第二話 緇衣(しい)の饗宴、石肉(せきにく)の解剖

緇衣(しい)の朝は、夜よりも暗い。

 窓の外に広がる霧は、昨夜よりも粘り気を増し、まるで灰色の羊水の中に街全体が沈められたかのような錯覚を抱かせる。太陽の光は、この地の結界に阻まれ、ただぼんやりとした濁った光の塊として、泥のような大気の中に停滞していた。

 私は、湿りきった寝台から身を起こした。全身の関節が、昨夜煎じて飲んだ『影の髭』のせいで、芯から凍てついたように軋む。一歩動くたびに、骨と骨が擦れ合い、脳の奥で嫌な音が響いた。だが、不思議と感覚は、これまでの人生で最も鋭敏だった。壁の隙間を這い回る銀蝿の翅の震え、宿の主が階下で包丁を研ぐ微かな、しかし暴力的なまでの金属音。それらすべてが、鋭利な針となって私の鼓膜を突き刺す。

 階下に下りると、そこには昨夜の静寂とは打って変わった、異様な光景が広がっていた。

 宿の主人が、土間の中心に据えられた巨大な石台の前で、正体不明の「塊」と格闘していたのだ。

 それは、昨日の老人が口にしていた「腐り肉の苔」とはまた別の、より巨大で、より禍々しい何かだった。

「……それは、何だ」

 私の問いに、主人は顔を上げなかった。彼の指先は、絶えず何かを揉むように動いており、その爪の間には黒い、煤のような汚れが深く入り込んでいる。

 主人の手元にあるのは、一見すればただの岩石の塊だ。しかし、彼が錆びついた手斧を振り下ろすたびに、石の表面からは「じゅわり」と、およそ無機物からは想像もつかないような、黒く濁った脂が滲み出していた。

「料理人、といったな。お前さんなら、これが捌けるか」

 主人が、短く、刃こぼれの激しい包丁を私に差し出した。その視線は虚ろで、まるで何かに魂を吸い取られた抜け殻のようだ。

 私は、その不潔な包丁を黙って拒絶し、自分の腰に下げた包丁袋を解いた。

 四川の炭で幾度も叩き上げられ、冷水で締められた「柳刃」と「牛刀」。長年使い込み、私の体温と馴染んだ鋼が、薄暗い土間の、僅かな灯火を吸い込んで青白く光る。

 私は、その『石肉(せきにく)』と呼ばれる塊の前に膝をついた。

 石肉。緇衣の地下深く、日光を一切拒絶した鍾乳洞の隙間にのみ自生するという、肉質化した石だ。それは地脈を流れる龍の血が固まったものだとも、あるいは数千年前の獣の死骸が石化したものだとも伝えられている。

 表面を指でなぞる。ざらりとした、砂岩のような感触。だが、その奥底からは、かすかな、しかし確かな脈動が伝わってきた。トクン、トクン。まるで、大地そのものが呼吸しているかのような、重く、鈍いリズム。

「礼は、由良府(ゆらふ)への安全な道筋でいい。この『石』の沈黙を、私が解いてやろう」

 私は、精神を研ぎ澄ませた。

 四川で培った技術のすべてを、指先に集中させる。食材を捌くということは、その命の構造を理解し、最も効率的に、最も美しく「破壊」することに他ならない。

 私は柳刃の先を、石の表面にある微細な、肉眼では捉えきれないほどの「孔」へと差し込んだ。

 シュッ、という音が、湿った空気の中で反響する。

 最初は、火花が散るほどの凄まじい抵抗があった。鋼と石がぶつかり合い、私の手首に強烈な反動が走る。だが、私は引かなかった。石の繊維がどこにあるのか。どこを叩けば、この大地の殻が破られるのか。私は、刃先から伝わる微かな振動を頼りに、石の「声」を聞いた。

