第8話
リビングに入ると、部屋は甘い匂いに満ちていた。ひとたび香れば、心が踊るはずなのに、キッチンで母が立てているカップが重なる鋭い音で、空気が張り詰めるようだった。
僕と航がダイニングテーブルに寄ると、
「航くんは詩の隣に座ってね」
と、母は言い含めるように航を促した。
航は短く、はい、と返事をして、母の言葉通り、僕の隣に座った。居心地の悪い沈黙が続く。僕はテーブルの上に置かれた、皿に綺麗に並ぶクッキーを見つめるばかりだった。
この場をどう切り抜けよう。助けを乞うように航に視線を向けると、航は僕の顔を覗き込むように見ていた。その熱を孕んだ目に、どきっとした。恥ずかしくなって目を背けた。キスをしたときの空気が腹の底から蘇ってきそうだった。
「今日、なんで学校休んだ? 中野が顔、泣き腫らしてたぞ」
逃げ道を塞ぐように、航が小声で問うてくる。触れてほしくない話題に、僕は眉をひそめた。中野さんの顔が浮かんできて、胸が痛くなった。
「……ちょっと……家の用事があったから……」
苦しまぎれの嘘を言った。こんな見え透いた嘘なのに、航はそれ以上踏み込んで来なかった。
「航こそなんでわざわざ家まで来たの」
来なければこんなことにはならなかったのに。航が来てくれて、ほっとしてるのに、来てほしくなかった、とも思ってしまう。
「心配だったから」
航がためらいなく僕の手を握ってきた。胸の奥が跳ねた。航の言葉が肌を通して染み込んでくるようだった。僕が拒まないことを認めると、するりと指を絡めてくる。こんな場面なのに、振りほどかないといけないのに、航に触れてもらえることが嬉しくて、僕は絡めた指をきゅっと握り返した。
「おまたせ。さあ、いただきましょう」
母がティーセットを乗せたトレイを持ってきた。席につくと、手際よく白磁の茶器を並べて、琥珀色の液体を注ぐ。その様子を、僕と航は息を殺して見ていた。
母は紅茶を注ぎ終えると、僕と航をちらりと見た。航が握る力をかすかに強める。それだけで心強くて、怯みそうな気持ちをかき消してくれた。
「……あら?」
母の口元が、花がほころぶみたいにゆっくり緩む。僕と航の前にカップを差し出すと、砂糖壺から角砂糖をひとつつまんで紅茶に溶かした。
「ふふ、懐かしいわねぇ。二人がそうやって並んでると、出会ったころのことを思い出すわ」
カップにひとつ口をつけて、唇を湿らせ、続ける。
「町内会のお祭りで、航くんが、結婚するー!って、詩に言ったのよねぇ」
口に含んだ紅茶を吹き出しそうになった。隣で航もむせこんでいる。横目で見ると、航は耳まで真っ赤で、こちらにまで伝染しそうだった。
「……覚えてますけど、恥ずかしいので、その話はちょっと……」
航が僕をちらっと見る。
「……詩、覚えてる?」
「……全然」
「小さかったものね、仕方ないわ。あの時は、詩がかわいい浴衣を着てて、本当に天使みたいだった。航くんが一目惚れするのも無理ないわ」
航が動揺を隠すかのように、紅茶をがぶがぶ飲んでいる。
「やっぱり、運命だったのねぇ」
母は記憶の中の僕と航に思いを馳せるみたいに、うっとりと遠くを見て言う。
「娘に彼氏ができると、こういう気持ちになるのね」
「……娘?」
母の言葉に、航がぴたりと動きを止めた。声が一段下がって、凍てつくようだった。航の喉が上下する。次の瞬間、絡めた指がきつく締まった。呆れなのか、怒りなのか、航の感情を表すようにじりじりと痛い。
母の目には、僕も航も娘とその彼氏にしか映っていない。男である僕なんて、最初からいないみたいだ。
「詩、よかったわね。こんなにかっこいい彼氏ができて」
にこりと笑って言われて、思わず視線を落とした。航とは付き合ってない。ちゃんと否定しなくちゃいけないのに、否定したくないと思ってる自分がどこかにいる。だって、今このテーブルの下で指を絡めてることも、同時に否定することになってしまう。
「航くん、詩のこと、よろしくね」
「……はい。大事にします」
航はなにかをゆっくり飲み込むように言った。テーブルの下で、もう逃さないと言うみたいに手を絡み直して、親指で僕の手の甲をゆっくりなぞった。母に言っているようで、僕に言っているみたいだ。
「……そろそろ帰ります。紅茶とクッキー、ありがとうございました」
「まあ、もう? 詩、送っていってあげなさい」
航が、指をもう一度強く絡めてきた。
「う、うん」
慌てて立ち上がると、航と手が離れて、そこにあった重みがなくなった。さみしい。離れがたい気持ちだ。
母に背中のチャックを少し下ろしてもらって、リビングを出た。背後で二人の会話がまだ続いている。
「航くん、またいつでも来てね。昔みたいに、お泊りもしましょうね」
母の声が、砂糖をたっぷり入れた甘ったるい紅茶を飲んだときみたいに、ねっとりとまとわりつく。航がなんと言って答えるのか気になったけれど、僕はそれを振り切るように、部屋へ逃げた。
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