた肉の塊に触れる。

 ドクン。

 指先を通して、樹の凄まじい、大地を揺らすような拍動が私の心臓と完全に同期した。全身の血液が、沸騰したように逆流し、視界が真っ赤な血の霧に染まる。

 熱い。そして、驚くほど柔らかい。まるで、熟しきった桃の皮を剥く直前のような、危うい均衡の上にある弾力。

 私は柳刃を抜き、その膜に一文字の、迷いのない、冷徹な切れ目を入れた。

 プシュッ、という湿った音と共に、熱い飛沫が私の顔を、そして開いたままの眼球を直撃し、濡らす。

 それは血ではなく、黄金色に輝く濃厚な、蜂蜜よりも粘り気のある「原液」だった。その液体が私の肌に触れた瞬間、そこだけが別の意思を持った生命体になったかのような、激しい疼きと高揚感が全身を駆け巡った。

 中から現れたのは、淡いピンク色の、絹のように滑らかな筋繊維を持つ部位。それは牛のヒレでも、豚のバラでも、あるいは四川の山奥で珍重される幻の獣の肉でもない。強いて言うならば、天上の鳥の羽音を、そのまま肉という物理的質量へと変換し、永遠に閉じ込めたような、あまりにも儚く、そして暴力的なまでに重厚な質感を湛えた「未知の部位」だ。

 私は、その肉を丁寧に、細胞の一粒も、脂の一滴も、そして肉の「声」さえも逃さぬよう切り取った。

 周囲の貴族たちが、一斉に唾を呑む。その「ゴクリ」という乾いた、砂のような音が、静寂の中で不気味な不協和音となって反響する。

 私は、足元に広がる白銀の塩の砂を一つかみ取り、肉の断面に容赦なく、そして執拗に擦り込んだ。

 ジュワリ、という音が上がる。肉が悶えるように収縮し、まるで聞こえない悲鳴を上げているかのようだ。塩が細胞の奥深くまで浸透し、眠っていた数万年分の生命の旨味を、強制的に、そして残酷に引きずり出す。これはもう調理という範疇を超えていた。一種の神聖なる屠殺であり、絶対的な拷問に近い。

 私は、地面の亀裂から湧き出す青い熱泉、由良府の地脈から直接立ち上がる、実体のない、しかし全てを焼き尽くす「霊火」の上に鉄鍋を据えた。

 この火は、音もなく、光すら飲み込みながら、食材を分子レベル、あるいは魂のレベルで変質させる。

 油は一切使わない。この肉自体が、最高の潤滑油を、その微細な筋繊維の隙間に、宇宙の密度で宿しているからだ。

 肉を鍋に置いた瞬間。

 立ち上がった煙は、私の最後の理性を完全に焼き切り、心の奥底で眠っていた本能の獣を、血の匂いで呼び覚ますのに十分な威力を持っていた。

「……まだだ。これでは、ただの『至高の食事』に過ぎない。私は、この深淵そのものを焼き上げ、絶望さえも滋味に変えなければならない」

 私は、周囲を見渡した。由良府の市場には、四川の常識では考えられない「調味(スパイス)」がそこかしこに転がっている。

 私は、傍らに落ちていた「石化した涙」と呼ばれる、透明な鉱物状のスパイスを拾い上げた。それは、この地で数百年、あるいは数千年、孤独と飢えの中で泣き続けた亡霊の感情が、塩分と混ざり合って結晶化したものだという。それを包丁の柄で、粉々に、原子の塵になるまで砕き、鍋の中に散らす。

 

 瞬間、肉の香りが劇的に、そして残酷に変貌した。

 濃厚な脂の甘みの底から、氷の針を喉に突き刺すような、冷徹な苦味が立ち上がる。

 鍋の中では、相反する二つの力が激しく衝突し、互いの領分を侵食し、破壊し合いながら、やがて一つに溶け合っていった。それは、この世の全ての善意と、全ての悪意を大鍋で煮詰めたような、矛盾に満ちた、しかし逃れられない芳醇な芳香だった。

「……食え。これが、お前たちが望んでいた『美しき終わり』だ」

 私は、近くで震えていた、一人の美しい少女に皿を差し出した。

 少女は、既に自らの「声」と「名前」を市場に売り払っており、音もなく、ただ顎を外さんばかりに、その飢えた空洞を大きく開けた。その瞳には、もはや理性のかけらも、かつての温かな家庭の記憶も残っていない。

