第2話


「え?!OKしたの??!」


 航の大きな声が、下校直後で混雑する廊下に響き渡った。

 朝霧うるさーい、と野次を飛ばす者や、冷ややかな目で一瞥して去って行く者もいた。

 あっけに取られている航を見て、胸がきゅっとした。

 自分でもこの選択が歪んでいるんじゃないか、と思っているから。


「うん。だから、今日から中野さんと一緒に帰るね」


「今日からって……毎日かよ」


 航ががっくりと肩を落としている。

 毎日一緒に登下校していたから、突然の変化に戸惑うのは自然だと思う。


「ごめん、中野さんがそうしたいって言うからさ。でも、朝はいつも通り一緒に登校しよ」


 僕はできるだけ申し訳ない顔をして、手を合わせた。

 航には本当に心苦しいことをしたと思う。口約束してたわけじゃないけど、航を裏切ってしまったような罪悪感があった。


「……わかった。中野さんによろしく言っといて」


 航が虚ろな目で言った。

 そんなに落ち込むと思ってなかったから、ばつが悪かった。

 僕は、


「じゃあまたね」


 と言って、航の落ち込む姿に後ろ髪を引かれながら、中野さんのもとへ向かった。

 中野さんに返事をするまでの数日、たくさん考えた。自分のこと、母のこと。

 母の娘でいることの息苦しさ。でもそれは家の中での話だ。外では僕は男だ。女の子と付き合うことで肯定される気がした。


「小暮くんって、他の男子たちと違うよね」


 並んで歩く中野さんの言葉に、ぴたり、と足が止まった。


「え…」


 慌てて中野さんを追って、その横顔を見た。


 ──それってどういう意味?


 嬉しそうに頬を赤らめる中野さんを、捉える目が揺れた。


「いつもいい匂いするし、嫌がることしないし、女子の気持ちわかってくれてる感じ」


 息を呑んだ。

 外での僕は、男になりきれていないのか。

 耐えがたい焦燥を感じた。


「そうかな?」


 僕は中野さんの手を取った。

 たぶん、普通の男ならこうするはずだ。迷わず、正解を押し付けるみたいに触れる。

 中野さんは瞬く間に顔を真っ赤にした。


「うれしい」


 と言って、僕の手を躊躇いがちに、きゅっと握り返してくれた。

 男として見てもらえた気がして、ほっとした。

 中野さんの手のひらはあたたかいのに、僕の指先は冷たかった。

 いつも通りリビングに入ると、母がいた。

 ソファに座って紅茶を飲んでいる。


「ママ、ただいまー」


 と言って、僕は母の膝を枕にして、ソファに寝転がった。


「おかえり。詩は、今日も可愛いわねぇ」


 母は笑って、僕のウィッグの耳元を整える。

 家に帰れば母の娘に戻る。

 なぜ僕はこうまでして、自分を偽らなくちゃいけないんだろう。本当は何を守っているんだろう。

 外に出たら男になれると思っていたのに、中野さんの目にはそうは映っていないみたいだった。

 母が鼻歌を歌っている。

 僕は聴きながら、なぜか航の落ち込んでる姿を思い出した。潤んだような視線を向けられた瞬間、どきっとした。なんでどきっとしたのか、自分でもわからなかった。

 胸がじくり、と痛い。僕は痛みに蓋をするように、まぶたをぎゅっとつぶった。




 翌朝、待ち合わせ場所に着くと、既に航が立っていた。


 ……よかった。


 もしかしたら、中野さんとのことで怒らせて、もう一緒に登校してくれないんじゃないかと思っていたから。

 僕は胸を撫で下ろして、航の表情を見て息が詰まった。

 いつもは気だるげに、あくびして待っているあの航が、今は神妙な面持ちで静かに立っている。

 声をかけるのが、怖い。

 僕らの何かが変わってしまいそうな予感がした。

 呆然と立ち尽くしていると、ぱちっと目が合った。


「あ、詩、おはよー」


 ぱっと明るい表情になって、悠然とした足取りで、僕に歩み寄ってくる。


「……おはよ」


 やっとのことで挨拶を返して、並んで歩く。

 この違和感はなんだろう、と思った次の瞬間、航が指を絡めてきた。

 びくっと体が跳ねる。

 絡まった指先。航を見上げると涼しい横顔があった。


「え…な…」


「やだ?」


 優しい声とは裏腹に、航は僕の手をぎゅっと握り込んだ。

 視線は前に向けたままで、僕に拒む隙を与えないみたいだった。

 見られたら、まずい。そう思うのに、振りほどけない。

 触れたところから熱がじわじわ広がって、息が浅くなる。

 拒否したいと思えず、無言の肯定を渡してしまった。

 航の体温が、指先からゆっくりと移ってくるのが心地よかった。

 耐えられず、目線を足元に落とした。


 ……中野さんも、こんな気持ちだったのかな。


 学校に向かう道のり、生徒が増えてきても航はなかなか手を離さなくて、誰かに見られてるんじゃないかと、ひやひやした。

 遠くに校門が見えてくると、名残惜しそうに絡める指をきゅっと強めたあと、そっと離れていった。

 そこにあった熱が冷めていくのが、寂しい。


「詩、顔真っ赤だな」


 くっくっと航が笑う。


「からかうなよ」


 むくれると、航は屈託のない笑みを浮かべて、僕の頭をくしゃくしゃとなでた。

 僕はもう茹で蛸になって、全身から湯気が立っているのではないかと思った。


 ——どうして、手を繋いだの?


 理由を聞けないまま、校門をくぐった。



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