 一分、あるいは一時間。時間の感覚が霧の中に溶け去った頃、石が「鳴いた」。

 パキリ、という硬質な音と共に、一筋の亀裂が走る。

 そこからは、溺れるように刃が吸い込まれていった。抵抗は快楽へと変わり、柳刃は石の深部へと、滑らかに滑り込んでいく。

 割れた断面からは、驚くほど美しい、深紅の層が現れた。

 それは、数百年、数千年の時をかけて、緇衣の地の底で熟成され続けた、究極の赤身。鉄の匂いと、熟成しきった獣の脂、そして雨上がりの土の匂いが混じり合い、強烈な芳香となって私の鼻腔を蹂躙した。

 脂身は、雪のように白く、しかし触れれば指の熱でたちまち溶け出し、透明な雫となって床に滴り落ちる。

「見事なものだ……。石を殺さず、眠りだけを覚ますか」

 いつの間にか、背後に例の老人が立っていた。

 老人の顔の「穴」が、期待と食欲に不気味に歪む。

 私は構わず、調理に取り掛かった。

 宿の片隅にある、すすけた竃(かまど)に火を熾す。

 緇衣の冷たく、カビ臭い薪は、容易には燃えない。不完全燃焼の煙が目に染みる。だが、私は四川から大切に持ち歩いている「山椒の古木」の炭を、その中心に投じた。

 途端、爆ぜるような鋭い音と共に、青白い、神聖なまでの炎が立ち上がる。煙は一瞬で消え、代わりに清涼な山椒の香りが、宿の淀んだ空気を切り裂いていった。

 重厚な鉄鍋を熱し、まずは石肉の端から削ぎ落とした、黒い、真珠のような光沢を持つ脂を引く。

 ジィ、という音が、静寂の宿に響き渡る。

 脂が溶ける匂いは、驚くほど濃厚だった。それは、かつて四川の宮廷料理で嗅いだ、最高級の熊の手の脂をも凌駕する、暴力的なまでの官能。

 そこに、細かく刻んだ『影の髭』を投入する。黒い苔のようなそれは、熱い脂の中でたちまち縮れ、香ばしい、しかしどこか薬臭い煙を上げた。

「料理には、毒が必要だ。特に、この緇衣のような、生と死の境界が曖昧な場所では」

 私は、南江の市場で手に入れた、数十年ものの「黒酢」を鍋に注ぎ込んだ。

 ジュワッ、という爆音と共に、酸味の効いた黒い蒸気が立ち上り、私の視界を覆う。

 酸味と苦味が、青白い炎の上で激しく衝突し、互いの領分を奪い合いながら、やがて一つに溶け合っていく。それは、破壊から始まる創造だ。

 私は、厚めに切り分けた石肉の深紅の身を、その沸騰する漆黒の液体の中へと、静かに、しかし情け容赦なく投じた。

 肉は、熱せられた液体の中で、まるで断末魔の叫びを上げるかのように激しく収縮し、そして一転、周囲の旨味をすべて吸い込むように膨張を始めた。

 

 仕上げに、私は懐から小さな瓶を取り出した。

 中に入っているのは、以前私が実験的に作り上げた、ナスの皮を極限まで乾燥させ、特殊な香辛料と共に炭になるまで焼き上げた秘密の粉末だ。その、触れれば指が黒く染まるほどの「ざらついた苦味」と、微かなえぐ味。

