翠嵐の食譜(すいらんのしょくふ)

みなと劉

第一話 南江の泥、緇衣(しい)の霧

四川盆地を覆う空気は、常にねっとりと重い。それはまるで、熱せられた菜種油がそのまま大気になったかのような、不自由なまでの密度を伴っている。

 私は、その熱気の中から逃れるように、長江の濁流に身を任せていた。

 川面を滑る小舟の上で、私は掌に載せた一粒の花椒を、前歯で静かに噛み潰す。

 途端、舌の上に走る電気的な痺れ。麻(マー)の刺激が脳髄を突き抜け、一瞬だけ、まとわりつく湿気が意識から消える。だが、それも長くは続かない。痺れが引いた後に残るのは、喉の奥にこびりついて離れない、正体不明の「渇望」だった。

 私が求めているのは、四川の烈火のような辛味ではない。

 もっと深く、もっと静かに、魂の深淵にまで沈み込んでいくような、究極の「滋味」――。

 古文書に記されたその食材の名を、人は『土の心臓(どのしんぞう)』と呼ぶ。

「客神(ハッカ)さん、あんまり身を乗り出さんほうがいい。この辺りの川には、人の脂を好む泥魚が棲んでいるんでね」

 船頭が、濁った声で忠告を投げてきた。

 船頭の男は、日に焼けたを通り越して、泥を塗りつけたような肌をしていた。その首筋には、長年水を浴び続けた者に特有の、鱗のような皮膚の角化が見て取れる。彼は、この川そのものの一部であるかのように、無感情に櫂を操っていた。

「南江(なんこう)までは、あとどれくらいだ」

 私は、喉の渇きを湿った空気で潤しながら尋ねた。

「次の曲がり角を過ぎれば、そこが南江だ。もっとも、あんたのような綺麗な格好をした御仁が、あんな掃き溜めに行って何をするのかは知らんがね。あそこは、川が吐き出したゴミと、運に見放された人間が澱(おり)のように溜まる場所だ」

 船頭が言った通り、南江の宿場町は、美しさとは無縁の場所だった。

 川の氾濫によって運ばれてきた赤土が、すべての建物の壁を赤黒く染めている。道は常に泥濘み、行き交う人々は一様に、何かに怯えるような、あるいはすべてを諦めたような目をしていた。

 船を下りると、一気に市場の騒めきが襲いかかってきた。

 だが、そこにあるのは活気ではない。腐りかけた魚の脂の匂い、獣の排泄物、そして安物の香辛料が混じり合った、生命の腐敗の匂いだ。

 私は、市場の最奥にある、看板も出ていない酒肆(しゅし)の暖簾を潜った。

 店内は薄暗く、油の切れた古い灯火が、煤けきった壁を不気味に照らし出している。

「酒を。それから、緇衣(しい)への道案内を頼みたい」

 カウンターに銀貨を置くと、奥から一人の男が現れた。

 男は、まるで影そのものが形を成したかのような印象を私に与えた。纏っている衣は、かつては白かったのかもしれないが、今は完全に「緇(くろ)」に染まっている。

「緇衣、だと?」

 男の声は、擦り切れた絹布を擦り合わせるような音だった。

「あそこは、生きた人間が行く場所じゃない。霧に巻かれれば、自分の名前さえ忘れる。それでも行くというのか、料理人殿」

 男の目が、私の腰に下げられた柳刃の包丁袋を射抜いた。

「名前など、美味しい一皿のためなら捨てても構わない。私は、由良府(ゆらふ)にあるという『土の心臓』を求めている」

 その言葉を口にした瞬間、店内の空気が一変した。

 それまで酒を啜っていた数少ない客たちが、一斉に動きを止め、こちらを窺う。沈黙が、重い幕のように降りてくる。

「……由良府か。あそこは、皇帝の勅令で封印された禁断の地だ。千年前、ある食通の皇族が、あそこの食材に溺れるあまり、国を滅ぼしかけたという伝説がある」

 男は、隠し持っていた小箱をカウンターの上に置いた。

 慎重に蓋が開けられる。中に入っていたのは、黒い、縮れた苔のような、あるいは動物の毛皮の一部のような、正体不明の塊だった。

「これは、由良府の入り口に生える『影の髭』だ。これを煎じて飲めば、由良府の冷気に耐えられる体が手に入る。だが、代償として、あんたの味覚の一部は死ぬだろう」

 私は、迷わずその黒い塊を手に取った。

 鼻を近づけると、驚くほど澄んだ、雪解け水のような香りがした。同時に、その奥に潜む、暴力的なまでの「苦味」の予感が、私の本能を震わせる。

「……面白い。味覚が死ぬのが先か、究極の味に出会うのが先か。賭けてみようじゃないか」

 私はその『影の髭』を口に含んだ。

 瞬間、口腔内を走ったのは、苦味という概念を通り越した「無」だった。舌の感覚が、根元から凍りついていくような感覚。私の視界が、緇衣の霧に包まれたかのように、白く濁り始める。

