ただの地味野くん、死にそう\(^o^)/ ~彼女たちの解釈が重すぎて~

五平

第1話:地味野英雄は、ただトイレに行きたいだけ

 地味野英雄(じみの・ひでお)という名前は、彼自身の人生に対する最大の皮肉だった。

 英雄と書いて「ひでお」。親は一体何を期待してこの二文字を授けたのか。地味野は、窓際の後ろから二番目という、教室の生態系において最も影の薄い聖域(サンクチュアリ)に身を置きながら、今日もその呪いのような名前を心の中で呪っていた。


 彼の人生のモットーは「不動」である。

 目立たず、騒がず、クラスの集合写真では常に端の方で半目になっているような、そんな「背景」としての平穏を愛していた。だが、今、その平穏がかつてない危機に瀕していた。


(……まずい。これは、本当にまずい)


 地味野の額に、じわりと嫌な汗が滲む。

 原因は明確だった。昼休みに購買で「本日限定・超濃厚トリプルカフェオレ」を、安売りされていたという理由だけで飲み干したことだ。賞味期限が今日までだったその飲料は、地味野の繊細すぎる腸内環境において、今まさに「革命」を引き起こそうとしていた。


 キュルル、と。

 腹部から鳴り響く不穏な通奏低音。それは地味野にしか聞こえない終末のカウントダウンだった。

 通常なら、即座に手を挙げて「トイレに行かせてください」と言えば済む話だ。だが、今の教室の状況は、それを許さなかった。


「……だから。私は、学園祭の予算を『演劇部への衣装提供』に回すべきだと言っているの。リカさん、あなたの提案する『全クラス共通の派手な装飾』なんて、一時的な虚栄に過ぎないわ」


 冷徹な声が、凍てついた空気を切り裂く。

 クラスの学級委員にして、成績トップの才女・雪代涼香(ゆきしろ・すずか)。彼女は背筋を氷の柱のように伸ばし、対面に座るギャルたちのリーダー、リカを射抜くような視線で見据えていた。


「はぁ? 涼香マジ固すぎ。文化祭なんて映えてナンボでしょ? 演劇部とか、一部の奴らが満足するだけのことに金使うとか、マジ意味分かんないし」


 リカが机に身を乗り出し、派手なネイルで天板を叩く。

 教室内は、完全に二極化していた。雪代率いる「規律重視派」と、リカ率いる「楽しさ優先派」。その間に挟まれた中間層の生徒たちは、呼吸をすることすら憚られるような緊張感に支配され、石のように固まっている。


(……帰りたい。今すぐ、あの静かな個室という名の楽園へ帰りたい)


 地味野英雄は、机に突っ伏しながら、ただひたすらに耐えていた。

 彼の沈黙は、周囲にはどう映っていたか。

 雪代の隣に座る真面目な女子生徒は、チラリと地味野に視線を送った。

(……あの地味野くんが、あんなに深刻な顔をして黙っている。いつもは空気のような彼が、これほどまでに強い『圧』を放っているなんて。もしかして、この状況に激しい憤りを感じているの……?)


 地味野の「圧」の正体は、肛門括約筋にかかる凄まじい負荷である。

 しかし、言葉を持たない沈黙は、観測者の都合の良いように解釈される性質を持っている。


「ねえ、英雄(ひでお)はどう思うわけ?」


 火に油を注ぐように、リカが突然、話を振ってきた。

 教室内全ての視線が、地味野英雄に集中する。

 地味野の体温が、一気に数度上がったような気がした。腹痛の波が、これまでにない巨大な津波となって押し寄せてくる。


(答えたら……口を開いたら、何かが終わる……!)


 地味野は、震える唇を固く結んだ。返事をする余裕など、一ミリも残っていない。

 彼はただ、脂汗を流しながら、雪代とリカの二人を「凝視」した。正確には、彼女たちの背後にある教室の扉を、出口を、救済を、血走った眼で見つめていた。


 だが、雪代涼香の目には、その視線は全く別の意味を持って映った。

(……なんて鋭い眼差し。彼は、私とリカさんの対立の『本質』を見抜いている。私たちがどれほど子供じみた感情論に終始しているかを、あの沈黙で告発しているんだわ。名前に『英雄』を冠する男が、この醜い争いを黙って見過ごせるはずがない……!)


