第9話

 玄関の扉を開けると、空は既に濃紺色で、辺りには満月の青白い光が降り注いでいた。たまに吹く冷たい風が、首元をかすめるたびに肩を小さくすくめて、マフラーに顔をうずめた。


 僕はデニムとトレーナーに着替えた。娘の姿で家の外に出たことは一度もない。それについては、母もとくに言ってこない。多分、ご近所さんにはくれぐれも見られぬように、とでも父に釘を刺されているのだと思う。


 制服姿の航の一歩先を、逃げるように歩く。家庭の内情を知られてしまった。衝動的に深いキスをしてしまった。一目惚れをされたエピソードを聞かされながら、指を絡めて手をつないでしまった。そんなあとに、どんな顔して航を見ればいいかわからないし、航がどんな顔してるのかも恥ずかしくて見られない。


 息苦しい。マフラーをきつく締めすぎたのではないかと錯覚してしまう。


「中野さん、大丈夫だった? ……て、顔泣き腫らしてる時点で大丈夫じゃないか」


 心配なことに偽りはないけど、当たり障りのない話題を振るので、精一杯だった。


「それより、詩と別れたって聞いた」


 突かれたくないところを、航はいつもまっすぐに突いてくる。それに救われることのほうが多いけど、こういうときは厄介だ。


「耳が早いね。別れた理由も知ってるの?」


「いや……あの顔見たら誰も聞けないだろ。中野も笑って誤魔化してたし」


「ふうん」


 中野さんはほんとうに誠実な人だ。友達に愚痴ることだって、おもしろおかしく言いふらすことだってできるのに、そんなことをしない。つくづく、僕なんかに好意を持ったことが不思議だった。


「……なあ、詩。さっきのあれって……自分で好きでやってんの?」


 航は僕を心配してるのか、からかってるのか、判断に困る言い方をする。


「そう見えた?」 


「……見えない。でも、すごく似合ってたから……」


 僕のすぐ後ろで、口ごもりながら言った。


「はっ、そう思うなら航も母さんと同じだな」


「っ……ごめん。あれって詩の母さんがやってんの? なんで詩のこと娘って言ってるんだよ」


「……そうだよ。母さんが欲しかったのは娘……僕はただの代わり」


「それって……」


 航はなにかを言いかけて飲み込んだ。僕の取り巻くものを形容する言葉が、頭を過ったのだと思う。


 母は、近所では評判のいい優しい母親だ。美しく、献身的で、僕という娘を愛している。家庭内がどんなに歪な形をしていようと、外からは正しい姿しか見えない。


 僕は、どこにも逃げ場がない。


「詩の父さんは? なんも言わねぇの?」


「……あの人は、いないのと一緒。母さんの味方しかしない」


「なんだそれ……」


 航の声に怒気が混じる。僕のために怒ってくれている。航が僕のたった一人の味方なんだと思えて、胸が痛いほどうれしい。だからこそ、航を母の妄想に巻き込んでしまったことが悲しい。


