第19話
晴人は上半身を起こそうと試みた。
だが、筋肉が拒絶する。
背中を氷に預けたまま、隣で膝を抱える彼女を見上げることしかできない。
彼女はボロボロになったドレスの裾を握り、肩を小刻みに震わせていた。
その頬を雫が絶え間なく落ちている。
彼女はまだ泣いていた。
人を殺した感触が残っているのか、あるいは極限から解放された反動か。
睫毛が瞬くたびにこぼれ、頬に筋を作っていく。
晴人の視線が、周囲の破片に向けられる。
それはかつて、彼女を守っていた棺の残骸だ。
あの氷の中の彼女は、静謐で、傷ひとつなく、完成されたように美しかった。
ただ永遠の眠りにいた聖女。
だが今は血にまみれ、寒さに震え、涙を流している。
……自分が壊したのだ。
安易な感傷と、独りよがりな善意で妨げた。
地獄へと引きずり出してしまった。
罪悪感が刺す。
彼女が苦しんでいるのは、自分のせいではないか。
彼女は美しいまま終われたのかもしれないのに。
「……すまない」
零れた謝罪はかき消されそうなほど弱かった。
彼女が顔を上げる。
潤んだ瞳が、揺らぎながら晴人を捉えた。
「どうして、謝るの?」
鼻声で湿っている。
「余計なことをした……」
晴人は頬の筋肉を引きつらせた。
まだ苦味が残っている。
「君の眠りを、覚ましてしまった」
彼女は首を振った。
銀糸のような髪が、風にさらわれて流れる。
「いいえ。……貴方は、私を救ったわ」
彼女の手が、晴人の左手に触れた。
冷たいはずの彼女から体温が伝わってくる。
「貴方がいなければ、今頃、首斬られていたわ」
彼女の瞳に複雑な光が宿る。
威厳と弱さが同居する、不思議な眼差し。
「それに……あたたかかった」
彼女は晴人の手を、自分の頬に寄せた。
「暗い氷の中で、貴方が触れた。貴方だけが、私にぬくもりをくれたの」
その言葉に、罪悪感が少しだけ溶けていくのを感じた。
自分は彼女の平穏を壊したのかもしれない。
だが、彼女は救いと呼んでくれた。
ふと、晴人の胸元で振動があった。
スマホを取り出す。
画面が、最後の輝きを放っていた。
バッテリー残量、一パーセント。
右上の隅で、電池のアイコンが赤く点っている。
文明との繋がり。
元の世界への未練。
そして自分たちを救った音源。
それらが今、断ち切られようとしていた。
「……名前」
彼女が小さな声で言った。
涙を拭い、晴人を真っ直ぐに見つめている。
もう泣いていなかった。
まつ毛の奥で光が灯り始めている。
「私は、アイシア・フォン・シュネーヴィットリア」
……シュネーヴィットリア。
国の王女。
しかし今は国に命を狙われる獲物だ。
自らの胸に手を当て、凛とした声で告げた。
「貴方の名前を、教えて」
晴人は一瞬、迷った。
だが、自分は彼女に嘘をつくことはできないと悟った。
それに、もう自分はただの会社員ではない。
「……晴人。香具山晴人」
スマホの画面が暗転した。
黒い鏡に戻ったディスプレイには、汚れた顔と空だけが映り込んでいる。
もう、アラームは鳴らない。
地図も、天気予報も、懐かしい写真も見られない。
ここからは、時間さえも自分で刻まなければならないのだ。
「ハルト……」
アイシアは響きを確かめるように転がす。
彼女の頬が綻び微かな赤みが差した。
瞳が涙の膜越しに細められる。
彼女は大切な飴玉でも味わうように、もう一度、小さくその名を呼んだ。
甘く、弾むような響き。
……風が吹き抜ける。
雪が二人に落ち、髪や肩に積もっていく。
晴人はアイシアの手を握った。
彼女は一瞬肩を跳ねさせたが、晴人に目を向けて、すぐに握り返す。
彼女の指はまだ冷たかった。
だが、その冷たさだけが今の彼にとっての熱だった。
二人の体温が、混ざり合う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます