第17話
ワイヤーが放たれる寸前。
死の秒読みが完了しようとしていた。
……テテテテッ、テテテテッ、テテテテッ。
突如として逆撫でするような音が裂いた。
それは風の音でも、氷が割れる音でもない。
乾燥した打撃音と不協和が組み合わされた、人工的で、焦燥感を煽るリズム。
安アパートの六畳間。トーストの臭いと、隣室の換気扇の低周波。
そんな日常の残滓が、バルガスの足元で響いている。
晴人の胸ポケットで、スマホが起床時刻を告げたのだ。
バルガスの動きが、コンマ数秒、凍結した。
驚愕ではない。
思考を、解析へと奪われたのだ。
未知の音源。一定のリズム。
魔道具か。それとも援軍を呼ぶ合図か。
異常性を目の当たりにしたがゆえに、男の警戒心は極限まで高まっていた。
だからこそ、無視できなかった。
得体の知れない音が刺激し、意識を強制的にスライドさせた。
その一瞬の隙。
バルガスが思考にはまり込んだ、致命的な空白。
……待っていた。
その瞬間を、彼女はずっと待っていたのだ。
晴人の視界の端で、白銀の影が爆発的に動いた。
地を蹴った。
彼女の華奢な足が、凍てついた石畳を強く踏みしめる。
彼女は男の懐へと飛び込んだ。
バルガスが気づいた時には、すでに遅かった。
男が顔を上げた目の前で、彼女の右手が突き出される。
その掌には透明な殺意が凝縮されていた。
大気が恐怖に震え、悲鳴を上げた。
少女の爪先から質量を伴って隆起する。
それは優美を描きながらも、時間の連続性を無視して成長した。
爆発的な速度で、氷結した荊棘がバルガスの革靴を蹂躙する。
靴底を貫き、足の甲を縫い、脛骨を喰った。
肉が裂けるよりも先に内側から破裂する。
繊維が裂する音と、骨が散る音が、和音となって響いた。
蔦は獲物の体温を吸いながら遡上していく。
流れる血液さえも泥へと変えながら。
男が指先のワイヤーを引こうと筋肉を収縮させる、そのコンマ一秒の隙すら許さない。
切っ先が、防御のために上げようとした右の前腕を貫通していた。
骨の間を割り、関節を逆へ切る。
男の指先から力が抜け、赤黒いピアノ線が液体となって滴り落ちた。
革のマスクが硬化する。
柔軟性を失った獣皮は、バルガスの頬骨を砕くほど収縮した。
男は顎関節が外れるほどの大口を開け絶叫を放とうとする。
だが、口腔こそが、氷が望んでいた経路だった。
舌の根から、結晶が這い上がる。
濡れた肉が硝子へと置換されていく。
突き進む棘が、震える声帯を塞いだ。
悲鳴は形を成す前に殺される。
肺から逆流しようとした熱い呼気がダイヤモンドとなって煌めいた。
呼吸の遮断。
眼球が飛び出さんばかりに見開かれ、白目が朱に染まる。
その瞳に映るのは、喪失への絶望だった。
咲き誇れ。
少女の意思が人形を苗床として発芽した。
背中という一枚の皮膜が圧力に弾け飛ぶ。
脊椎が幹となって空へ、肋骨がこじ開けるように開かれた。
それは花が蕾をほころばせる瞬間に似ていた。
熱量を貪り尽くし、華麗な結晶が伸長していく。
最後のひと押しによって噴き出した動脈血は空気に触れない。
鮮烈は散るよりも早く捕らえられた。
透明度の高い氷の中に留められる。
それは、巨大な水晶に封入されたルビーだった。
死に絶えた灰色の世界に、氷の樹木。
その枝葉に、かつて生命だったものが飾られている。
あまりに冒涜的で、残酷で、けれど静謐な芸術が、そこに完成していた。
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