 大事に抱えて隠していた宝物を、無情に取り上げられたような気持ちになる。


「うちは普通じゃない。だから、航はもう僕に関わらないほうがいい」


「は? なんでそうなんの?」


 航は弾かれたように僕の隣に出て、顔をのぞき込んでくる。表情を見られたくなくて、ことさら俯いた。


「勝手に付き合ってることにされただろ。このままいけば、母さんの遊びに巻き込まれる。娘の彼氏役としてな」


 声が震える。僕は、心を裏切るように、航を突き放す。したくないことを、している。


「それでもいいよ。詩のそばにいたい」


「よくない。航まで壊されたくない」


「なあ、詩、ほんとうに付き合おう」


 航が僕の手を掴む。それだけのことなのに、身体が跳ねて、立ち止まった。心臓がばくばく鳴っている。


 航はいつだって、感情にまっすぐだ。でも、今はそう言われても困る。僕は唇を噛んで、決壊してしまいそうな気持ちを堪えた。


「……やだ。付き合わない」


「じゃあ、なんでキスしたとき拒まなかったんだよ!」


 航が語気を荒らげた。思わず見上げた航の表情は、真剣そのもので、吸い込まれそうだった。僕は目を逸らす。このまま押し流されそうで、怖い。

 なのに、航は僕の頬に手を添えて、無理矢理に視線を合わせようとしてくる。

 あんな深いキスを受け入れておいて、航になんとも思ってないわけないだろ。


「詩、こっち見て。俺は詩が好きだ。大好きだ。だから手も繋いだし、キスもした。大事にするって言ったのも本心だ。離れたくない」


「……やめて……学校では、これまで通りに接するから」


「逃げんなよ」


 航が引き留めるように言った。頬に添えられた手のひらがあたたかくて、熱が全身にじんわり広がっていく。せっかく固く結んだ決意まで、ほどかれてしまいそうだ。


「頼むよ……俺、もう詩を誰にも取られたくない……」


「航はさ、どっちの僕が好き? 娘にされた僕?」


「……あ?」


「さっきだって、きれいって言ってキスした。でも僕は男だよ」


「わかってる。わかってるけど、それでも詩が好きなんだよ……詩は詩だろ」


 航は言い終わらないまま、僕を抱きしめた。

 娘とか女とか、男かどうかなんて関係ない、詩という僕そのものを肯定してくれているんだと感じた。それがほんとうに嬉しくて、目に熱いものが込み上げてきそうだった。こんなふうに言ってくれるのは航だけだ。


 それでも——


「……やっぱり、付き合えない」


「詩ぁ……」


 航が、ため息混じりの縋るような声で僕を呼ぶ。


「——でも、航は必要だ……悪いけど、彼氏役はやってほしい。卒業まで」


「……役? なんだよそれ? 詩なに言ってんの?」


 僕の思いがけない発言に、航は狼狽えている。航からすれば、意を決して告白したのに、“彼氏役”だなんて、馬鹿にされているとしか思えないだろう。


「母さんの中じゃ、航はもう娘の彼氏なんだ。今さら違うって言ったら……母さん、なにするか……」


 玄関で微動だにせず立つ母が、まぶたの裏に貼りついて離れない。僕が逃げようとするほど、理想の娘を追い求めて、小さな退路を塞いでくる。


 航を遠ざけることが、返って逆鱗に触れてしまうかもしれない。それこそ、航を傷つけてしまうことになりかねない。想像しただけで、血の気が引いた。


「だったら、ほんとうの彼氏になればいい。俺が詩の味方になる」


 僕は、航の言葉にかぶりを振った。


「本物になった瞬間、母さんに僕の恋じゃなくて、娘の恋にされる……それが嫌だ」


「……俺が詩じゃなく、娘を抱くみたいになるってこと?」


 抱く——あまりにストレートな物言いに、顔が焼けつくように熱くなる。

 やっぱり僕って、抱かれるほうなんだ。

 航との体格差を考えれば、僕が航を押し倒すことは難しい。今抱きしめられて密着している、航の胸板や、筋肉がついた腕を、妙に意識してしまう。


「……そう。僕は僕のまま、愛されたい……それだけは守りたい」


 感情だけが、僕に唯一残された尊厳だ。それすら母に奪われたら、僕はほんとうに空っぽになってしまう。


「……わかった。その代わり、俺以外に、恋人作らないで。お願い」


「……約束する」


「一個だけ、わがまま言っていい? 詩にキスしたい……だめ?」


 航が僕の目を覗き込んで、さらに顔を近づける。熱のこもった視線に、うなじをなぞられたみたいにぞくっとした。

 僕は小さく頷いて、目を閉じた。

 まぶたの裏で、航の気配が僕の輪郭にとけるのを感じる。


「……ありがと。詩、好き」


 航がぽつりとつぶやいて、僕の唇に、その唇を優しく重ねた。

 さっき僕の部屋で噛みつくようにされたキスとは、違う。しっとりと、吸い付くような柔らかいキスだった。

 その柔らかさが、胸の奥の固い結び目を、ゆっくりとほどいていった。

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2026年1月19日 22:00
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朝の霧にほどける 春日あお @ao_kasuga

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