 肉を口に含んだ瞬間。

 少女の全身の毛穴から、光のような汗が噴き出した。

 彼女の脳裏には、おそらく、彼女が売り払ったはずの美しい歌声が、あるいはかつて愛した者の優しい名前が、幻聴となって、そして引き裂かれるような絶叫となって鳴り響いているはずだ。

 苦味が、快楽を数万倍に増幅させ、感覚の神経を一本ずつ、丁寧に焼き切っていく。冷気が、存在の輪郭を奪い去る。

 少女はそのまま、歓喜のあまり白目を剥き、白銀の塩の砂漠へと倒れ伏した。痙攣するその指先は、なおも空を掻き、見えない肉を、かつて持っていたはずの、しかし今はもう味すら思い出せない「幸福」を求めて、虚しく彷徨い続けていた。

 それを見た貴族たちが、もはや人間の言葉ではない、獣のような咆哮を上げて私に詰め寄る。

「俺にも!」「その肉を、その呪われた、甘美な絶望をよこせ!」「記憶なんて、魂なんて、いくらでもくれてやる!」

 彼らは自らの指を、宝石を、そして隣で立ち尽くす友の首を、迷うことなく、一瞬の躊躇もなく差し出そうとする。彼らの顔からは「人」としての尊厳が泥のように剥がれ落ち、ただ食欲という名の、原初的な、剥き出しの渇望だけが、その醜悪な顔面に張り付いていた。

 ここは、食欲が倫理を、美味が生命の価値を完全に超越した、この世で最も美しく、最も残酷な屠殺場だった。

「どけ。貴様らの汚れた舌を、私の神聖な刃に触れさせるな。この味は、貴様らごときが安易に触れていいものではない。この絶望は、私だけのものだ」

 私は、返り血と黄金の汁に濡れ、鈍く光る牛刀を乱暴に振り回し、彼らを退けた。

 私の目的は、彼らを満足させることなどではない。彼らの飢えを極限まで加速させ、この都をより深い、救いのない混乱へと陥れることでもない。

 私は、絶命すらできずに悶える少女の脇をすり抜け、さらに巨大な、大気を震わせる拍動を続ける、樹の「上層」を見上げた。

 霧の彼方、物理法則さえも歪んだ、重力が存在しないかのような天の高みに、より色が濃く、より不気味な漆黒に近い紫の脈を打つ、巨大な「心臓」そのものに見える実が、世界を見下ろすように成っている。

「あれか……。あれが、『土の心臓』へ至るための、最後の生贄か。あるいは、あれを食らって初めて、私は完全な『料理』という概念そのものになれるのか」

 私は、自らの足に力を込めた。一歩歩くたびに、白銀の塩が靴に食い込み、私の体温を、魂の残り香を、人間としての誇りを、容赦なく奪っていく。

 だが、私の心臓は、これまでの人生で一度も経験したことがないほどに激しく、狂おしく脈動していた。

 私はもはや、四川の誇り高き料理人でもなければ、愛や悲しみを知る記憶を持つ人間でもない。

 この狂った都で、神の肉を解体し、絶望を至高の調味料へと昇華させる、一振りの、分子レベルで研ぎ澄まされた「刃」そのものへと変貌を遂げていた。

 私は、次の肉を、より高次の快楽と、救いのない破滅を求めて、樹の幹へと包丁を深く、柄の根元まで突き立てた。

 樹が、生き物のような、低い、しかし腹の底に響く地鳴りのような悲鳴を上げた。大地が大きく揺れ、塩の砂漠が津波のように波打つ。

 だが、私の心は、かつてないほどの、恐ろしいほどの静寂に満ちていた。

 

 幸福を完全に失い、人間であることを辞めた私の舌に、今、由良府の残酷な『真実』が、一滴の、冷たく、しかし狂おしいほどに甘美な脂となって滴り落ちた。

 周囲の喧騒は遠のき、私の意識は、ただ一点、天に輝く「心臓」へと、鋭利に収束していく。

 私の旅は、ここからが本番だ。

 誰も見たことのない、誰も味わったことのない、神々の供犠の食卓。

 私は、そこへ至るために、この身の全てを、最後の一滴の血、最後の一欠片の魂まで使い果たすだろう。

 由良府の空が、より深い、血の色を混ぜたような瑠璃色へと変わり、星すらもその色に染まっていくのを、私はただ、感情の消え失せた瞳で、無言で見つめていた。

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