第16話

 晴人がワイヤーを掴んだ瞬間、硬度が消失したのだ。

 鋼鉄として固定されていたはずの血液が、触れた刹那、その支えを剥奪された。

 晴人の身体に空いた穴が魔法という奇跡を貪った感覚。

 赤は液体へと還元される。

 血液が重力に従って崩れ落ちた。

 雨となって晴人に降り注ぐ。

 冷たく、粘りつく感触。


 晴人は呆然と、自分の左手を見つめた。

 指は五本、繋がっている。

 ただ赤黒い液体が落ちているだけだった。


「……は」

 バルガスの動きが凍りついた。

 指揮者のように優雅に振っていた指先が止まっている。

 男の視線が、晴人の左手に釘付けになった。

 切断された指はない。

 濡れた掌で虚空を握る瀕死の男の姿だけ。

「な……何をした」

 バルガスの声から余裕が剥がれた。

 困惑。

 魔法が、防がれたのではない。無かったことにされたのだ。

 その異質さが、背筋に恐怖を走らせる。

 晴人自身もまた、混乱の中にいた。

 なぜ助かったのか分からない。

 晴人は霞む視界をバルガスへ向けた。

 言葉は出ない。表情を作る筋肉も動かない。

 だが、その瞳だけは意思を持っていた。


「……魔法の構成に不備はない。魔力供給も正常」

 バルガスはすぐに冷静さを取り繕い、分析を始めた。

 だが、その目は笑っていない。

 好奇心と警戒心が入り混じっている。

 男は靴先で晴人の掌から落ちたばかりの血液を突いた。

 それは氷の窪みに沈殿している。

「貴方は私の魔法を、吸い込んだのですね」

 バルガスは晴人の顔を覗き込む。

 その瞳は未知に対する探究心だった。

 晴人には理解できなかった。

 なぜ自分が生きているのか。なぜワイヤーが水に戻ったのか。

 思考しようにも脳が霞んでいる。


 ……視界の端で気配が動いた。

 彼女は座り込み、晴人を凝視している。

 彼女の瞳から濁りが消えていく。

 代わりに宿ったのは、事象を観察する理知だった。

 あの男の魔法が消えた瞬間を、彼女だけが正確に目撃していたのだ。

 彼女の唇が微かに動き、音のない言葉を紡ぐ。

 その表情は勝機を見定めたそれへと変貌しつつあった。


「なるほど。貴方の肉体そのものが、魔力を拒絶する特異点というわけですか」

 バルガスが納得したように頷く。

 男は一歩、後ろへ下がった。

 晴人の手が届かない、安全圏へ。

「触れた瞬間に瓦解する。……ならば、境界線はどこにあるのでしょう」

 バルガスが指を弾く。

 彼の視線は少し離れた血だまりに向けられていた。

 ……二度目の詠唱。

 空気が振動する。

 その瞬間、晴人は目撃した。

 自身の頬を伝う雫、シャツに染み込んだ赤。

 それらは動かなかった。

 魔法の干渉を受けずただ重く垂れるだけだ。

 まるで死んだ物質のように。

 対照的に氷の上に落ちていた飛沫だけが叛逆を開始した。

 糸に引かれるように浮上する。

 晴人の「無効化」の影響圏外にある血液だけが、バルガスに応えたのだ。


 血液が収束し、再び線が形成される。

 長さは一メートルにも満たない。

 だがその短さが、取り回しの良さを生んでいた。

 鋭い音が鳴る。

 再構築されたワイヤーが、バルガスの手元で潜める。

 しかし、その切っ先が向いているのは晴人ではなかった。

 数メートル離れた少女を正確に牽制していた。

 バルガスは彼女への警戒を緩めていなかったのだ。

 背を見せていようと常に獲物に当てられている。

 彼女の指先が、氷の上で微かに震えた。

 彼女は好機を窺っている。

 だが、動けない。

 呼吸一つ乱せば首が飛ぶことを理解させられている。

 完璧な制圧。

 男が放つ重圧は檻となって彼女を縛り付けていた。


「貴方は魔法を殺す『穴』のようだ。……ならば、わざわざ指を突っ込む愚は犯しません」

 バルガスは方針を転換した。

 男は彼女へと意識を固定する。

 最も合理的な選択。

「貴方は後回しです。まずは、殿下から退場していただきましょう」

 バルガスの宣告に早鐘を打つ。

 自分の身体なら守れた。触れれば消せるからだ。

 だが、離れた彼女を狙う魔法はどうすることもできない。

 動けない。

 指一本動かす力も残っていない。

 晴人は霞む視界を彼女へ向けた。

 彼女は、もう震えてはいなかった。

 膝をついたまま、深く、静かに息を吸い込んでいる。

 彼女の周囲が歪んで見えた。

 ダイヤモンドが彼女の髪に寄せられ、螺旋を描き始めている。

 ……彼女は諦めてなどいなかった。

 守られた命をただ無為に散らすことを、拒絶したのだ。

 彼女の瞳が一点を見ている。

 臨界点。

 剣を喉元で留めていた。

 ただ好機を待っている。

 相打ち覚悟の殺意が、肌を刺す冷気となって伝わってきた。

 だが、バルガスもまた一流だった。

 気配を感じ取っている。

 ゆえに、男は警戒を解かない。

 ゆったりと腕を振りかぶったのは、彼女を誘うためのフェイントだ。

 彼女が動けば、即座にワイヤーが喉を刈る。

 動かなければ、そのまま首を飛ばす。

 ……チェックメイト。

 隙など存在しない。


「お休みなさい、王女殿下」

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