第3話 同期にドキドキ
冬木はまだオフィスでおのれの手相を見つめている。
あの後、老婆は彼の手のひらに特殊なインクで皮下に細工を施した。アルコールで鈍った痛覚にチクリと針を刺すような痛みが走った。
聞けば、手彫りの刺青を入れるときに使う道具みたいなものだと言う。
ちょうど健康線と呼ばれる、小指から手首へと向かう線を書き足しているようだった。
「本来は他人の手相をそのまま使うんだが、きょうはお試しだから、こんなもんだよ」
「そのまま? そのままってどういう——」
「そのままはそのままさ。はい。出来たよ。確認しておくれ」
「確認ったって……なんか変わってます?」
針を刺されたところに目を凝らしてみるが、冬木にはさっぱり変化が分からない。
あたりはすっかり夜の帷が降りていて、切れ掛かった街灯の光を頼りにしていることを考慮しても、おそらく百人が百人とも「分からない」と答えるだろう。
「ま、そこがミソってところかね。さあ、きょうはもう帰んな。やなことは忘れてぐっすり寝るんだよ——」
老婆の言葉通り、冬木は家に帰ってシャワーを浴びると泥のように眠った。
あくる朝、目覚めてみれば寝起きがいいどころの騒ぎではない。
すべての行動にバフが掛かったかのように、いつもよりも二十分先の未来に生きていた。
勤怠管理アプリに退勤を定時で打刻する。ただそれだけで全身に喜びが広がった。
このときの冬木を見て気付いた者はいるだろうか。
彼の口角が、いつもより二ミリほど上がっていたことに。
冬木は帰り支度を手早く済ませると、あらためて上司の机を確認する。そこに座席の主はまだ戻って来ていなかった。
顔を合わせばまた難癖を付けられかねない。帰るならこのタイミングしかない。
充実した一日だった。
少なくともここ数年で最良の日だ。
このまま颯爽とオフィスから出て、昨日とは違った良い酒を飲みに行こうとしたときである。
「おやおやおやぁ。これは我が同期、冬木くんじゃないか。まだ六時前だぜ。ミスターサビ残のきみが、まさか定時であがるなんてことないよな?」
嫌なヤツに見つかったものだ。
どうやらきょうの幸運はここまでらしい、と冬木は腹の中でそう吐き捨てた。
「や、やあ。元気そうだね。今度、課長に昇進だってね。お、おめでとう。遅ればせながら、同期として鼻が高いよ……」
笑顔が引きつってやしないか心配だったが、そもそも彼は自分のことなどまともに視野に入れていないことを思い出す。
いまだって「マジか」「そんなことある?」など、珍しく定時にあがる冬木をイジりまくっていた。自分の昇進の話など、まるで気にしていないかのように。
「や、このあと時間あるなら、久しぶりに飲みに行こうぜ。ちょっと内輪で話したいことがあるんだ。ほかの同期連中も呼んでさ」
やたらと馴れ馴れしい男は、冬木の事情などお構いなしだ。無遠慮に肩を組み、冬木の顎先を軽く小突くような仕草を見せる。
「……悪いけど、きょうは用事があるんだ。また今度誘ってくれないかな」
「あ、そうなの? 分かった。また今度な。絶対だぜ」
意外にもあっさりと引き下がった同期は、わざとらしくウィンクをして冬木のまえから消えていった。
悪い人間じゃないのは分かっている。だが如何せん、一緒にいると疲れるのだ。
ああいうジェットコースターのようなテンションの男とは、反りが合わない。おそらく生涯を通じて、相容れることはないのだろうと感じている。
それに嘘は言っていない。
用事があるのは本当のことだからだ。
順調だったきょう一日。冬木はずっとあの老婆のこと、そして見てもさっぱり違いの分からない手相のことを考えていた。
何時になってもいい。仕事が終わったらすぐに彼女に会いに行こう。そう心に決めていた。
軽い足取りで最寄りの駅に向かう。
帰りの電車も快適だった。車内には時間的にまだ学生たちの姿さえある。冬木もまだ二十代ではあるが、何か若いエネルギーのようなものをもらえた気がした。
そして例の飲み屋街で電車を降りると、気がつけば冬木は駆け出していた。
あの老婆に早く会いたい。
うろ覚えの路地をダッシュで探すが、予想外に難儀した。酔っていたとはいえ、おおよその見当は付いている。たしかに普段は使わない裏路地だったが、しらみつぶしに潰していけば、たどり着けないはずはないのだ。
だが見つからない。
一向にあの円卓に
これはキツネにでもつままれたか——。
オカルトや心霊を一切信じない男が、そんな血迷ったことを考えてしまうくらいには焦り始めていた。
「定休日とかあるのかな……」
軽い息切れと首元を伝う汗。
革靴で走り回ったものだから、靴擦れであちこち痛い。もう若くないなと自覚する。そもそも本当にあの老婆は実在したのか。それさえも疑わしく感じる。すべては自分の妄想で、きょうはたまたま早起きが功を奏しただけだったのだと。
急に気持ちが冷めていって、定時であがってやることでもなかったかと思うようになる。
汗で張り付いたワイシャツが不愉快だ。
なんだか全部がバカバカしく感じた。
「帰るか……」
そう諦めかけたときだった。
目の端にチカチカと明滅する光が見えた。それはあの切れ掛かった街灯の明かり。その下には豪華な座布団に鎮座した水晶玉と、静かに佇む老婆の姿が。
「……いた……やっぱりいた!」
手相……手相はいらん~かぇ~……。
黙って座れば、ピタリと当たる。吉兆、舞い込むお手伝い。
手相……手相はいらんかぇ~……。
あの調子っぱずれの客引き文句も聞こえて来ると、全身の疲労感さえも忘れて、冬木はたまらずに走り出すのだった。
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