第7話

 母が、僕を裸にする。甲斐甲斐しく、丁寧な手つきで、男物のシャツのボタンを外し、ベルトをほどいてデニムを下ろされる。慈しむように、慎重に、レースをあしらった黒のワンピースを着せられた。


 黒髪ロングのウィッグを被せられ、固定用のピン留めを刺されたとき、地肌をえぐって痛かった。


 ナチュラルメイクを施され、ワンピースに合わせたネックレスとイヤリングをつけられた。


「さあ、できたわよ。詩、こっちにきて、立って」


 僕は言われるがまま、姿見の前に立った。

 母が背後から肩に手を添えて、鏡に映った僕をうっとり見ている。

 自分の姿から目を逸らしたいのに、母の手の重みが、僕の視線を鏡に縫いつける。


「かわいい。ほんとうによく似合ってるわ。詩は、顔が小さくて、手足が細長いもの。モデルさんみたいね」


 そんなの嘘だ。ほんとうの女の子は、こんなに骨ばってないし、胸も腰も、もっと丸みがあって柔らかい。手のひらに残った、中野さんの柔らかさの残像が、鏡の中の僕を惨めにする。


「……ゆりかちゃん、かわいかったわね……ウィンドウショッピングだなんて、素朴でいい子ね」


 耳元でじっとりとつぶやかれて、背筋が粟立った。


 僕は母にとって、完璧な人形だ。母のそばにいる限り、僕が男であることは許されない。そう思ったら、心がすーっと凪いで、呼吸が浅くなった。


 もう、これでいいのかもしれない。父の言う通り、家を出るまでは母の思い通りにしてあげればいい。そうすれば、中野さんみたいな優しい子を傷つけないで済むし、僕もこんなに苦しむこともない。それでいいじゃないか。