 翌朝、私は一人、南江を後にした。

 背後に広がる四川の熱気は、もう感じられない。

 私の肌は、緇衣の冷たい湿気を吸い込み、少しずつ、この地の闇と同化していく。

 緇衣(しい)の村へ至る道は、道とは名ばかりの、獣道にも劣る難所だった。

 立ち込める霧は、単なる水蒸気の集まりではない。それはかつてこの地で命を落とした者たちの溜息が積み重なったかのような、不吉な粘り気を帯びている。

 一歩踏み出すごとに、霧が衣服の隙間から這い入り込み、肌を冷たく撫で回す。視界は三歩先すら定かではなく、ただ足裏に伝わる、腐葉土の柔らかさと、時折混じる硬い何かの感触だけが、私がまだ地上に留まっていることを示していた。

 ふと、鼻腔を突いたのは、四川では決して嗅ぐことのない「死した花の香り」だった。

 甘美でありながら、どこか内臓を逆撫でするような、頽廃的な香り。

「誰だ」

 霧の向こうから、人影が現れた。

 それは、丈の長い黒いボロを纏った、子供のような背丈の老人だった。老人の顔には、無数の「穴」が開いているように見えた。よく見れば、それは刺青か、あるいは何らかの病によって皮膚が陥没した痕だろうか。

「旅の料理人です。由良府を目指しています」

 老人は、私の言葉に反応せず、ただじっと私の包丁袋を見つめていた。

「料理人か……。緇衣にまともな食い物はないぞ。あるのは、光を知らぬ地下水と、岩の間にへばりついた『腐り肉の苔』だけだ」

 老人はそう言うと、持っていた籠の中から、赤黒い、肉片のようなものを取り出した。

 それは確かに苔の一種に見えたが、その質感は驚くほど生々しい。老人はそれを無造作に口に放り込み、クチャクチャと音を立てて咀嚼し始めた。その顎の動きに合わせて、顔の「穴」が不気味に歪む。

「……それが、緇衣の味ですか」

「味? そんなものはない。ただ、腹を満たすための『罰』だ。由良府へ行くなら、お前さんもいずれこれを食うことになるだろう。あそこの食材は、生きたままでは決して食えん。一度死なせ、腐らせ、地の底の毒を吸わせて初めて、あの世の味がするのさ」

 老人は不気味に笑うと、霧の中に溶けるように消えていった。

 私は再び歩き出した。

 頭の片隅には、かつて四川の片田舎で出会った、あの不完全な「滋味」の記憶が蘇っていた。

 それは、若き日の私が、ただ一度だけ偶然に作り上げてしまった、名もなき煮込み料理だった。

 市場で捨てられる寸前だった古い干し肉と、見たこともない奇妙なキノコを合わせただけの代物。だが、それを一口啜った瞬間、私の脳内には見たこともない極彩色の幻覚が広がったのだ。

 舌の上で、脂が、繊維が、大地の香りが、完璧な調和(ハーモニー)を奏でる。

 あの味を、もう一度再現したい。いや、あれを超える「完全な味」を手にしたい。

 その渇望だけが、この冷たい霧の中でも私の心臓を動かし続けていた。

 緇衣の村に入ると、空気の質がさらに変わった。

 家々はすべて黒い石で造られ、窓は極端に小さく、まるで外の世界を拒絶しているかのようだ。

 通りには人影がなく、ただどこからか、獣を捌くような鈍い音が響いてくる。

 私は一軒の宿に辿り着いた。

 宿の主人は、声を出すことさえ忘れたかのような男で、ただ指差しで二階の部屋を示した。

 部屋の床は湿り、壁には黒いカビが幾何学的な模様を描いている。

 私は荷物を下ろし、窓を開けた。

 外には、ただ延々と続く黒い霧の海。その霧のさらに向こう、天を衝くような山々の影がある。

 あそこが、由良府だ。

 私は、南江の酒肆で手に入れた『影の髭』の残りを、小さな鍋で煎じ始めた。

 火は、私が四川から大切に持ち歩いている、特殊な炭。

 立ち上がる湯気は、まるで意志を持つ蛇のように天井へと昇っていく。

 一口啜れば、全身の血管が凍りつくような冷気が走り、同時に、私の意識は緇衣のさらに奥――由良府の深淵へと、深く、深く沈んでいくのであった。

 由良府(ゆらふ)。

 そこにあるのは、真の救済か、それとも永遠の飢えか。

 夜の帳が降りる中、私は暗闇の中で静かに包丁を研ぎ始めた。

 シュッ、シュッ、という規則的な音が、緇衣の沈黙を切り裂いていく。

 研ぎ澄まされた刃先が、月光さえ届かぬこの闇で、微かな青白い光を放っているように見えた。

 私は、独りごちた。

「次は、あそこの『肉』をどう捌くかだ……」

 私の旅は、まだ始まったばかりだ。

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