 雪代の背中に、冷たい戦慄が走った。

 彼女は自分と同じ「高み」から世界を見ている人間を、このクラスに初めて見つけたような錯覚に陥った。地味野の、微動だにせず、ただ一点を見つめるその姿勢。それは彼女にとって、不動の信念を持つ者の風格に見えた。


「ちょっと、英雄! 無視すんなし!」


 リカが苛立ち、席を立って地味野に詰め寄ろうとする。

 その瞬間だった。

 地味野英雄の中で、全ての防波堤が決壊した。

 いや、排泄物が出たわけではない。彼の「忍耐」が、物理的な限界を超えたのだ。


(もう……限界だ……!)


 ガタッ!!


 凄まじい勢いで地味野が椅子を蹴り、立ち上がった。

 教室内が、びくん、と震えた。

 地味野は一言も発さない。蒼白な顔、険しい眉間、そして何より、周囲の全てを「有象無象」として切り捨てるような、一直線の歩み。


 彼は歩き出した。

 雪代とリカ、二人のヒロインが火花を散らしているその「中心地」へ向かって。


「え……?」

 リカが息を呑み、思わず一歩下がる。地味野の全身から溢れ出す、切実すぎるオーラ(腹痛)に圧倒されたのだ。

 地味野は二人の間に割って入った。どちらの味方もしない。どちらにも視線をくれない。ただ、目の前を遮る「争い」という名の障害物を、物理的に排斥するかのように通り抜ける。


 雪代涼香の横を通り過ぎる瞬間。

 地味野の胃が、ギュウウウと悲鳴を上げた。

「……っ……、……ぁ……」

 歯を食いしばり、喉の奥で押し殺した呻き声。

 それは地味野にとっては「漏れる!」という魂の叫びだったが、雪代の耳には、深く、重い、失望の溜息のように響いた。


 バタン! と激しく扉が閉まる。

 地味野英雄は、そのまま廊下を脱兎のごとく駆け抜けていった。


 後に残されたのは、静まり返った教室と、それぞれの想いに囚われたヒロインたちだった。


「……あいつ、何だったの?」

 リカが、震える声で呟く。その頬は、なぜか少し赤らんでいた。

「……分からない? リカさん」

 雪代が、どこか陶酔したような眼差しで扉を見つめ返した。

「彼は、言葉で解決することを拒んだのよ。私たちがどれほど言葉を費やしても、彼のあの一瞬の『行動』には敵わなかった。彼は……一人で背負うつもりなのよ。このクラスの澱んだ空気を、あの背中だけで引き受けて去っていったわ」


「え、あ、そういうこと……? 確かに、あんな英雄、初めて見たかも……」

 リカの依存体質のスイッチが、カチリと音を立てて入った。

 自分を叱るでもなく、否定するでもなく、ただ圧倒的な「拒絶」と「覚悟」を見せて去った男。そのミステリアスな影が、彼女の心に深く根を下ろす。


 一方、廊下の隅にある男子トイレの個室。

「ふぅ…………っ! 死ぬ……マジで死ぬかと思った……」

 地味野英雄は、便座に座り、天を仰いでいた。

 ようやく訪れた平穏。静寂。自分を縛る名前も、クラスの抗争も、ここでは関係ない。

「……あー、もう学園祭の話し合いとか、マジで俺には関係ないからな。勝手にやってくれよ、本当に」


 彼はまだ知らない。

 自分がトイレに駆け込んだあの数秒の歩みが、一人の才女を狂信へと導き、一人のギャルを依存へと叩き落とし、そして幼なじみの心に眠っていた「独占欲」という名の火薬に火をつけたことを。


 地味野英雄の、望まない「英雄譚」が、今、最悪の形で幕を開けた。

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2026年1月16日 20:00
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