第2話 二十分先の人生を
その日はやけに頭がスッキリしていた。
やけ酒に呑まれ、あれほど足に来ていたのに二日酔いもなく、目覚ましも一回目のアラームですんなり起きられた。
おかげで先週、捨てそびれた回収ゴミもまとめて出せたし、いままでまともに顔すらあわせていなかった近所の民生委員の人たちと挨拶なんかしちゃったりして。
こんな調子でいつもより二十分は早い時間の電車に乗ると、社会に出てから経験したことないほど車内は空いており、人生で始めて通勤電車でシートに座った。
また隣にはセクハラ冤罪を気にしないでいい程度の絶妙な間隔を置いて、アイドルかモデルのような美女が座っている。それだけで得した気分だ。
早朝二十分のアドバンテージは、そのまま一日の成果に直結する。
きょうの冬木は、爽快に起きられた分だけ心に余裕があった。
いつもより早く職場に着いた彼は、まずデスクの上を片付けた。
昨日までなら、うっちゃっていたはずの机上が、なんだかゴチャついて見えたのだ。というよりも、こんな汚い状態でいい仕事など出来るはずもない。
なぜ、昨日までの自分はこの状態を放置出来たのか——。
自分のことながら、許し難かった。
「おー君ぃ。冬木くん? 始業前に机の整頓とは感心だね。私も見習わないと」
そう声を掛けてきたのは、専務だった。
首から下げた社員証を確認してから名前を呼んだのは明らかだったが、年に数回、懇親会の席などで見掛ける程度の平社員を覚えていろというのも無理な話だ。
「これからも頼むよぉ、君ぃ。はっはっは」
「あ、ありがとうございます……」
去り際に二の腕を軽く叩かれて、愛想笑いを浮かべる。
対人能力のなさに我ながらつくづく呆れる冬木だったが、それをたまたま見ていた同僚の女性社員に「専務、機嫌良かったね」と笑顔で話し掛けられた。
「いや、ああ、う、うん。そうだね」
業務以外の内容で会社の人間と会話するなんて、いつぶりだったか。
驚き過ぎて、まともに返答出来ずにいた。
どこかにコミュニケーション能力は売っていないものかと、冬木はため息をつく。
冬木の二十分は、昼休憩を過ぎてなおその優位性を失っていなかった。
同僚たちの目から見ても、きょうの彼は圧倒的にミスが少ない。上司に叱咤されることもほとんどなかった。否、二十分まえ行動が継続しているせいで、そもそも上司との業務サイクルが、その時間分だけズレているのだ。
結果、普段は冬木のところでもたついていた仕事が、上司の指示が飛ぶまえに終わっている。
他人が注意を受けているところを見ると、ひとは気分が悪いものだ。
職場であるなら、なおさら。
そんな冬木と上司との関係をつぶさに見てきた同僚たちは「きょうの冬木は何かが違う」と確信していた。
冬木本人もまた、いつもなら定時過ぎてもまだ残っている仕事が、きょうはないことに気づくと身震いした。
ふと上司の机のほうを見る。
また終業間際にとんでもない量の雑用を押し付けられると思ったからだ。
だが予想に反して、上司の姿はなかった。
どうやら席を外しているらしい。
「冬木くん、仕事片付いたんでしょ? もう定時であがりなよ」
朝、声を掛けてくれた同僚の女性社員だった。
唐突のことで声も出せない。
「きょう、いつもとなんか感じ違ったね。お疲れ様。また明日ね」
また明日ね——また明日ね——また明日ね——また……。
冬木の耳の奥で、彼女の甘い声が何度も繰り返し響いている。そうか、きょうのおれはなんか感じが違ったのかと。
いつもの自分と違いがあるのだとすれば、それは朝の二十分——ではなく手相である。
冬木は自身の両手の平を見つめながら、昨日のことを思い出していた——。
「お兄さん、あんた手相を買わないかい?」
辻占いの老婆は、冬木の両手を優しく掴んでそう言った。
急速に酔いが覚めていくのを感じ、彼は思わず手を引っ込めてしまう。変に顔がこわばっていたのだろう。老婆はすぐさま「そんなに構えないでおくれな」と、笑い掛ける。
「人柄は顔に、人生は手に出ると言ってね。おなじように見えて、手相ってのは毎日変わっていくもんなんだよ。だから本人の心がけや行動次第で、手相はいくらでも良くなったり悪くなったりする」
「は、はぁ」
「ただ人間ってのは、楽をしたい生き物でね。世の中にはいくつも裏道があるんだ」
裏という言葉のせいで、不安な気持ちに拍車が掛かる。
自分のことを親身になって考えてくれる優しいおばあさんから一転、やっぱりどこまでも怪しげな老婆だった。
聞きたいことは山程あるが、いまは一刻も早くこの場を離れたい気持ちでいっぱいだ。
「あんたの手相を、他人のそれに書き換える。そいつが人生を変えるもっとも簡単な方法さ」
は——?
急に胡散臭くなってきた。
冬木はそもそも心霊やオカルトの類は一切信じていない。いま老婆に手相を見てもらっているのも、成り行き以外の何者でもないのだ。
そこに来て、手相を書き換えるとか——。
「……笑わせようとしてます?」
「そう思いたきゃ、ご
老婆はテーブルの端で鎮座していた例の水晶玉を、手元に引き寄せる。
切れ掛かった街灯の光を受けて、いまだにチカチカと妖しい明滅を繰り返していた。そもそもがこの水晶玉の光に吸い寄せられたようなところもあるだけに、冬木はゴクリと生唾を飲む。
この世にオカルトなどないという、自身の人生観を揺さぶられる思いだ。
「さあ、どうするね。あんたがもし本気で人生を変えたいのなら、ちょいと手伝ってあげるよ」
人柄は顔に出るという老婆の表情は、とても嘘をついているようには見えない。
しかし人生は手に出るという老婆の節くれだった十本の指が、まるで冬木を絡め取る、凶悪なモンスターの触手のように思えてならなかった。
水晶玉がチカチカと明滅を続けている。
光をじっと見つめていると、冬木は自分がいま一体何に対して拒否感を持っているのかが分からなくなった。
たとえ嘘だとしても手相を書き換えるなんて、たかが老婆の世迷い言。
でも本当だとしたら——。
まだアルコールの抜けきらぬ頭でぐるぐると考えを巡らせる。
酔いも併せてどうにも吐きそうだ。
そのうち考えるのも億劫になり、冬木は老婆に向かってそっと両手を差し出した。
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