エピローグ
王城の回廊に破壊が反響していた。
大理石を鋼鉄のソールが刻んでいく。
デア・クライネ・ムックは、自身の足首に嵌められた巨大な鉄靴の質量を感じていた。
片足十キロ、総重量二十キログラム。
今はそれが濡れて凍りついているため、更に大きいだろう。
この重みこそが、彼を地上へ留める。
早足で歩く彼の背後で、すれ違った侍女たちが壁際へと身を寄せる気配がした。
視線に含まれるのは、畏怖。
宮廷において彼は異物だ。
王の勅命を運ぶ足であり、汚れ仕事を片付ける掃除屋に対する、正当な評価だった。
ムックはふと、回廊のアーチ窓から外を一瞥した。
眼下に広がっているのは、どこまでも続く白の地平線。
……雲海だ。
この国、シュネーヴィットリアは、直径六キロメートルにも及ぶ巨大な縦穴の縁にへばりつくようにして栄えている。
深さ二千メートル地点に停滞する分厚い雲の蓋。
それが、上層の光と、下層のゴミを分断していた。
何人が落ちようと、あるいは何を捨てようと、この美しい雲が隠蔽してjくれる。
美しい国だ、とムックは鼻を鳴らした。
臭いものに蓋をしただけの張りぼて。
ムックはゴーグルの位置を神経質に直し、苛立ちを靴底に込める。
遅い。
歩く行為が、もどかしくてたまらない。
止まっているものは死んでいるのと同じ。
今の自分は死体のようなものだ。
眼前に、天井まで届く扉が聳えた。
『水晶の間』。
この国の頂点である場所。
扉には彫刻が施され、漏れ出す強烈な魔力が振動させている。
衛兵が槍を引き、重々しい音と共に左右へ開かれた。
溢れたのは光と熱気。
広大の中央、光が集う場所にその男はいた。
燃えるような赤髪の巨躯。
エドリック国王。
玉座に沈む姿は、人というよりは、意思を持った太陽だった。
ムックは呼吸を止め、膝を打ち付ける。
硬質な音が静寂を裂いた。
頭を垂れる。
視界に入るのは、自身の鉄と、王が放つ威圧感のみ。
「申せ」
降ってきたのは熱波だった。
王の声帯から放たれる圧力だけで肌が蒸発する錯覚を覚える。
ムックは伏せたまま舌を動かした。
これから告げる言葉が、自身を落とすことを理解しながら。
「……任務、失敗いたしました」
温度が急降下した気がした。
王の沈黙。
それは死の宣告となってのしかかる。
冷や汗が伝いながら、彼は継いだ。
「処刑人バルガスは、帰還しませんでした」
数時間前、ムックに課せられた任務は、退屈なほどだった。
王の影たる処刑人バルガスを、奈落の底まで送ること。
そして、バルガスが仕事を完遂し、王女の死体を確認して戻ってくるまで待機し、再び運ぶ。
ただそれだけの役割。
だが、男は戻らなかった。
予定時刻を過ぎても、螺旋階段を降りてくる足音は聞こえない。
ムックにとって、待つという行為は自殺に等しい。
焦燥感に耐えかね、彼は駆け上がった。
壁面を蹴り、瓦礫を足場にし、螺旋を逆走する。
最上階に達した時、雪と共に飛び込んできた光景。
それが焼き付いて離れない。
「現場である塔の最上階にて、バルガスは……氷像へと変貌しておりました」
ムックは事実を淡々と報告した。
塔の中央に屹立していたのは、巨大な氷の樹木だ。
透明な結晶に封じられたバルガスの死に顔。
その表情は驚愕に彩られていた。
咲き誇った華は鮮血を閉じ込め、ルビーのように美しく輝いている。
「……そして、」
ムックは言葉を区切る。
彼が壁の陰から見た時、そこには死体以外にも存在があったのだ。
「生存者は二名。ターゲットであるアイシア王女。そして……異界の役立たずです」
空気が震える。
ムックは反芻する。
吹きすさぶ雪の中、瓦礫の陰に寄せる影。
泥と血にまみれた少女と青年。
彼らは互いの指先を触れ合わせ、何かを語っていた。
ムック自身が気配を殺していたこともあって、彼らは露ほども気づいていない様子だった。
ムックはその時、彼らを襲撃しなかった。
本来なら、その場で靴の錆にしてやるべきだった。
だが、ムックの本能が警鐘を鳴らしていたのだ。
あのバルガスを一瞬で樹氷に変えた何か。それが王女の力なのか、あるいはあの薄汚い男の仕業なのか。
正体不明の予感がして、足が止まった。
……怖気付いたのではない。確実な狩りのための判断だ。 そして、不測の事態を王へ伝えることが優先だと判断したからだ。
彼は二人が動き出す前に離脱した。
塔の外壁を垂直に駆け下り、音速で王城へと戻ったのだ。
「……彼らはまだ、発見されたことに気づいていません」
ムックの報告が吸い込まれていく。
王の反応は、低い笑い声だった。
愉悦ではない。
足掻きを見下ろすような音。
王が指先を弾く。
玉座の脇に鎮座していた『鏡』が蠢いた。
漆黒から靄が吐き出され、空中に結ぶ。
映し出されたのは、身を寄せ合って歩く二つの染みだった。
銀髪の少女と、黒髪の青年。
彼らは生きていた。
世界の底で、身の程知らずに。
「予言は動き出したか」
王が独りごちる。
その瞳に炎が灯った。
もはやただのゴミではない。
敵対者としての認定。
ムックに期待が走る。
……来る。
この私に勅命が下るはずだ。
あの縦穴を最高速度で駆け、彼らを追い詰め、その希望に輝く顔を鉄靴で砕く。
逃げ惑う獲物の速度をゼロにする瞬間こそが、彼の快楽なのだ。
「ムックよ」
「はッ」
踵を打ち、ムックは顔を上げる。
筋肉が準備を整える。
いつでも行ける。
王を待つ。
「下がれ。貴様の役目は終わった」
思考が凍結した。
王はすでに彼への興味を失い視線を投げていた。
呼気が漏れる。
王は続けた。
「第三騎士団へ伝えよ。奈落の封鎖を強化し、ネズミ一匹通すなとな」
屈辱だった。
ムックは食いしばり、伏せたまま拳を握りしめた。
革の手袋がきしむ。
自分は評価されていない。
ただの運び屋。
戦闘力など期待されておらず、あの異界の屑と同レベルとして扱われている。
「……御意」
喉から血が出る力で絞り、ムックは立った。
踵を返す。
重厚な金属音が響く。
大理石を削る。
だが、扉へ向かう彼にはどす黒く炎が再点火していた。
……許せない。
自分のプライドを傷つけたすべてを、この鉄靴ですり潰してやる。
王は命じなかった。
だが、禁じてもいない。
ムックは舌なめずりをして扉を押した。
ただ欲望のために狩ろうとする、歪んだ執着が滲んでいた。
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奈落に捨てられた一般人が、バッドエンド確定のヒロインたちを救ったら最強ハーレムができていた 練無 猫 @n_c
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