 それを一振りした瞬間、鍋の中の香りは完成された。

 濃厚な脂の甘みを、鋭利な苦味が引き締め、複雑な黒酢の酸がすべてを包み込む。

「喰らえ。これが、私の旅の、真の第一皿だ」

 皿に盛られた石肉は、もはや石でも肉でもなかった。

 それは、緇衣の闇そのものを煮詰めたような、黒い宝石の輝きを放っていた。

 宿の主人が、震える手で箸を取り、その一塊を口に運ぶ。

 咀嚼。

 主人の目が、カッと見開かれた。

 彼の顔から、生気のなかった「無」の色が消え、代わりに、紅潮した情熱が、怒涛の勢いで溢れ出す。

「ああ……あああ……!」

 言葉にならない叫び。主人は、熱さも構わず、一心不乱に石肉を口に運び続けた。

 歯を立てれば、表面のカリッとした食感の後に、中から溢れ出す、大地の血のような肉汁。

 苦味の奥にある、狂おしいほどの甘み。

 それは、彼がこれまで食べてきた「罰」としての食事とは、根本から違うもの。

 それは、魂を直接揺さぶるような、暴力的なまでの『滋味』だった。

「これは……これは、由良府の門が開く音だ。俺は……俺は今まで、何を食って生きてきたんだ!」

 主人は、涙と鼻水を流しながら、皿を舐め回す勢いで完食した。

 傍らで見ていた老人も、その香りに当てられたのか、腰を抜かして座り込んでいる。老人の顔の「穴」からは、透明な体液が溢れ出していた。

 私は、自分が作った料理には、決して手を付けなかった。

 私の舌は、まだこの程度の悦楽で満足してはいけないのだ。

 私の目的は、もっと奥。この霧のさらに向こう側にある、本物の、伝説の『土の心臓』。

 この石肉ですら、その心臓を囲む、ただの肋骨に過ぎないのだから。

「約束だ。由良府への道を教えろ」

 食い終えた主人は、何かに憑かれたような表情で、北の窓を指差した。その指先は、まだ石肉の脂で黒く光っている。

「霧の中に……霧の中に、一筋だけ、水の色が違う川が流れている。銀色の、月の光を溶かしたような小川だ。それを遡ればいい。だが、気をつけろ。あそこの番人は、味覚ではなく、お前さんの『記憶』を喰らいに来るぞ」

 私は荷物をまとめ、一礼もせずに宿を出た。

 背後で、主人が「もっと、あの肉を……あの苦味を……」とうわ言のように繰り返す声が聞こえたが、私は二度と振り返らなかった。

 緇衣の村の外れ。

 そこには、主人の言葉通り、不気味なほど静謐な銀の小川が流れていた。

 周囲の霧を弾き飛ばすかのような、不思議な輝き。

 水温は、氷を直接触っているかのように冷たい。

 私は、その水に足を浸し、一歩ずつ、上流へと進んだ。

 川底には、人骨のように白く滑らかな石が敷き詰められ、踏むたびに「カチ、カチ」と、乾いた、しかし不吉な音が霧の中に響き渡る。

 ふと、前方から、心地よい鈴の音が聞こえてきた。

 チリン、チリン。

 その清涼な音色に合わせて、霧が、意志を持っているかのように左右に割れていく。

 そこに立っていたのは、緇衣の住民たちのボロ衣とは明らかに違う、極彩色の刺繍を施した、時代錯誤なまでに豪奢な官服を纏った男だった。

 男は、翡翠を埋め込んだ扇子で口元を隠しながら、私をじっと見つめている。その瞳は、深い紫の色をしていた。人間のものではない、何か人知を超えた存在の目。

「四川の料理人か。久方ぶりの客だ。お前が竃で焼いた、あの『石肉』の香りが、由良府の入り口まで届いたぞ」

 男の声は、美しく整えられた雅楽の調べのようでありながら、その奥底には、無限の飢えが潜んでいた。

「由良府の番人か」

「番人、というほど野暮ではない。私はただの、退屈した観客だ。さあ、私を満足させてみろ。さもなければ、お前さんの料理の腕ごと、その魂をここで頂くことにしよう」

 私は、ゆっくりと包丁袋の紐を解いた。

 霧は、さらに深く、暗く、私たちの周囲を包囲していく。

 由良府(ゆらふ)の門は、今、私の目の前で開かれようとしていた。

 私は、独りごちた。

「記憶を喰らうか……。なら、お前の永い時間を焼き切るほどの、残酷な味を教えてやろうじゃないか」

 川面を流れる銀の水が、私の足元で激しく渦巻いた。

 私の旅は、今、真の核心へと足を踏み入れる。

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