「このワンピースの他にも、たくさん買ったのよ。これから、毎日が楽しみね」


 鏡の中の母が、にっこりと笑う。


「……うん……楽しみ……」


 僕の返事に満足そうにすると、鼻歌を歌いながら部屋を出ていった。


 僕はひとり取り残された。力なく深いため息を吐く。刺さったピン留めが、髪を引っ張って痛い。


 ベッドに倒れ込み、自分の肩を抱いて、縮こまって眠った。

 明日は月曜だ。朝になれば起きて、航と一緒に登校して、何食わぬ顔で中野さんと廊下ですれ違わなければならない。


 ……行きたくない。


 寝返りを打つたび、頭皮がピン留めで引きつれた。




 アラームの音で、目が覚めた。カーテンの隙間から、白く淡い光が差し込んでいる。

 壁に掛かった制服が、くたびれて見えた。

 ゆっくり起き上がって、しわくちゃのワンピースのまま、リビングに下りた。


「おはよう、詩。……どうしたの? 具合でも悪い?」


「……学校、行きたくない」


 僕がそういうと、母は優しく抱きとめてくれた。


「……そう、いいのよ。今日はママと一緒に過ごしましょう」


 優しい声だった。純粋に僕を労う言葉に、母の背中に腕を回して応えた。


「さあ、まずはお風呂に入って。今日もかわいいワンピースを着ましょう」


 言葉はいつもと変わらないのに、こんなに穏やかな母は久しぶりだった。胸の奥の硬いものが、ゆるんだ気がした。やっぱり、これでいい。娘でいれば、いいんだ。


 母は上機嫌で、今日一日のやりたいことを列挙していった。それらは、一日ですべて達成できるとは到底思えない量と内容だった。それがなんだかおかしくて、母と笑いあった。


 夕方、母と一緒にクッキーを作った。


 バターと小麦粉が焼ける芳しい香りが部屋全体を包んでいる。僕は後片付けをしながら、オーブンの中でわずかに膨らんでいくクッキーを観察していた。


 不意に、家の呼び鈴が鳴った。ソファでくつろいでいた母が、玄関へと向かう。

 扉を隔てた向こう側が、妙に騒がしくなった。母が黄色い声をあげているようだった。やがて、来訪者が母と共にリビングに現れた。


 航だった。


 オーブンの唸り声が、一際大きく聞こえた。


 見られた。最悪。なんでここに? と、いろんな思考が一気に駆け巡った。

 航は僕の姿を見て、一瞬目を見開いたが、すぐに表情を引き締めたように見えた。

 僕は状況に脳が追いつかなくて、硬直した。航も同じ様子だった。互いに見つめ合ったまま、立ち尽くしていた。


「も~、航くん、こ〜んなに大きくなって~! とってもイケメンじゃないの!」


 母が静寂を切り裂いた。

 小学生以来、久しぶりに会った航の成長ぶりに、驚嘆している。


「背が高いわね~、いくつあるの?」


「……183センチです」


 母はやたらとしきりに、航に質問を繰り返している。


「あら~、詩より10センチ以上も高いのね~」


 と、僕と航の間で視線を何度も往復させて、見比べている。嫌な予感がした。冷や汗が吹き出してくる。


 母が僕に駆け寄って、


「あとはママが片付けるから、詩は航くんと部屋でゆっくりしてきなさい」


 と耳打ちしてきた。


 僕は唖然として、母を振り返った。その視線が、僕とワンピースと航を順番に舐めていくのを感じた。表情はにこにこしていて、悪意など一欠片もないようだった。同時に、拒絶は許さないみたいなプレッシャーも感じた。


 僕には、母に従うほかない。黙ってうなずいて、航に歩み寄り、


「こっち、きて」


 と声をかけた。航もなにも言わずに、ついてきてくれた。


 部屋に入ると、少しだけ息を吐くことができた。それでも、航がいるということだけで、心臓が壊れそうなほど痛く鳴っている。嬉しい。なのに、嬉しくない。僕の部屋は、誰が見ても女の子らしい部屋だ。


 航にこんな姿を見られるのがひどく恥ずかしい。ほんとうはこんな僕を、見られたくなかった。もうとっくに手遅れなのに、着替えようと思った。


 背中のチャックに手を回したけど、指が届かない。


「……やろうか?」


 それまで、いつになく静かだった航が、声をかけてくれた。

 服ひとつさえ、自分で満足に脱げない情けなさに、泣きたくなる。


「……ごめん、お願い……」


 航に背中を向けて、うなじを晒すようにウィッグの後ろ髪をかき分けて、前にまとめた。


 航の指が、そっとうなじあたりに触れた。ぞくりとして、肩をかすかに揺らしてしまった。


 じーっとチャックが下りる音がする。


 不意に、扉の向こうから母の鼻歌が聞こえた。身体が勝手に震えた。母の鼻歌は、恐怖の前兆だ。


 チャックが下りきったかどうかわからないまま、航が僕を背後から抱きしめた。


「……ずっと、こうだったの?」


 航の声が、耳元をなでた。息を吹きかけるみたいな言い方で、それだけで腰が抜けそうだった。


 僕が小さくうなずくと、航は抱きしめる腕の力を強めた。たぶん、僕を落ち着かせようとしてくれてるんだと思う。その優しさが、がんじがらめにされた心を、ほどいてくれる気がした。


 密着した背中越しに、航の心臓が早鐘を打っているのを感じた。


「……あー……だめだ……この部屋、詩の匂いでいっぱい……頭、変になる」


 航はそう言うと、僕の首筋に鼻を押し当てて深く息を吸い込んだ。腕をほどいて、こっち向いて、といって僕を向かい合わせにすると、また抱きしめた。


「な、なに……」


「詩、ごめん、こんな状況で言っちゃいけないってことわかってるんだけど……どうしても言いたい、言わせて」


 航が喉を鳴らして、続けた。


「……詩、めっちゃきれー……」


「……最悪……」


「うん、わかってる……でもまじで……詩のために我慢したいのに、止まんない……」


 航の熱い息が首筋に当たると、そこから身体全体に熱が広がっていった。


「俺、ずっと我慢してた……」


 航はそういうと、ためらいがちな指先で、僕の顎を軽く上げて、いきなり深く口づけた。


「んんっ……」


 性急に僕の口内を貪ってくる。後頭部をおさえられて、息継ぎもままならず、苦しい。僕は縋るように航にしがみついた。夢中になって航に応えた。だから、廊下のほうで鼻歌が一段、はっきりしたことにも、まったく気づかなかった。


 突然、ガチャリ、と扉が開いた。


 二人してびっくりして、振り返った。


 母だった。


 母は、嬉しそうに笑っていた。


「あら……やっぱりね。クッキーが焼けたから、一緒に食べましょう」


 母はそれだけ言って、去っていった。階下からかすかに鼻歌が聞こえてくる。

 場が凍りついた。航が母がいた場所に釘付けになって、固まっている。


「……詩、ごめん……」


 謝るなよって怒りたかったのに、言葉が喉に詰まった。

 こんなときなのに、僕の身体だけはもっと、とねだるみたいに焦れていた。


 下から、食器の触れ合う音と、早くおいで、と母の甘ったるい声が聞こえた。

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