第15話

 地面に転がった晴人は沈んでいくようだった。

 指一本動かせない。

 信号は遮断され、神経で霧散している。

 喉も潰れたように熱く空気の音しか出ない。

 ただ、目だけが機能していた。

 氷にへばりついた視界の端で、吐き出された汚物と鮮血が見える。

 鉄錆と胃酸が鼻孔を塞ぎ、絶望感が勝っていた。


「……やめて」

 悲痛な声が響いた。

 彼女はへたり込んだまま、晴人を見て唇を戦慄かせていた。

「その人は関係ないわ……ただ、通りかかっただけなの。貴方の目的は私でしょう」

 懇願だった。

 自身の命乞いではない。これ以上他者が壊されることへの拒絶。

 その高潔さが今の晴人には眩しすぎた。

 バルガスは鼻で笑った。

「ええ、関係ありません。彼はただの障害物であり、風景のノイズです」

 男は氷上の、晴人が流した血液を踏みしめた。

「ですが、王女殿下。貴女は理解されていないようだ。庶民が我々の足を塞ぐこと、それ自体が罪なのですよ」

 バルガスが指を掲げると、氷に広がっていた晴人の血が蠢き始めた。

 重力に逆らい空へと吸い上げられていく。

 それらは既存のワイヤーと融合し、さらに長く、禍々しい変貌を遂げた。


「ご高覧ください。この美しい赤を」

 バルガスが両手を広げる。

 血のワイヤーは今や数メートルの長さに及び、男の周囲を取り巻いていた。

 光を反射して濡れた輝きを放つ。

 その先端は彼女の眉間を執拗に狙っていた。

「あ……」

 彼女は後退ろうとするが、背後は瓦礫の山。

 彼女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。

 それは恐怖、同時に悔恨でもあった。

「私のせいで……私が生きているせいで……」

 自虐。

 宿命そのものを呪う呟き。

「その通りです。貴女は存在するだけで周囲を不幸にする」バルガスは恍惚とした表情で、ワイヤーを操った。「ならば、ここで清算しましょう」

 風切り音が時を刻む。

 男はすぐに殺しはしなかった。

 誇示するようにワイヤーを大きく旋回させる。

 虫に無力さを理解させようとするパフォーマンス。

 軌道が晴人を通過する。

 顔が切れそうなほど近くを過ぎていく。


 晴人は瞬きさえできなかった。

 自分はもう動けない。

 助けることも、叫ぶこともできない。

 ただ、彼女が切り刻まれるのを最前列で見せつけられるだけだ。

 絶望が埋め尽くしていく。

 ……しかし、抗おうとする人格がまだ存在した。


 線が軌道を変えた。

 バルガスが手首を返し、トドメを放つ助走としてワイヤーを大きく薙ぎ払ったのだ。

 遠心力を乗せた赤が、晴人の鼻先数センチを通過する。

 まつ毛を揺らし、眼球が乾くほどの近距離。

 硬度を持った、かつて自分だった液体。

 それが唸りを上げて少女を刎ねようとしている。


 刹那、決壊した。

 理屈ではない。

 計算でも自己犠牲でもない。

 ただの不快感だった。

 自分の血だ。

 それが生き物を壊す凶器として利用されている。

 その構図が刺激した。

 許せない。

 自分を殺すなら勝手に殺せばいい。だが、自分の血で彼女を汚すことは、魂が拒絶した。


 ……動け。

 晴人は心の中で咆哮した。

 意識を引きずる。

 激痛など知ったことか。

 肺が潰れていようが、骨が砕けていようが関係ない。

 今、動かなければ死ぬよりも惨めになる。

 視界が赤く染まる。

 戻ってくるワイヤーの軌道が見えた。

 思考する時間はない。

 晴人の左手が跳ねた。

 それは意志というよりは、電流を受けてのたうつような、暴発だった。

 指が空に突き出される。


 掌に鋭利な金属が食い込む感触があった。

 皮膚が裂け、真皮層が断ち切られる。

 指が落ちる。

 晴人はそう確信し、奥歯を食いしばった。


 だが、骨の断裂音は響かなかった。


 代わりに、奇妙な空白が訪れる。


 ……重たい水袋が破裂した音が静寂を汚した。

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