第18話
……テテテテッ、テテテテッ。
アラーム音だけが響いている。
バルガスだったものは、いまや一本の巨大な樹氷と化していた。
肉を破って天へ伸びた枝は鋭利で、青白く発光している。
色彩。
透明の中に、男から噴き出した鮮血が閉じられ、無数の赤い葉脈となって広がっているのだ。
ルビーを散りばめた輝き。
空を掴もうとしていた右腕は奇妙な角度で凍りつき、何かを求めている。
マスクが剥がれ露わになった素顔は驚きに染まっていた。
死体がこれほどまでに美しく見えるなど、寒さで麻痺してしまったに違いない。
痛みが遠のいていく。
代わりに眠気が襲ってきた。
緊張の糸が切れたことによる反動。
沈んでいく意識の縁でアラームが途切れたのを聞いた。
静寂が戻る。
雪が舞う音さえ聞こえそうな静けさで、彼女がゆっくりと振り返るのが見えた。
彼女の銀髪が揺れる。
その顔色は儚げだった。
彼女はふらりと身体を揺らし、糸が切れたように崩れ落ちる。
その落下地点は晴人の胸だった。
……重み。
そして、冷たさ。
彼女の身体から熱が完全に失われている。
まるで氷を抱いているような錯覚。
晴人の薄れゆく意識が警鐘を鳴らす。
このままでは彼女が死ぬ。
自分の命などどうでもいいと思えたはずなのに、この少女が消えてしまうことへの恐怖だけが繋ぎ止めていた。
……動け。
晴人は心で叫ぶ。
だが、指先一つ動かない。
暗転していく。
最後に見たのは、彼女の閉じた瞼と、その長い睫毛に積もろうとする雪片だけだった。
……覚醒は味覚の蹂躙によってもたらされた。
苦い。
舌の根を鷲掴みにされ、ねじり上げられるようなえぐみ。
泥と、青臭い汁、そして鉄の味が混濁した液体が、喉の奥へと押し込まれてくる。
呼吸ができない。
晴人は底から引き上げられた。
重い瞼を開く。
視界は白く濁り歪んでいた。
だが、唇に触れている感触だけは鮮明だった。
柔らかく、湿った感触。
晴人の唇を塞いでいる。
それは甘美な接吻ではない。
漏れを防ぐための、内容物をこぼさぬための必死な密着だった。
熱い吐息が混ざり合う。
舌が、晴人の舌を割り、固形物を含んだ液体を食道へと送り込んでくる。
ぬるりとした喉越し。
唾液と植物の汁が混合した生温かい粘液。
……嚥下する。
その振動が伝わったのか、唇がゆっくりと離れた。
糸が二人の口元を繋いで伸び、プツリと切れる。
「……飲んで」
震える声。
視界が合う。
すぐ目の前に彼女の顔があった。
あまりに近い。
彼女の硝子の瞳が、晴人を覗き込んでいる。
その瞳から、大粒の雫が溢れ出していた。
晴人の頬に落ち、耳へと伝う。
……彼女は泣いていた。
声を押し殺し、涙を流しながら、噛んだ薬草を晴人に与えていたのだ。
その表情は、安堵と悔恨、そして恐怖がない交ぜになった、子供のような泣き顔だった。
口元は緑色の汁と血で惨めなほど濡れている。
それでも彼女は懸命に促してくる。
背徳的な献身。
晴人はむせ返りそうになるのを堪え、胃に落ちた異物を感じていた。
焼けるような刺激。
だが不快なものではなく、生命活動を再始動させるトリガーとなった。
……数秒後。
破裂していたはずの脇腹から痛みが引く感覚が訪れる。
痺れと、活性化。
傷口が塞がったわけではない。血液が戻ったわけでもない。
だが、死からは確実に戻された。
「……っ、は」
荒い呼気が漏れた。
肺が空気を取り込み主張する。
彼女は、晴人の呼吸が安定したのを見て、力が抜けたようにへたり込んだ。
顔を伏せ、肩を激しく震わせる。
嗚咽が漏れた。
高貴な王女の面影はその銀髪と瞳の色のみ。
今の彼女は等身大の少女だった。
晴人の視線が、彼女の手に寄せられる。
彼女が握りしめているのは、すり潰された深緑色の塊だった。
晴人は息を呑む。
白魚のようだった指は赤く腫れ上がり、爪には土が深く食い込んでいる。
皮が剥け、血が滲んだ指の腹。
彼女は、道具もすり鉢もないこの場所で、薬草をどうやってペースト状にしたのか。
石で潰したのか。
あるいは、爪が剥がれるのも構わずに引き裂いたのか。
「……苦かった?」
彼女が、濡れた袖で口元を拭いながら尋ねた。
晴人は掠れた声で答える。
「……うん。とっても」
それは本心であり、同時に、最大限の感謝を含んだ言葉でもあった。
この苦味と、頬に残る彼女の涙の熱さこそが、生の味だった。
彼女は目を細め、少しだけ口の端を持ち上げる。ぎこちない笑顔だった。
「王家の秘薬よ。……彼が、持っていたの」
彼女の視線をなぞるようにして、背後に聳える氷の樹へと向けた。
バルガスと呼ばれていた肉塊。
結晶に閉じ込められたその腰元に破壊の痕跡が残されていた。
男が身につけていた革のベルトが切れ、吊り下げられていたポーチが引きちぎられている。
雪の上に散乱する硝子瓶の破片と粉末。
彼女は、あの凍りついた死体に這い寄ったのだ。
自分を殺そうとしていた男。
その死体に触れる恐怖はどれほどのものだったか。
それでも彼女は、氷に埋もれたポーチを強引に剥ぎ取った。
彼女の指先に滲む血と、爪の間に深く食い込んだ土は、その時の必死な抵抗と、渇望が刻んだ爪痕だった。
彼女はもう守られるだけの少女ではない。
死体から奪ってでも生きようとする、一人の生き残りだった。
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